第10話
(その10)
――儂と
夕餉の皿に伸ばしたナイフが老人の太い言葉と鳥の腿肉を切り裂く。皿には鶏肉の汁が広がるがミライの心には老人の謎の言葉が広がっていく。
それが心の隅まで流れた時、シリィの言葉が雫のようにぽとりと音を立ててミライの鼓膜に落ちた。
「ミライ・・あまり口に合わない?」
その言葉に慌てて顔を上げてシリィを振り返り、軽く首を左右に振る。
「とんでもない、とても美味しいよ。これはエリアンのとこの鳥だね。良く肥えて歯ごたえもあるし、何よりもシリィ・・君の味付けがとても香ばしい、スパイスがとても良く効いてる」
「そう、その割にはずっと黙っているけど」
彼女の言葉にちらりと視線をローに向ける。
――ミライ、今儂が言ったことはシリィには他言無用で願う、いいな。
銃砲を解除しながら自分に向けられた厳しい言葉を思い出す。
(本気なのか・・?)
疑念のある視線を老人へ向ける。
言葉をかけた当の本人は、何事もないように口に鶏肉を頬張っている。
(気楽なものだな)
思いを探るようにシリィが自分を見つめている。
シリィに対して不自然さを隠すため、少し溜息を吐きながらローに向けた視線の落ち着く先を探そうとゆっくりと動かしていく。その視線の先をシリィも後を追っているようだった。
(何かを感じたかな?)
どこか苦笑したくなるのを抑えてランプの届く光と影を沿うように走らせると、視線の先に何かが見えた。
(あれは・・?)
ミライの視線が止まる。
「母よ、ミライ」
声に振り返る。
「母だって?」
「ええ」
彼女の返事に呼応するように視線を戻す。
視線の先に一枚の肖像画があった。
(これが・・シリィの母親・・)
ミライは視線の先にかけられた肖像画を見た。
黒い背景に浮かび上がる白い肌に栗色の瞳、シリィと同じような髪を額の真ん中で分けてこちらを見つめる婦人がそこに居た。
「あの絵の婦人が君の母親なのか」
ローの一家とは長い付き合いだったが、シリィの母親の事はあまり知らない。祖父に聞いたこともなければ、ロー自身にも聞いたことは無かった。
それは関心がないということではない。互いにそうした問題には触れあわないことがこの山岳での嗜みともいえた。
考えなければならない。
厳しい山岳の暮らしであれば山の獣に襲われることも、不慮の事故で親族がなくなることもあるだろう。それらがまだ弔いができることであればいいのだが、神隠しや見えぬ人さらいに遭遇することもある。山岳にはその奥に闇が広がり、それらはいつ闇の中から姿を現し、牙を向くかもしれぬ。
ゆえにそうした不運を避け、縁起を担ぎたくなるのが山岳生きる人々の気性と言えた。
――幸は分け与えるが、不運を隣人には運ばぬ。
ゆえに人の死さえも必要最小限の者にしか伝えない。
(もしかしたらシリィの母親もそうしたことかもしれない)
ミライは直感的に山岳人としての感情で物事を見極めた。
だからそれ以上何も言わなかった。
だが、老人が言った。
「美しいだろう、娘は?」
静かな重い言葉だった。何かを引きずるような余韻をミライは感じたが、しかし老人はそれ以上何も呟くことなく黙って皿の鶏肉へナイフを差し込んだ。
「ロー・・」
ミライが老人に言う。
「何だ?」
これ以上娘の事は答えない、そんな気迫を言葉尻から発する。
ミライはそれに首を振る。
「実は今晩から別の急な仕事でここを離れる」
「急な仕事だと?」
意外な事に少し老人が驚く。
「ああ、実は夕餉の後にここを去る」
「去るのか?」
驚いて声を鋭く放つ。シリィの陰を含んだ表情が見える。
ミライが慌てて手を振った。
――老人に、ミライに対して
「いや、言い方が悪かった。その仕事が終わり次第またここに戻るつもりだ。仕事がまだはっきりしないが、二、三日で戻る」
それを聞いて老人が噴き出すように大笑いする。
「仕事の内容が分からないって言うのに、戻る日にちは決めるってぇのかぃ?」
ガハハハッ!!
豪快な笑い声が部屋中に響き、テーブルの上の皿が揺れる。
「まぁ・・そういうことだ」
それには成程なという表情でミライもつられて笑う。
「いやはや、ミライ。そんなことでは困るぞ。お前はこのシリィの婿になってもらうと儂が決めているんだ。しかしだ、そんな曖昧さではおちおち孫をお前の嫁には出せんではないか」
老人が言った意外な事にシリィとミライが一瞬顔を合わせて、驚いて老人を顧みる。
「何だ。お前達、儂を見て」
シリィが耳まで朱に染まる表情をして言う。
「おじい様、何ていうことを」
カラカラと大声で笑う。
「シリィ、何も言わんでいい。お前の気持ちなどこの祖父には全てお見通しじゃ。ミライが初めて奴の爺様とこの家に来た時から、お前はミライだけをずっと見つめている。このアイマール全部の器量の良い男たちの中でもお前はずっとミライだけを見ている、違うか?」
そこまで言うと穏やかな表情になって孫娘の栗色の髪を撫で始めた。
節くれだったゴツゴツトした大きな手がシリィの髪の毛一本一本を優しく撫でる。
「良く・・ここまで美しい娘になった。どこに出してもおかしくない器量と男を盛り立てる度量があるお前は・・素晴らしい若者の所に嫁がなければならない。そうでなければ幸せにはなれぬだろう」
言ってからミライを見た。その眼差しの奥に愛する者を託そうとする感情が沸きあがっている。
「ロー・・」
ミライが老人へ何事かを語りかけようとする。
その先を老人がすこし笑いながら押さえる。
「祝言なんぞは、この老人が死んでからでも良いのだ。いいか、ミライ。シリィを頼んだぞ。お前も満更ではあるまい。それにそれが儂とお前のとこの爺さんとの約束なんだ」
そこで一呼吸置く。
「死なぞ・・・、生き残った者にとって何事であろうか?なぁミライ、そうではないか?次へ続く若者をどう生かすかを死者は考えて命を終えなければならないのではないか?」
老人が寂しく微笑する。
ミライは目を見開いた。それは一瞬だけだった。瞬時に見引かれた眼は老人の微笑の奥に消えていく。
――知っていたのか
ミライは顔を下げる。
それを見てローが言う。
「ミライ、顔を下げるな。上を見えろ。これからお前は仕事があるのだろう。それに行かねばならない」
ミライは顔を上げた。
「そうじゃ、それでいい」
老人は微笑する。
「儂にも命を終える前に大事な仕事がある。儂だけの仕事がな。だがまずはミライ、お前が帰るのを待とう。シリィと一緒にこの家でな」
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