#15 追憶

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【追憶】

 1973年 アメリカ映画

 監督:シドニー・ポラック 出演:バーブラ・ストライサンド ロバート・レッドフォード ブラッドフォード・ディルマン

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         ◎


 数年が過ぎ、桜は社会人となっていた。

 大学を卒業後、地元の映像制作会社の総合職に就職。大手の映画会社とも繋がりがあり、地域おこしを足掛かりに、いずれは商業映画に進出しようという気概を抱いた企業だった。


 結局、映画という魔力に囚われてしまったのか――。

 桜は社会人としてこの仕事に就いたことをちょっとだけ自嘲気味に捉えていた。



 秋彦とのことが終わってからは、桜に浮いた話はとんと訪れなかった。


 風の噂に聞くところでは、秋彦は早季と別れたらしい。けれど桜にとってはもう関係の無い話だった。


 あいかわらず映画館へ足を運ぶことに勤しんではいたが、殆どは連れも無く独り観賞の日々だった。

 たまに絵笑子と連れ立ってシネコンへ行くようになったのが、いちばんの変化だ。


 絵笑子と桜は、母娘というよりも、少し年齢の離れた仲のいい友人のような間柄となった。

 通じてみればウマも合い、今では父よりもなんでも相談しやすい、気のおけない相手だ。



 入社して数年を経て会社員としてのキャリアも積み、桜にもそれなりに責任ある仕事が任されるようになってきた。


 この日、桜は久々に昔住んでいた土地へ出張で訪れた。

 映画会社としての挨拶を兼ね、この地の映画館を巡った。メジャー系シネコンではなく、小規模の劇場や独立系映画館が巡回予定先だった。



 今回は営業回りの予定には入ってなかったが、よく通っていた、あのショッピング・モールに併設されたシネコンは巡回コースの途中にあった。

 寄り道すれば行ける距離だ。


 映画を一本観るほどの時間は空きがないが、一寸ちょっと立ち寄ることくらいはできそうだった。


 在来線からターミナルで路線バスに乗り換え、昔のようにショッピング・モールのバス停に降り立つ。

 辿ったルートは、憶えていた記憶通りのままだった。


 途中、バスは高校の前を通り過ぎた。

 桜もかつて学んでいた校舎が、あの頃の記憶のままの佇まいで視界を行き過ぎていった。


 桜の中に懐かしさが蘇る。

 なんとも捉えられない衝動で心が震えた。


 バスを降りると、秋風が潮の香りを運んできた。

 桜は、ひさびさに感じる太平洋の海の匂いを全身に浴び、あの高校時代に心と体が戻っていくようだった。


 正面ではシネコンの入口が人々を迎えている。

 桜もすぐにあの中へ足を踏み入れたかったが、自分の逸る心を焦らしてみるかのように、少し道草をしようと脇にあるショッピング・モールの入口へ進んだ。


 モールへと足を運んでみると、ハロウィンも過ぎたモールの飾り付けはクリスマスの装いに変わり始めているところだった。

 以前のままの店がまだ軒を構えているところもあれば、すっかり様変わりしてしまった一角もある。憩いの場や待ち合わせ場所の目印だったモールの要の広場に設けられていた円形の池は無くなり、幼い子供たち向けの遊具の並ぶ場所に変わっていた。


 振り返れば、ここに通っていた高校生だった頃から、もう十年の時が過ぎている。

 桜は、時の隔たりの残酷さをひしひしと感じた。


 変化を確認するようにモールの端から端までをゆっくり往復した後、桜の足はそのまま自然とシネコンのある方向へと向いた。



 ショッピング・モール側からシネコンに入ると、ロビーは少し内装は変わったが、チケットカウンターには以前の応対スタッフの人数は減りタッチパネルの券売機こそ並んでいたが、その配置も、グッズ売り場やコンセッションの『FOODS & DRINKS』の看板も、昔のままだった。


 体を一回転させ、ぐるりとロビーをパノラマのように視野に収める。


「なつかしいなあ……」


 桜の口から思わず感嘆の声が出た。


 コンセッションから漂うキャラメルポップコーンの甘い香り。

 ロビーの壁には近日上映の映画の色とりどりのポスターがバックライトのパネルで煌々と輝く。


 あの頃の記憶が鮮やかさを増し桜の脳裏に次々と浮かんだ。


 見仰げば、近日公開の大作映画の巨大な横長のバナーが天井から吊り下げられロビーを飾っている。以前から情報が流れていた、米国のメジャーが手掛けたアメコミヒーローものの話題作だ。『日米同時公開』との惹句が自慢気に踊る。


「あ……この映画、クリスマス公開なんだ……」



 しげしげと桜がその横断幕を眺めていると、背中のほうから自分の名を呼び止める声が聞こえた。


「あれ? ――桜??」


 聞き憶えのある声。桜のメモリからこの音声に合致するデータがヒットしたが、俄には信じられず、心が照合をするのに戸惑いをみせた。


 呼び止められた声のほうに顔を向けた桜の眼前に、懐かしい姿があった。


「やっぱり桜だ。――うわぁ、なつかしいなあ」


 記憶の奥に仕舞われていた、あの、澄んだテノールの響きが、また桜の心の琴線を震わせた。


「幸……生、くん?」


 スーツ姿が尚更そう思わせたのだろうか。少し大人びた青年の雰囲気を漂わせた幸生がそこに佇んでいた。

 社会人らしく髪もさっぱりとしたスタイルにセットされている。


 昔、ふたりで通ったこのシネコンのロビーに、ふたりは招き寄せられ、再会した。



    *   *   *



 幸生がこのシネコンに足を踏み入れたのは、高校を卒業して以来、初めてのことだった。

 一浪生活を経て東京の大学へ進学した幸生は、それ以後この地元に還ることは殆どなく、たまに実家へ立ち寄るのも年末年始の時期くらいで、それも次第に足が遠のいて久しかった。

 もともと東京の大学を志望したのも、その大学に学びたい学科があったわけでなく、ただ地元から遠去かりたい、との思いからだった。


 幸生がこの土地を離れていったのは、何よりも、その風景が菜津をおもい出してしまうからだった。


 高校の学舎や、通学路。

 通り過ぎる駅舎。市の中心にある繁華街。

 海浜公園の遊歩道。


 どの場所もまだ菜津の匂いが漂っているようで、いたたまれなかった。



 このシネコンにも、近づくことはなかった。


 この日は出張で久し振りに自分の生地に還ることになり、日帰りの弾丸ツアーとなっていたが、ちょうど観たかった映画の公開がこの週末までで終映となっており、東京へ戻っても観に行く時間がとれないのが判った。


「どうしよっかなあ……」


 地団駄を踏みながら、ふと思いつきで幸生は出張先=地元のシネコンの上映スケジュールをネットで回ってみた。幸生がいた頃よりも県下や市内のシネコンの数は増えていたが、なかなか時間の合う劇場は見つからない。

 各劇場のサイトを巡るうち、念のため、と、幸生は系列劇場のリンクからあのシネコンのアイコンをクリックしてみた。


 幸生にとって、幸福な想い出も、忌まわしい記憶も、双方を内包したあの場所。


 上映スケジュールを開き、スクロールして目当ての作品名を見付ける。

 出張の日は一日2回の上映。うちひとつは朝イチの開始でこれは却下。

 だが、もうひとつの上映回は、昼を跨いでの時間帯。午前の用を済ませ、午後の予定先まで出向く時間までと擦り合わせると――なんとかギリギリで予定に嵌め込むことが可能のようだった。

 ここなら次の出先へも近い。路線バスで1本で行ける。現地のバス時刻表をネットで探してみたところ、映画がねてすぐに乗車できるバスもある。


 忌避したい場所ではあるが、観たい映画がある、という誘惑には敵わない。


 幸生は逡巡して後、『予約』のボタンをクリックした。


 中央からやや前方。センターから少し左寄り。

 このスクリーンの、以前と同じ番号のお気に入りの座席――。



    *   *   *



 意外な再会に、ふたりは揃って顔を綻ばせた。


「げんき?」


「うん」


「きょうは、どうしたの?」


「営業回り――。あっ、あたし今ね、映画の会社に務めてるんだ。ちぃちゃなトコなんだけど――それで、こっちの劇場に営業に、ね。あぁけれどここは大手だから予定にないんだけどっ。――ウチの会社が取引するのは単館独立系がメインで……」


 一人で捲し立てている自分に気付き、桜が「あ、ゴメン」と呆気にとられた顔の幸生に謝る。桜のコロコロと変わる表情に幸生がはにかむ。


 桜が改めて続ける。


「でね……ひさびさにこっちへ来てみたんだけど、なんだか懐かしくなっちゃって、つい、フラフラっと、ね……気がついたらここに来ちゃってた」


 そう言うとペロッと舌を見せ桜が照れた。

 自分のこばかり話しているのに気付き、


「きょうは、ひとり?」


 と桜が幸生に訊く。


「あ――うん。俺も出張で。どうしても観たい映画があったんだけど、東京じゃ時間がとれなくって……で、探したらちょうどここの上映時間が嵌められたんで……それで、ね」


 幸生が悪戯っぽく答える。


「あいかわらずだなァ幸生くんは」


 桜も呆れながら言を継いだ。




 互いに再会に伝えたいことが胸に詰まり、それがかえって口に出せずふたりの会話が途切れる。間がもたずに幸生が目を逸らしロビーを見廻す。

 壁に並ぶ近日上映のポスターの列に意識が向き、幸生の視線が順々に追っていく。

 

 そのポスターのひとつに幸生の注意がフォーカスし、視線が留まった。


「これ――」


 呟く幸生の視線を追って桜も目を向ける。


 ふたりの焦点に、このシネコンチェーンオリジナルの企画の告知が掲げられていた。

 このシネコンチェーンでは、近年、いにしえの名画を週替りで上映する企画が定番プログラムとなっていた。バックライトに照らされた『次週上映』の告知の予定作品。


 桜が思わず「あ……」と声を漏らす。


 『シェルブールの雨傘』――。


 眺めていた幸生、何気なく「これ、観た?」と桜に訊ねた。


 桜は首を振ると、ぽつりと呟いた。


「誰かさんと、約束しちゃったから……」


 そう言うと、桜は幸生の瞳を見詰めた。


「そう……」


 幸生は言外の意味を覚り、句が継げなかった。





 少しして館内アナウンスがロビーに響いた。



“たいへん長らくお待たせをいたしました。ただいまから……”



 幸生と桜がどちらからともなく顔を見合わせると、幸生が一瞬視線を宙を泳がせてから


「あ……俺、これからこれ観るんで……」


 と桜に告げた。


「うんっ」と桜が頷く。


「じゃ」


「うん。それじゃ」


 互いに軽い会釈を交わし、幸生がスクリーンの入場口へ立ち去っていく。

 ロビーで見送る桜に幸生はもう一度振り返ると、声をかけた。


「桜っ。

 ――映画、観てるか?」


「うんっっ」


 桜が続けて、幸生に届けと声音を上げて言う。


「少しだけ、人から愛されるように、映画、観てるよ」


 桜の答えに満足したように、幸生は手に握ったチケットを掲げ笑みを返すと、劇場入口へと進んでいった。


 桜は、小さく手を振りながら、幸生の背中をスクリーンの扉に消えるまで見送った。



    *   *   *



 上映が終了し館内の照明が徐々に明るくなると、幸生は出口が混むのを待たずにいそいそと人混みをかき分けロビーへと戻った。

 ロビーフロアの真ん中に自分を置くとぐるりと見廻す。

 売店。コンセッション。チケットカウンター。そこに居る人々の顔を隈なく眺めてみたが、想い描く姿は見られなかった。


「いるわけないよなぁ……もう……」


 探索を諦めた幸生は、観賞中は切っておいたスマホを取り出し、電源を入れながらエントランスの外正面のバス停へと急いだ。到着していた目的地行きのバスに乗車すると、幸生の背中でちょうど扉が閉まり、ガクンという振動とともにバスは動き出した。


 バスが幸生を載せて広場中央に設置されたクリスマス・ツリーを舐めるように回り込んで通過する。


 空いていた席に座り外の景色を眺める。

 窓で切り取られた風景が幸生の懐かしさを醸し出していった。


 握ったままのスマホを胸ポケットに仕舞おうとして、画面が点いたままなのに気付いた幸生は、スケジュールのアプリを呼び出すと本日のこれからの予定を確認した。

 いま観たばかりの映画の感情を反芻するのはひとまず棚上げにして、出向き先の社名や支店が時刻表のように列記されているのを改めて頭にインプットする。


 それが済むと、手持ち無沙汰にかまけるようにウェブブラウザを開いた。

 ブラウザ上には今しがた行ったばかりの劇場サイトのキャッシュが残ったまま再読込がされていた。

 劇場のトップページに戻ってみる。

 横にあるカラムに、特集ページのアイコンが並ぶ。

 新作の告知。近日上映作品の試写会プレゼント。会員ページへの誘導。

 近頃の傾向で、提携のネット配信サイトへ飛ぶバナーも並んでいる。


 その中にある『朝イチ映画―エバーグリーンへの誘い』という文句が踊るアイコンが幸生の目を惹いた。

 幸生の人差し指がアイコンを二度叩く。


 短い紹介ムービーが流れ、特集サイトが開いた。


 昔の名画たちをデジタル・リマスターしてリバイバル上映をする、このシネコンチェーンの企画のページだった。1年を通じて週替りで名作を朝の一回めに上映するというイベントで、この数年間続いている。系列劇場の中で全国各地の選定されたスクリーンで、同一のプログラムで上映されていた。


 もちろん、この企画そのものは幸生も既知だったが、たまにチェックするくらいで、さほど注視はしていなかった。



 同じ映画を、同じ時間で上映――



 それは、かつて桜と幸生が発見し、離れた場所で“デート”を重ねた方法だった。


 上映作の一覧表。そのトップには『次回上映』の作品の紹介と、映画の一場面を切り取った画像があった。


 メイン・ビジュアル。カトリーヌ・ドヌーヴの面影。



 高校時代、桜といっしょに映画館へ通った路を幸生の乗るバスが車体を軋ませ抜けていく。

 タイヤから伝わるアスファルトの凹凸おうとつに揺られながら、幸生はスマホの画面が暗転するまでそのウェブページを見詰め続けていた。

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