#9 どこに行くの?

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【どこに行くの?】

 2007年 日本映画

 監督:松井良彦 出演:柏原収史 あんず 朱源実

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         ◎


 海浜公園から出発する路線バスに乗ると、幸生と菜津はそれぞれの最寄り駅まで行って帰った。菜津は「まだずっと一緒にいたい」とごねたが、幸生は夕飯時までに後輩を帰すことを決めていた。

 幸生が先にバスを降りるとき菜津は改めて別れを惜しんだが、幸生ももうそれには応じてやらなかった。菜津のほうはこの先の鉄道に連絡する駅で降りなければならない。


 降車の際に菜津からまた口づけを求められそうになったが、バスの中の他の乗客の目もあるのでそれは止めさせた。



――だが、もし他に誰もいなかったら?



 幸生は一瞬自問自答したが、すぐにその思考そのものを振り払った。




 発車するバスを見送ってすぐ、ポケットのスマホがDMの着信を報せた。

 菜津からのLINEメッセージだ。ほんの今しがたバスの窓から手を振っていたのに。

 何かと思い幸生がすぐにアプリを開く。



“ だ い す き ”



 その一言だけが送られてきていた。


 返信はせず、そのままスマホをポケットに仕舞った。

 どうせ『既読』にはなっているだろう。



 踵を返し、帰路を辿る。


 歩いていても、きょうの出来事が幸生の体内で反芻し続ける。胃の底で重しとなって歩幅を鈍らせる。


 さっきの菜津からのDMの短文が網膜に灼き付いたまま残像となり視線に漂う。



“ だ い す き ”



 幸生には、重たすぎる一言だった。


 考えを巡らせるが、言語としての思考はできない。ただずっしりとした澱だけが抱え込まれたような感覚だった。

 いつの間にか立ち停まっていた幸生の傍らをトラックが排ガスを撒き散らし通過していった。ドップラー効果で低くなったエンジンの呻りが遠ざかっていく。



 ふたたびスマホを手に持つと、画面を灯しアプリを探す。

 だが、特に目的を持って操作しているわけではない。思考が停滞し、何かを無意識に触って手を動かしていた。それがポケットの中のスマホだっただけだ。


 フリックするうち、LINEが再起動し、『ともだち』の一覧の中から『荻野桜』の項をタッチしてしまっていた。

 スマホの5インチの画面に桜の自撮り画像が表示される。以前に桜が幸生に送ってきたものだった。


 幸生は指の動きを止めた。

 画面から、自分に向けて桜が微笑んでいる。




 また幸生の脇を車が通り過ぎていった。

 2台、 3台。   4台。


 7台目が過ぎたところで、ようやく幸生はスマホを仕舞うと、停まっていた足をふたたび前に出し、街灯だけが点る夜の道を歩き始めた。




――そうだ。

  桜と連絡をとらなきゃな。




  もう、来週には黄金週間ゴールデン・ウィークなんだ。




    *   *   *



 帰宅して、改めて幸生は桜との連絡をせねば、と思い出した。

 もう、次の週末には大型連休が始まるのだ。細かい日取りを相談しておかなければならない。


 夕食を済ませて後、帰ってから机に放り投げていたスマホを手に取り、LINEの桜のページを開く。帰路でアプリを開いたままの状態だったので、すぐに桜の微笑む画面が呼び出された。

 その顔を暫し見つめて、トーク画面へ遷移する。


 いろいろなことが思い浮かぶが、混乱は短いメッセージで書ききれるものではない。それに、桜には伝えるべきではないことが多い。本音を言えばその“伝えるべきではない”ことで頭が充杯いっぱいなのだが、それを排除して言葉を考える。そんなことも上塗りされ更に苦悩が増す。


 苦労に苦労の末、ようやく入力した文章は、他愛ないものになった。



“もうすぐGWだけど、予定はだいじょうぶ?

 何日くらいに行けばいいか 教えて”



 結局、これ以上のことは書けなかった。ただの念押しの内容にすぎない。

 本当は、ほかにあるのではないか。だがフリックする指はそれを躊躇った。


 何度も読み返し確認した上で、幸生は送信ボタンをクリックした。








 暫く画面を眺めていたが、トークのスレッドには何も変化がない。

 送ったメッセージに『既読』も付かない。


 諦めて、幸生はスマホをまた机に戻し、ベッドの上にごろんと転がる。

 自然に画面が消灯するまで、幸生は机のスマホを見つめていた。



 視線を上げると、仰向けになった幸生の視野には部屋の天井が広がっている。

 ところどころにできている滲みを脳が自在に組み合わせ、人の顔を造る。

 ときにそれが菜津の顔に重なり、それが消えると桜になる。


 幸生は己の無の意識が描くメタモルフォーゼをぼんやりと眺めた。






 スマホの着信音が部屋を震わせ、幸生は半覚醒の状態からうつつへと引き戻された。


 メッセージの着信ではない。桜からのコールだ。


 取り上げたスマホの通話をONにし、耳元へと寄せる。


「――もしもし?」


 聞き馴染んだ声がスピーカーから届いた。


「あ、いまDMきてたの見て――電話、平気だった?」


「あ・ああ――平気」


 慌てたためか幸生の声が上ずった。それに気付いて桜が心配をする。


「調子、悪いの?」


「いや、いまちょっとボゥッとしてたから」


 声が沈んでいたのは、呆んやりしていたからだけではない。

 だが、心の裏を悟られないよう、幸生は取り繕った。


「――なに?」幸生が続けた。


「なにじゃないよう。そっちからメッセ送ってきたんじゃない」


「――ああ、そうだった。ゴメンほんとにぼーっとしてたから」


「もうっ」


 これ以上会話が同じところを巡っていると桜に何か勘ぐられそうだった。

 そう気を揉んだ矢先に、桜が話を進めてくれた。


「ゴールデンウィークのこと、でしょ?」


「あ、ああ――そうそう、そろそろちゃんと決めとこうかなと思って」


「幸生くんは、いつこっちに来る予定なの?」


「俺は、べつにいつでもいいんだけど――桜の都合でいいよ」


「うーん……」


 互いに相手に決定を委ねてしまい、なかなか日取りを決めることはできなかった。

 結局、双方ともに時間がありそうな、連休の後半――3・4・5日に会うことをおおまかに決めた。


「で、幸生くんは、どうやって来るの?」


「俺は、高速バスの予定。いちばん安上がりだし。でも新幹線にするかも」


「こっちには来たことある?」


「いや、初めてだな」


「いろいろ見せてあげるね。近くにね、大仏さんがあるんだよ。うちのマンションからも見えるんだ。地元では“だいぶっつぁん”てみんな呼んでるんだよ」


「へえー」


 積もる話はまた会ったときに話せばいい。そう互いに思い、あとはとりとめもない雑談を繋いだ。


 会話の端々で、こんどは幸生のほうが桜の雰囲気に違和を感じた。別にどこがどうとか、明確なものではない。ただ、これまで幸生の知る桜とは、どこかにズレがあるような。


 時間が経つうちに、その違和感が何か、なんとなく解った。

 ――妙に明るいのだ。


 これまでと比べ些か高めのテンションで語り続ける電話の向こうの桜に、その‘ひっかかり’を覚ったとき、幸生は圧し黙った。




――なぜだろう。

  どこがそう感じるのだろう。




 ひき続きケタケタと語っていた桜が通話口が沈黙しているのに気付き声をかけた。


「――どしたの?」問いかけに黙考していた幸生が一瞬遅れて反応する。


「え? ――ううん、べつに、なんでもないけど。なぁに?」


「うん――なら、いいんだけど……」


 逆に幸生が口を開いた。思わず言葉が出てしまった。


「桜こそ、なんか……」


「――え??」


 予想以上の驚きの声が電波を通じ届いて、かえって幸生のほうが戸惑ってしまった。


「いや、なんとなく……」幸生が言い直す。「――あ、なんでもないんだ。気のせい」


「そう?」


 桜のクススという笑い声が聞こえ、言葉が続いた。


「なんかヘンな幸生くんっ」


 その後はなんとなく会話がギクシャクしてしまった。これまでには感じたことがない会話の噛み合わなさが続き、幸生も桜も「そろそろ仕舞いにしようか」という気持ちが湧いてきたところで、電話を終えることにした。



「じゃあ、3日の昼くらいにはそっちに着くと思うから。バスに乗ったらメッセ入れる」


「うん」


 OFFボタンを押して、画面が黒いスクリーンになるのを幸生は黙って見つめていた。反射した自分の顔がスマホのガラスに映った。

 きょうはいろいろあったから、自分も疲れていたのだろう。今の桜との間の会話を振り返り、幸生は自分をそう納得させた。






 ――『会えるのがたのしみだね』という言葉は、ふたりの間に出てくることは、なかった。


 最後まで。






 電話を了え、持っていたスマホをベッドの枕の傍に置くと、桜は胸を撫で下ろした。



――気付かれなかっただろうか。



  だと、いいんだけど……





 そのままゆっくりとベッドに斃れ込む。

 天井を見上げる。蛍光灯が淡いアイボリーにエンボスの凹凸の影を落としている。

 網膜では画像を捉えていても、夕刻の回廊で起きた事が頭から離れないでいた。



 まだ、余韻が体中に残っている。


 秋彦の腕が背中に回り抱き締める感触。


 頬に触れる彼の息づかい。


 耳許から内耳の蝸牛へと伝わる声帯の響き。密着する胸から胸へと届く心臓の鼓動。


 それを思い起こすたびに、体の芯は熱くなり血流がばくばくと早まった。


 漂う心が、桜を惑わせる。



 想う流れを留めようとすればするほど、抑えられた感情は堰を切って溢れ出ようとする。



 感覚を思い出すように、指先が上唇から下唇へと円を描くようになぞっていく。

 甘美な唇の感触が忘れられなかった。








 ほんの数時間前までは、こんなことで心が痛むことはなかった。

 どうして、こんなにも心乱れるのだろう。


 体を丸め自分の両肩を握ったが、胎内から苦しみを逃すことはできなかった。




――十日もすれば、幸生くんに逢えるのに。


  こんな気持ちのまま、彼と再会することになるなんて。



    *    *    *



“もうすぐGWだね。どう? ゲンキにしてる?”


“うん。 映画の準備、進んでる?”


 学校にいる時でも、秋彦からのメッセージは届いていた。

 相手は大学生だ。高校生が授業を受けている最中などはお構い無しらしい。


 休み時間のたびに桜はスマホの電源を入れ秋彦からの着信がないか確認をした。



 あの日以来、秋彦からのDMが届く間は、短くなっていっていた。

 GWの入りの頃には、ほぼ毎日の割でメッセージが着信した。


 秋彦のメッセを報せるジングルがスマホから鳴ると、心が弾む自分がいた。




 大型連休に入ると、メッセージだけではなく直接通話でも連絡をとるようになった。


「いま、あのシナリオを練り直してるんだ。桜ちゃんを想定して役を当て書きしてる。――あ、“当て書き”って、わかる?」


 電話で話すたび、秋彦は桜を勧誘した。

 桜も、その要請を無下に断ることは、もうしなかった。


「書き上げたら、見せてね」


「GW中には仕上げるつもりだから。楽しみにしてて」




 元は父の書斎だった、自分に与えられた部屋の窓から、桜は夏に差し掛かった空を見上げた。

 澄んだ青の背景に黒の光沢を放つ大仏像がにょっきりと首を出し、スカイラインを切り取っている。


 眺めるうち、なんとなく“だいぶっつぁん”と目が合ってしまったような感覚に捉われ、桜は苦笑した。


 気を取り直し、彼方の“だいぶっつぁん”とにらめっこをする。


 己の揺らぐ心を、その窪んだ瞳に見透かされているようだった。






 明日は、幸生が来る。


 逢える。


 並んで一緒に映画が観られる。


 焦がれるほどに待ち望んでいた――





 なのに。



    *   *   *




「じゃあ、明日そっちに行くから」


「うん」


 出発の前日、夕刻に幸生は桜へと電話し、明日の予定を打ち合せた。


「バスだから、到着が遅れるかもしれないよ」


「じゃあ、駅に着いたら教えて。そしたらまたどこで待ち合わせするか決めよ」


「わかった」



 結局、いちばん安上がりなバスを利用することにした。

 幸生の住む県から北陸への直行便は出ていなかったので、JRを乗り継ぎ、名古屋で高速バスに乗り換えて行く計画だ。

 始発列車に乗り込めば昼頃には到着できる。



「それじゃ、明日」「うん」



 電話を切ると、なぜか安堵する自分がいた。

 靄を振り払い旅行鞄に荷物を収めていく。それでも、時たま幸生は手が留まっているのに気付き、また荷造りを再開する。そんなことが繰り返される。


 鞄の横に桜や家族に渡すお土産の紙袋を添え、ようやく準備を終えた。





 逢えるというのに、なぜか心は沈んでいた。



    *    *    *



 大型連休に入った前半は、幸生はいつもの名画座へ日参していた。『ゴールデンウィーク特集』と銘打っての日替わりの企画上映だった。名画座独立館のプログラムでは桜と時間を合わせることもできない。

 それに、全国公開の封切新作なら向こうへ行ったときに桜と一緒に観ればいい。

 そんな思惑が名画座通いという結論だった。


 菜津からの「会いたいです」「明日はヒマですか?」という欲求は連日ひっきりなしにDMで届いていた。時には夜に通話着信をしてきた。


 「用がある」だの「授業で出た課題を済ませる」だの「家で出かける」だのと、のらりくらりと曖昧に返辞をする幸生に菜津はとうとう地団駄を踏み


「じゃあ、いつ会ってくれるんですかぁ!!」


 と激昂気味に訴えた。


 仕方ないので、一日だけ菜津を伴い名画座へ行くことになった。


「名画座って?」


 菜津が質問するので、幸生はそのシステムの説明から始めなければならなかった。

 旧作をカップリングして二本立てで上映するという興行を菜津はえらく感激したようだった。


「すごぉーい、でもツ○ヤでレンタルすればいいんじゃないのかなァ」


 ロビーであっけらかんと言葉を放つ菜津に名画座館内のシネフィルたちが凍りつき、菜津と幸生の周囲直径3.5メートルの空気が凝り固まった。眼は向けてはいないものの、彼らの意識はがっちりと菜津にロックオンされている。


 はぐらかそうと幸生が視点を変えて答える。


「いや、劇場の大きなスクリーンで観ないと映画の本当の醍醐味とか迫力とかは味わえないし」


「でも、最近ならテレビの画面もおっきいし、プロジェクタだってある家があるよ。あ、VRモニタみたいなゴーグル型ので観れば、映画館よりも画面が視野いっぱいだよ」


 元の木阿弥だ。

 幸生は引き続き流れをかわそうと試みる。


「……DVDなんかのソフト化されてない映画もあるから。そういうのって、こういうトコでかからない限り観る機会がないんだよ」


「ふーん」


 納得したのかしないのか釈然としない菜津だった。

 館内にブザーが鳴り響き、上映が開始され幸生はようやく緊迫から開放された。






 映画が終わり劇場から出たものの、菜津はなかなか帰ろうとはしなかった。


 とうとう別れ際に「キスしてくれなきゃ、帰らない」と駄々をこね始めたので、幸生は従うしかなかった。


 軽い口づけのつもりだったが、唇が触れ合ったとたん、菜津が強く求め、舌を絡ませた。幸生の背に回った菜津の腕が力を込め幸生は息ができなくなりそうだった。



    *    *    *



 5月3日。

 夜の明ける頃、幸生は家を出発した。


 まだ寝ている頃だろうとは思ったが、菜津にもメッセージを置いていくことにした。


“旅行に行くので数日は連絡がとれない予定

 戻ったらまたメッセージ入れる”


 送信すると、そのメッセージにはすぐに『既読』のマークがついた。

 幸生はそのままスマホをポケットに押し込むとホームに入ってきた電車に乗り込んだ。





 名古屋駅で高速バスに乗り換えるため、改札を出た。乗車の前にスマホの電源を切ろうと思い、その前に画面を開いて確認する。

 菜津からのDMが返ってきていた。



“次はいつ、映画に行きます?


 あいたいな・・


 連休ちう もうあわないなんて さびしい”



 文言に続いて涙の絵文字が延々と連なっていた。


 内容の確認だけをして、幸生はOFFボタンをクリックした。

 アプリを閉じるとき同時に他からの着信DMの有無も眺めたが、菜津の他に誰からも来てはいなかった。

 もちろん、桜からも。



 運転手が行き先を告げバスがターミナルを発車する。


 倒したシートに凭れ、幸生は考えに沈った。

 出立が朝早かったので、やや眠気が襲いはじめていた。

 眼を閉じると、菜津の姿と声がまず浮かんだ。


 どうして、桜ではなかったのだろう。



 エンジンと地面の振動が背中に伝わり、幸生は眠りに落ちていった。


 夢うつつの中、幸生の中で思考がぐるぐると渦を巻く。

 桜と菜津の顔が脳裏を交互に支配する。



――せめて、桜と再会すれば、

  この悩みも鎮まるのだろうか。


  それとも――



 本当なら、悩むものではないはずなのに。

 それだのに。


 いくら自問自答を繰り返しても、バスのシートの中では答えは得られなかった。



 この数日の、桜とのやり取りが幸生の頭でリピートされる。

 なぜだか噛み合わなくなった会話の箇所だけが選択再生され続ける。



 自分もだが、ひょっとして、桜にも何か変化が訪れているのだろうか――


 あるいは、ただ単に己の後ろめたさがそう疑わせるだけなのか。

 幸生は確証が保てなくなっていた。



 バスが制動をかけ減速する毎に幸生の意識が醒めた。薄目を開けると、窓の風景が後方へと流れさっていく。睡っていた頭がまた考えを巡らせる。


 疑念。

 自身に対してなのか、相手へのものなのか。

 それとも、その双方か。





 訝しみは互いの心の底に澱となって積りつづけ、徐々に瘴気を放ちはじめていた。







          [theater 3 完]

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