#1 インディアンサマー

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【さらば映画の友よ インディアンサマー】

 1979年 日本映画

 監督:原田眞人 出演:川谷拓三 重田尚彦 浅野温子

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         ◎


 荻野桜おぎのさくら井崎幸生いざきゆきおの姿に気付いたのは、館内が明るくなって座席から立ち上がろうとしたときだった。

 映画が終わり出口へと群がる人の中に見たクラスメートの男子に、桜は少し戸惑い、思わず名前を呟いた。


「あ、井崎く、ん……?」


 もちろんこのシネコンは地域でも中心的なショッピング・モールに併設されているので、顔見知りと鉢合わせる可能性も多い。

 けれど、休日ならともかく、今日は木曜だ。学校がねた後とはいえ、授業が終わって直行して来なければこの上映時間には間に合わない。自分と同じ行動をした同級生がいたことに桜は関心を持った。

 井崎幸生は、そんな桜に気付かないまま、9番スクリーンから立ち去っていった。

 後を追いかけようと思った桜だったが、狭い出口に詰まった観客に阻まれ、ようやくロビーに出たときにはもう幸生の姿はなかった。



――同じ映画を観てたんだ。

  井崎くんは、どんな感想だったのかな。



 同級生に興味を持った桜は、ふと頭の中で考えた。



――明日、彼に声をかけてみようか。



 そう思い描いたとたん、桜の胸の動悸は高鳴り、心室から勢い良く圧し出された血流は耳たぶまで真っ赤に染め上げた。

 高校に入学して半年の間、授業の用事以外で自分のほうから男子に声をかけるなんて、実行したことなどついぞ無かった。

 シミュレーションしただけで、桜はパニックになってしまった。


 ぷるぷるっ、と首を振り、胸騒ぐ原因を頭から払い落とすと、桜は施設の外に出た。

 冷んやりとした空気が桜の火照った頬を醒ます。

 日中は穏やかだったものの、陽が傾けば気温は一気に冬の気配を寄せ、冷たい風を散らしている。

 はぁ、と溜息を吐くと、桜は空を仰いだ。

 暮れかけた夕闇の中に、一番星が輝いていた。




    *   *   *




 翌朝、1年E組の教室に入ると、桜はすぐに窓際2列目、2番目の幸生の席に目を遣ったが、まだその席のあるじは登校していない。

 空いた座席に目を配りながら、桜は廊下側4番目の自分の席へ着いた。

 隣の席の祐子が元気に「おはよう」と声をかける。桜もそれに応え「おはよ」と返す。



 クラスで一緒とはいえ、桜はこれまで幸生とは殆ど会話を交わしたことはなかった。

 入学して半年余り。もともとそれほど社交的でもない桜は、40人いるクラスメートたち皆と気のおけない関係になったわけでもない。自分の中に籠りがちで学級という集団に溶け込みきることのできないまま日々が過ぎ、夏休み前にようやく全員の顔と名前が一致するようになったくらいだ。いまだにろくに話もしたことのない生徒も何人かいる。男子は尚更だ。桜にとって幸生はそのカテゴリの1人だった。

 彼が何に興味があって、どんな人柄なのか――そんなことさえもよく知らない。

 ただ、平日にわざわざ映画館にまで足を運ぶ行為が、妙に桜の心にひっかかっていた。



 予鈴が鳴り、ほぼ同時に幸生が教室に入ってくると、どさりと鞄を窓際2列2番目の机に置き着席した。

 幸生の一挙手一投足を見詰めるうち、ふと幸生がこちらをチラ、と見遣ったような気がした。


 目が、合ってしまった。


 桜は一瞬そう感じ、戸惑った。



――ただ一言だけ、声をかければいい。

  “井崎くん、昨日映画館にいた?”



 けれど、その一言が、かけられない。



 どうしようか、と桜が悩むうち、本鈴が校舎内に響いた。




 昼休みが来ても、桜のモヤモヤは解消されることなく幸生の所作ばかり気にしていた。

 周囲にはできるだけ悟られないようにしていたつもりだった。それは上手くいっていると、桜も思っていた。


 暖かな陽射しに誘われ、桜は渡り廊下になっている教室のベランダに椅子を出し、そこで昼食をとることにした。


 柔らかな風が心地良い。

 雲ひとつない空。

 数日前に木枯らし1号が吹いたとは思えない暖かさだった。



――こんな日は、なんて呼ぶんだっけ。

  冬の季節の、あったかい日。

  何かの映画のタイトルにもなってたような……



 桜は思い出そうと記憶の抽き出しを探った。

 膨大なデータから、ひとつのファイルがヒットする。



――そうそう、たしか、

  “インディアン・サマー”……



 そんなことを夢想しながらランチボックスを広げ、早起きして自分で作ってきたサンドウィッチを黙々と口に運んでいたとき、ふいに斜め後方から声が発せられてきた。


「お前さ……昨日映画館にいなかった?」


「えっ!?」


 あまりにも突然の呼びかけに、桜は持っていた玉子サンドを思わず手から零しそうになった。

 声のほうを振り向く。

サッシに手をかけた幸生の顔が視界に飛び込んできた。


「あの、……え、と……」


 まさか、井崎くんのほうから話しかけてくるなんて。

 思いがけないことに、桜は戸惑った。

 そんな桜の動揺には無関心なのか、無視するように幸生は続けた。


「荻野って、ああいう映画が好みなのか?」


「えっ」


「だから、昨日観てたようなヤツ」


 昨日シネコンの9番スクリーンでかかっていたのは、現代劇の人間ドラマが中心の作品だ。ハリウッドのアクション大作のような類ではなく、どちらかといえばインディペンデント系。

 内容そのものにも興味があったのはもちろんだが、主演していた俳優が以前から好きで、そんなのも観に行った理由のひとつだった。

 だが、好みなのかどうか、と言われると、即答に困る。

 

「う・うん……まあ……」


 ひとことや、短いセンテンスでうまく“自分があの映画を選んだ理由”を説明するのは難しい。

 桜にとって、『映画を観る』という行為は、そんなに単純なものではないからだ。

 桜は曖昧に返事をするしかなかった。



――それよりも――



 桜の頭の中は、たった今ベランダの空気を震わせた幸生の声が『おぎの』と自分の名を発したことで頭がいっぱいになった。

 音の振動は耳の奥の鼓膜を叩いた内耳の蝸牛を抜け、そのまままっすぐに桜の心臓を内側からノックした。

 高まる血流が桜の顔を染めていく。桜は、覚られまいと幸生から顔を背けた。


「い・いざき く・ん……も、好き、なの? その……ああいう、の……」


 自分の声帯が『いざき』と発することに慣れず、なんだかギクシャクとした文章が声になる。

 発言した直後、『好き』という言葉が映画を意味するのではなく『いざき』に係るように聞こえ、桜の頬はいっそう紅を増してしまった。

 じんわりと汗が吹き出し、ブラウスの内側の背中を伝っていく。



 幸生がベランダに降りてきて、欄干に凭れながら話を続けた。


「まさか、平日のあんな時間にクラスの奴に出くわすとは思わなかったからなあ。しかもあんな、けっこうマイナーな作品で」


 桜の動揺をよそに、幸生は独り言のように話を続けた。


「あの監督の作品って、いつもはたいがい独立系の劇場でしかかからないんだよな。今回は主演にメジャーな役者が出たから、あのシネコンでもかかったけど」


 そこまで詳しい背景は、桜は知らずに観賞していた。

 桜にしても、わざわざ平日に映画館に足を運ぶくらいだから、かなりの映画好きの類と言っていいだろう。それでも、幸生の知識はそれを上回っている。

 幸生の語りはまだまだ続く。


「俺さ、あの監督の映画、ほぼ全部観てるんだ。夏休みにちょうど名画座であの監督の特集をやって、これまで観逃してたやつはけっこうフォローした。荻野は、他のをどれか観たこと、ある?」


 幸生が顔をこちらを向け、桜に問いかける。

 目が、合った。


「う・ううん」


 桜は慌てて大きく首を振った。


「そっかぁ。けっこういい作品、あるから、機会があったら観るといいよ」


 そう言うと、幸生はベランダの下の中庭に目を移した。常設されたバスケットゴールを挟んで、クラスの男子生徒たちがボールを奪い合い戯れている。



――ああ、このひと、ほんとうに映画が好きなんだなあ。



 幸生の横顔を眺めながら、桜は思った。


「ウチのクラスで、あの映画に行くやつなんて、いないと思ってた。まさか荻野が観てるとは思わなかったよなあ。映画には、よく行くの?」


「え? う、うん、まあ――」


「なら、また鉢合わせるかもしれないな」


 幸生の言ったことを想像して、桜の心臓はまたとくん、と鳴った。







 中庭のバスケをしている生徒が幸生を呼んだ。ゲームの面子メンツが足りないので声をかけたらしい。

 幸生は「おう」と返しながら教室内へ戻っていった。

 去り際、ベランダと室内のサッシを跨ぐとき、幸生はチラ、と桜に目配せして


「また映画館で会おうな」


と言い残した。


 幸生のその言葉が、桜の全身を駆け巡った。




 桜はサンドウィッチを食べるのも忘れ、眼下でスリー・オン・スリーに興じる幸生の姿を眺め続けていた。



    *   *   *




――何だったんだろう。あの感じ。



 午後の授業が始まっても、桜の体にはまだあの感覚が残っていた。



 桜はさっきのベランダでの出来事を反芻していた。



    “お  ぎ  の”



 幸生の発した3つのおんは、頭頂からつま先へ桜の体を一気に通過し、電撃のようにびりびりとした痺れが貫いていった。


幸生のほうから桜に声をかけてくることなど、これまでの日常ではありえなかった。

これまで気にして聞いたことなどなかったが、こうして自分の名を呼ばれてみると、幸生の声はキリリと空気を揺らし抜けがいい。

澄んだテノールの響き。



――また、あの声で『おぎの』って言われたい。



 現国の授業で、教科書の朗読の順番のときに幸生の声は聞いてはいたが、こうして自分に向けて言葉が投げかけられたことなどなかった。だから、一層この印象は鮮烈だった。



 あの声を、もっと聞きたい。

 桜の胸は、そう考えるたびに高鳴り、リズムを早めた。



    *   *   *



 一週間が過ぎ、幸生とは特に何もなく過ぎてしまった。

 桜から声をかけたくとも、いったい何を話題にすればいいのか皆目見当がつかなかったからだ。

 幸生のほうも、桜に気を向けることもなく、つるんでいる男子たちのグループの中に入りいつものように行動していた。

 お互い、クラスでの日常を過ごすまま、日々が経過していた。



 桜は、幸生に訊ねたいことがあった。


 ロードショーは、新作は週末、金曜か土曜に封切される。

 ちょうど次の週末はその新作公開ラッシュにあたり、数本の封切が予定されていた。


 今度の土日、幸生はどれかを観に行くのだろうか。

 桜はそんなことが気にかかっていた。


 桜は日曜にシネコンで新作を一本観ようと予定している。



――ひょっとしたら、井崎くんも、それを観ないかな。

  また、映画館で一緒になれる、かな。



 そんな簡単な質問さえ切り出せないまま、ウィークデーは過ぎ、日曜を迎えてしまった。


 桜はこんな自分に忸怩じくじとした思いを覚えながら、ショッピング・モールのシネコンへと向かった。


 館内に入ると、桜は中央より前方、やや左寄りの席に着いた。

 多くの映画を観賞してきた経験から絞り込まれた、桜のベストポジションだ。


 昨日封切されたばかりで、TVでガンガン予告を流していたほどの話題作のため、場内はかなり席が埋まっている。スクリーンも、このシネコンでは一番大きな2番での上映だ。

 予告が始まり館内が暗転する頃には、座席はぼ8割以上の観客で占められた。


 桜は少し客席を見回してみた。残念ながら、幸生の姿は見つけられなかった。



――そうだよね。

  偶然なんて、そうそう何度も起こるもんじゃ、ないよね。



 客の顔ぶれは、カップルや、大学生か高校生くらいのグループの姿が目立つ。娯楽大作だし、ネットやTVなどあらゆるメディアで宣伝していただけあって、体のいいデートムービーになっていた。マニア層のアンテナにひっかかる代物ではなく、普段は映画に足を運ばないようなライトユーザーに向けられた作品だ。

 客席は開始前からざわついていたが、予告の終盤になってもまだちらほらとしゃべり声が聞こえてきていた。


 上映前の客席の雰囲気から、少し嫌な予感はした。




 桜の心の隅に湧いていたそれは、残念ながら現実になってしまった。


 遅れて入ってきた中央後方の男女数人のグループが、本編が開始されてからも会話を止めず、その声が音響設計の行き届いた壁に反射し、場内に響き渡ったのだ。


「なになに? もう始まってんのこれ?」

「あー、俺ポップコーン買うの忘れたわ。ちょっと買ってくる。ついでだからお前の飲み物も買ってきてやるよ、何がいい?」

「そういえばっさー、昨日の『エンタ』見た? 何つったっけ、あの出てきた新しいコンビ」……


 映画そのものに関係ない会話も目立つ。

 桜もなんとか画面に注意を向けようとはしたものの、これでは集中できない。



――困ったなぁ……



 かと言っても、気弱な女子高生の桜は彼らに注意などできようはずもない。

 座席も少し離れていて、小声で注意できる距離でもない。


 館内の雰囲気から、なんとなく他の客たちも彼らを迷惑に感じている空気が漂っている。



――どうしよう。

  誰か近くの人が注意してくれないかなあ……



 そんなことを悶々と考えていた矢先、聞き憶えのあるテノールの声が館内の闇を貫いた。


「――すみません、おしゃべり、辞めてもらえますか?」



 一瞬、その声が聞こえた後、館内の空気が緊張したのを感じた。

 グループの中の女の1人が言い返した。


「あたしたちだってぇー、お金払ってぇ、見に来てるんですけどォ。マジウゼぇ」


 先程の声が言い返す。


「オレもみんなも、映画を楽しみたくて来たと思うんで。少しだけ、人から愛されるように、映画、観ませんか?」


 ぱらぱらと2、3箇所で拍手が聞こえる。「そうだぞー」と言う野次も届く。


 それきりグループの男女は押し黙ってしまった。

 桜だけでなく、館内にいたほぼ全員が、溜飲を下げるのを感じた。


 館内はその後不思議な一体感を伴い、映画が進んでいった。

 穏やかな空気に包まれ、桜もスクリーンに集中していった。


 それにしても、と桜は思った。

 さっきの注意の声は……


 それに……

 どこかで、聞いたか、見たようなことばだった。



“少しだけ、人から愛されるように、映画、観ませんか?”



――どこだったっけなあ……

  どこかで憶えがあるように思うんだけど……



 けれど、頭の隅でそれを気にかけるうち、映画が進むにつれ悩みも忘れていってしまった。



    *   *   *



 エンドロールが終わり館内が次第に明るくなると、桜はすぐに座席から腰を上げ、さっきの声のほうを見遣った。


 視線の手前で、注意をされて静かになったグループがやや不満気に出口へ向かう姿が横切っていった。彼らの立ち去った座席の周りには食べ散らかしたポップコーンの欠片やポテトチップなど菓子類の袋、紙コップが散乱している。それを踏み散らかしながらグループは去っていった。

 その奥に、座席からゆっくりと立ち上がるクラスメートの人影を、桜は捉えた。



――こんどは、声をかけよう。

  名前を呼ぼう。



 瞬間、桜の心臓は大きな音を立てて全身へ血を送り込んだ。

 桜は、深く息を吸い込み、躊躇うからだに抗いながら声を振り絞った。


「―― 井崎くん!!」


 自分の名を呼ばれたのに気付き、幸生は声のしたほうを見遣った。

 桜の姿を確認したのか、幸生の顔が一瞬和んだように、桜には見えた。


 幸生が通路の階段を降りてくる。桜は座席列の脇まで出て待った。


「来てたのか」


 顔を見合わせた最初に幸生が放った一言は素っ気ないものだった。

 けれど、どんな言葉でも、幸生から自分に向けられたものなら、桜には嬉しかった。


「うん」


 桜が顔を綻ばせて続けた。


「また、同じ映画だったね」


 幸生が返す。


「なんとなく、今日あたり荻野もどれか観に来るんじゃないかな、って思ってたんだ」


「そぉ?」


「うん、そう」



――なら、教室で声をかけてくれればよかったのに。



 桜はちょっとだけ思った。


「あたしもね、ホントは、少し同じこと思ってた。また井崎くんと映画館で会うんじゃないか、って」


「でも、同じ日に同じ映画を観るとは限らないだろ」


「同じ時間、でもね」


 こんな偶然、幸生はどう思っているのだろう。

 ふと、桜はそんなことを思った。


 偶然も、二度続けば必然――

 誰かがそんなこと、言ってたっけ。


 なんとなく二人は並んだまま、ロビーを通り、ショッピング・モールを抜けるルートに出た。

 知り合いに出喰わさないかと桜は気が気でなかったが、幸生は特に気にはしていないようだった。



――クラスの誰かに見られたら、何て思われるだろう。

  付き合ってるとでも、みられちゃうのかな……



 少し歩幅が広い幸生が先に進み、桜はその後をとことこと付いて行く。

 それに気付いたのか、幸生の歩みがややゆっくりとなった。

 肩が並び、幸生が自分に合わせてくれたのを感じ、桜の胸はくすぐったくなった。


 これからどうするのかなど話はなかったが、モールの駅方面の出口へと足は向いている。

 何も会話がなくても、桜は幸生とこうして並んで歩くだけで、浮き浮きとした心地になった。



 ファストフードやスイーツの店が並び、あちこちから焼き菓子の甘い匂いが漂うコンコースを抜けながら、桜が話しかけた。


「さっきのって、井崎くん、でしょ?」


「さっきって?」


「注、意……」


「ああ……」


 面倒そうに幸生は答えた。


「だって、みんな映画を愉しみたくて映画館に来てんだもんな。仲間とポテチ喰いながらワイワイ騒ぎたいなら、ツタヤでDVDでも借りて家でして欲しい」



――そうだよね。



 桜は心で頷いた。


「そりゃ、みんなで騒いで楽しむ観方だってあるよ。そういうイベント上映もあるし。でも、静かにじっくり観たいから劇場に来る人もいるんだからさ。予告の前に『おしゃべりは他の人の迷惑なのでお止めください』って言ってるんだから、守って欲しいよなあ」


 うん、うん、と桜は思った。

 桜も何度か、そうしたマナーの悪い客に辟易した経験がある。

 だが、注意をする勇気はどうしてもなかった。


 それを容易く実行できた幸生に感心した。


「ローマに入れば、ローマ人に。“映画館に来たら、映画館のマナーに従え”だろ?」


 桜は大きく頷き、同意した。


 話し込むうち、二人はバス停に到着した。

 桜が乗る路線の停留所で二人は待った。


 幸生はこのバス通りの先の駅から私鉄に乗る。

 桜は、何も言わないが自分を見送ってくれる幸生が面映ゆく嬉しかった。



 桜の胸で想いが膨らんでいく。幸生に伝えたいこと。訊ねたいこと。

 もっともっと、話していたい。話が聞きたいという欲求。


 どうしたら伝わるだろう。

 そんなことを悩みながら、時間だけが迫ってくる。



 ビルの角からバスが現れた。行先表示が桜の乗る系統を示している。

 桜はそわそわと落ち着かなかったが、バスは桜の思いを裏切りどんどん近づいてくる。

 停車する直前、桜が意を決して幸生に言った。


「ね、ね、こうして同じ映画で鉢合わせするんなら――この次から何を観るのか、教え合わない?」


 唐突な申し出に、幸生はきょとんとした顔で桜を見返す。

 バスのドアが開き、降車ドアからは乗客が降りている。

 慌て気味に桜は言葉を綴る。


「そのほうが、感想とか話し合えるし、たのしいと思うんだけ・ど……」


 車内から運転手が「まもなく発車します」というアナウンスをする。促された桜は名残惜しそうに慌ててバスのステップを駆け上がる。


 桜がステップを昇り終えた矢先、背中から幸生の返答が聞こえた。


「いいよ――」


 桜は振り返り、破顔した。はにかむような幸生が見上げていた。


「じゃ、また学校でな」


 幸生の言葉に、桜が返した。


「また映画館で」


 言い終えた瞬間、扉が閉まり、バスは発進した。


 走りだしたバスの中で、桜は車内の後方に進みながら、見送る幸生の姿を追い続ける。

 幸生に向け、桜は小さく手を振った。


 手のリズムに合わせ、心も踊っていた。






――あ。

  そういえば、あのときの注意の言葉、


  どこから引用したのか、聞きそびれてしまった。




  また、学校で訊いてみよう。


  もう、いつでも彼と話せるから。


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