圧縮する姉

伊那

不運な弟


 慎重に足を踏み入れた。クリーム色のカーテンから光が漏れ、整える暇もなく乱れたベッドの上に降り注いでいる。長い髪が数本抜け落ちた枕の横に、ショッキングピンクのテディベアが無表情な黒い目玉をこちらに向け、侵入者の俺を批難するわけでもなく居座っていた。ベッドの脇には貢ぎ物と思しき高級ブランドの箱が積み上がっている。どれもこれも未開封で、そのまま質屋に持ち込まれることを俺は知っていた。安っぽい折り畳み式の丸いテーブルの上には空の薄汚れたスープカップ、それに入っているスプーン、丸めたティッシュ、食べかけのコンビニ弁当、無造作に置かれた化粧品、そして手作りの写真立て。海を思わせる深い青と、白い貝殻に珊瑚、ラメと海砂が散りばめられた力作だった。あいつの器用さを表した代物だ。中の写真は反射していて丁度ここからは見えない。奥にある押し入れの中には、おぞましいコレクションの数々が収納されているのだろう。

 床に脱ぎ捨てられたパジャマと私服が散乱し、行く手を阻んでいる。ゆっくり踏まないように気をつけながら進む。途端に、人工的な甘ったるい桃の香りがした。カラーボックスの上に置かれた芳香剤が原因らしかった。嫌いな臭いだ。早く用事を済ませてしまいたい。

 向かった先には物干し竿から釣り下がったピンチハンガーに、年季の入った水玉模様のブラジャーとパンツが干されていた。それを押しのけてようやく目的地である本棚へ辿り着いた。屈んで本棚から取りやすい位置にあった黄色いハードカバーを引き抜く。これでいい。用は済んだのでもと来た道を引き返し、扉をゆっくりと閉めて姉の部屋から退散した。

 黄色いハードカバーを自室へ持ち帰り、パラパラとめくっていると、とある物が本の隙間から抜け落ちた。幼い頃に俺が姉に贈った四葉のクローバーを押し花にした栞だった。未だにこんな物を持っているのか。俺は二つにへし折った栞を、ゴミ箱代わりに置いている段ボール箱の中へ押し込んだ。気持ち悪い。本当は姉の持っている本すら借りたくなかったが、漫画じゃない本を買う金が勿体ないのと、茹だるような暑さの中で図書館なんて堅苦しいところへわざわざ行くのが億劫だった。家からチャリで飛ばしても四十分は掛かるから仕方ない。

 姉に話しかけたくないし、顔も見たくないが、こっそり借りてまた元に戻しておけば気付きやしないだろう。あいつが仕事から帰ってくる前に読書感想文を書き終えてしまわねば。

 そうなると呑気に小説を読んでいる暇はない。適当にネットからいくつかレビューを拾って繋ぎ、ばれない程度に真似させてもらう。あとは本文から参照して適当に感想を書いていく。今どき真面目にこんなものを書いている奴は少ない。皆やっていることだ。

 とりあえず書き終えると今度は本を戻しに、再び姉の部屋へ侵入する。奥の本棚へまた慎重に進み、とりあえず本を戻すことに成功した。あとは帰るだけだ。桃の芳香剤が相変らず鼻を刺激する。こんなところに一秒でも長居はしたくない。自然と足が速くなる。それがいけなかった。「遠足は家に帰るまでが遠足です」とはよく言うものだ。俺は床に脱ぎ捨てられた私服に足を取られて派手に滑って転んでしまった。背中をフローリングに強打し、情けない叫び声を上げる。最悪だ。しかも咄嗟に干されていたブラジャーを握ってしまったので、洗濯バサミが大きな音を立てて引きちぎれてしまった。

 息を整え、立ち上がった。さて、どうするべきか。いや、幸いこんな汚い部屋だ。ばれやしない。洗濯バサミが一つ取れたぐらいで…。悩んだ結果、取れた洗濯バサミは自室のゴミ箱で処理し、ブラジャーは他の洗濯バサミに挟んでおくことにした。そろそろ姉が仕事から帰って来る頃だ。ぐずぐずしてはいられない。姉の部屋から脱出し、自室に籠城することにしよう。

 姉の部屋から脱出したほんの数分後、姉が帰ってきた。大丈夫、ばれない。そう自分に言い聞かせたが、なかなか冷や汗がとまらない。早く大学生になってこんな家、飛び出してしまいたい。

 

 俺が姉を避けるようになったのは、俺が小学校中学年になった頃からだ。それまでは比較的普通、いや、普通の姉弟より仲が良かった方だと思う。姉が極度のブラコンで、俺を散々甘やかしてきたからだ。だが姉の思考というか、思想というか、性癖と呼ぶべきなのか、いまひとつ分からないが、ある行動に嫌気が差した。

 姉は大切なものを何でも「圧縮」して保管してしまうのだ。比喩ではなく、その言葉通り。姉は宝物をぺちゃんこにして、自室の押し入れに保管する。

「形あるものは朽ちるけど、二次元のものは永遠なの。ずっと思い出にできるの」

 そんなようなことを言って、姉はあらゆるものを圧縮した。宝物を圧縮することにより、思い出を永遠にできる、閉じ込められる―そう信じているのかもしれない。それだけを聞けば何てことない思想だが、侮ってはいけない。

 その奇行は母さんが亡くなる時期に発症した。押し花から始まり、次におもちゃや食べ物に昆虫、最終的には死んでしまったペットのハムスターにまで及んだ。ここまで来ると、人は何を感じるだろうか。気持ち悪い、歪だと俺は感じた。

 姉は成人を迎えた今、さらにその癖が強まり、日々狂気的な圧縮行為を繰り返している。それでも父さんは母さん似の姉を手元に置いておきたいのか、頑なに病院へ連れて行こうとしない。

「誰にも迷惑掛けてないから、いいよな?」

 そう言いながらも、俺に他言しないように注意してくる。俺が被る害は考えてくれないらしい。本当はもっと早い段階で病院に連れて行くべきだったのだ。完全に手遅れだ。早くここから出なくては、俺まで汚染されてしまいかねない。俺が俺であるうちに、この家から出ていく。大学生になるまで、あと半年の辛抱だ。

 

 ベッドに寝転がってスマホでパズルゲームをしていると、自室のドアを叩かれた。呼びかける声も聴こえてくる。姉に違いなかった。寝ていたことにして無視をしようと決め込んだが、それでもしつこくドアを叩かれる。これは無視したら後で更に面倒なことになる気がする。根負けしてドアを少し開けた。

「何?」

 できるだけ寝起きらしく、不機嫌そうな声で応える。姉はそんな俺の様子を気にもせず、能天気な声を出す。

「慶仁、ただいま!」

 ああ、おかえり、とイライラを抑えて返す。いつも帰ってきてからわざわざ俺の部屋へ来てただいまなんて言わない。何か用があるのだろう。もしかして、部屋に侵入したことがばれたのか。身構える。顔が引き攣ってしまう。

「別に怒ってないよ、お姉ちゃんの部屋に入ったことなんて。あんたも男の子だからねえ。お姉ちゃんの下着でも漁っていたのかなあ? 思春期ねえ。詮索はしないから、安心して」

 満面の笑みで、姉は笑った。夜の闇に溶けそうな黒髪と、奥二重の艶やかな瞳が妖しく光る。眉毛は太いが薄く、整える必要もないほど綺麗なカーブを描く。白蝶貝のように滑らかな白い肌と、申し訳程度にうっすらと引かれたピンク色の口紅が良く似合う。世間から見りゃ美人と持て囃される容姿だが、俺には負の対象でしかない。十数年前に死んだ母さんの生き写し。俺と姉が泣き叫んでも、病魔が掻っ攫っていった死の象徴だ。

 気持ち悪い。吐き気を催した。胃液が食道へ逆流し、火傷しそうなほど胸を焦がす。こいつはどうして、こんなに気持ち悪いのか。どうして俺の姉なのか。分からない。理不尽だ。嗚咽を漏らし、涙が目から溢れて零れ落ちた。これは拷問だ。逃げたいけど、逃れられない。

「どうしたの? 別に怒ってないからね、お姉ちゃん」

 そう繰り返し、姉は俺の顔を覗き込むようにして見つめてきた。顔が近づき、吐き気がさらに増した。

「具合悪そうだね。少し寝てるといいよ」

 姉は俺の頬を細くて白い指で優しくなぞった。その仕草は、昔、母さんがよくしてくれたやつだ。あの感触にとてもよく似ている。でも、全然違うのだ。

 俺は姉から解放された。ドアに鍵を掛けてベッドに飛び込んだ。心臓がうるさかった。おとなしく図書館へ行っていればこんなことにはならなった。当たり前だ。後悔したところでもう遅い。ばれない自信があった。どうしてばれたのか。やはり、ブラジャーの位置をずらしてしまったのが原因か。わからない。それとも、あの気色悪いショッキングピンクのテディベアが密告でもしたのだろうか。我ながら滑稽な推理で、乾いた笑いが込み上げる。寝てしまおう。嫌なことがあったときは、寝てしまうのが一番だ。

 

「ほら、おいでよ」

 姉が、俺を誘い込む。純白のベッドに、裸で、こっちへ来いと、俺を誘惑する。白い部屋、果てがない、限りなく白くて静かな空間だ。俺も裸だった。自分の意志とは裏腹に、姉の声に導かれるようにしてベッドの方向へと歩みを進めてしまう。

 嫌だ、やめてくれ、でも、身体が言うことを聞いてくれない。心と身体の意見が一致しないのは、とても息苦しいと知る。俺は柔らかいベッドに潜り込んだ。シルクのような肌触りだ。姉は待ちきれないと言わんばかりに、身体をぴったりとくっつけてくる。白くて華奢で、その割には豊かな胸で、微笑んだ顔は目も心も奪われるほど美しく、この世の男どもが夢見る完璧な女だ。

「怖くないよ」

 俺たちが向かい合うと、姉は俺を抱き寄せてキスをしてきた。激しいものではなく、風が頬を撫でるぐらいの、優しいキスだ。身体が硬直している。せめて目を閉じたいが、それさえも許されない。

「始めよっか」

 やがて姉は俺の下半身に手を伸ばしてきた。しかしそこは唯一俺の意志を反映し、全くと言っていいほど変化がなかった。

「どうして?」

 姉の焦った声。こんな風に取り乱すとは、珍しい。姉はさらにそこを刺激する。だが依然として反応はない。

「どうしてよ!」

 焦りが苛立ちへと移行した。姉の黒い瞳がぐるんと、急にひっくり返って白目になった。そう思ったら今度は真っ赤に変色し、血が噴き出す。次第に鼻と口からも血が溢れ出した。

「逃げないで、私の、私の、もの。私の、慶仁…」

 逆再生のような奇妙な声を喚き散らし、姉は俺に襲い掛かってきた。その頃になってようやく身体が言うことを聞くようになった。じたばたとパニック状態に陥りながらもなんとか姉を振り切り、ベッドから這い出した。

 逃げる、逃げなくては。姉の纏わりつく血液を振り払うように、先も見えないどこまでも白い空間の中、俺は後ろを一度も振り返ることなく走り続けた。

 

 視界がぼやけている。目に違和感を抱く。コンタクトを外さないで寝てしまったらしい。全身に汗をかいていた。

 心臓の音が頭に響いている。嫌な夢だった。夢の中にまで姉に登場されるとは、本当についていない。いつもは見たことすら忘れる夢なのに、こういうときだけ鮮明に覚えていやがる。自分の脳みそを恨めしく思う。

 でも幸い、完全なバッドエンドではなかった。強烈な体験はしたものの、最後は逃げられた。これは、俺が姉から逃げられるという暗示ではないのか…? そう思うと少し気が楽になる。

 重くてだるい身体をベッドから起こす。机の上にあるスマホのランプが緑色に点滅していた。腕を伸ばして手に取り、通知を確認する。涼音からのメッセージだった。俺の可愛い彼女だ。

『今日デートの日だからね。忘れないでよ! 遅刻厳禁!』

 そうだった。姉のことがあって、完全に忘却していた。可愛い涼音とのデートを忘れてしまうなんて、俺らしくない。すぐさま時間を確認したが、今は十時、待ち合わせは十三時だ。十分に間に合う。胸をそっと撫で下ろしたときだった。

 こつん。こつん。

 ドアを叩く音。可愛い彼女と久々に会える喜びのテンションから、一気に奈落のどん底へ突き落された。

「慶仁、具合はどう? お姉ちゃん、お粥つくったのよ。ちょっと、ドア開けて」

 また寝たふりを決め込む。もう開けない。開けたらこちらの身がもたない。

「まだ寝てるの? 慶仁?」

 ノックが強さを増した。ドアがギシギシと軋む。勘弁してくれ。

「慶仁。お姉ちゃんのこと避けているの? お姉ちゃん悲しいなあ。私はね、慶仁のこと大好きよ。大切な人なの。お姉ちゃんのこと、異性として意識しちゃって気まずいかもしれないけど、私は慶仁を受け入れる覚悟はできているから。慶仁がお姉ちゃんのこと欲しいって言うなら、いつでも言ってくれていいのよ。あと、欲しいなら下着あげるから。そりゃあ何枚も持って行かれたら着るのがなくなっちゃって困るけど、欲しい柄とかあったらあげるからね。それと、お姉ちゃんに着てほしい下着とかあったら…」

 ドアの向こうで姉は勝手にぺちゃくちゃ話し始めた。しかもその内容の酷いこと。たまらず段ボールのゴミ箱を引き寄せ、中に胃液を吐き出した。昨日捨てた、半分に折った栞が俺の胃液で汚されていく。気持ち悪い。普通の人からすれば綺麗な声なのだろう。でも、俺には呪文にしか聴こえない。俺は耳を塞ぐようにヘッドホンでロックを流した。

 だが、呪文は延々と流れていたらしい。ヘッドホンを外したらまだ聴こえるので戦慄した。気付けばもう十二時近くだ。信じられない。二時間も俺の部屋の前で呪文を唱えやがっている。俺は我慢を通り越し、部屋から出て姉と対峙した。

「あ、慶仁。おはよう、っていうには遅すぎるけど。お粥冷めちゃったから、今あっため直し…」

「病院行ってくるから」

 姉の言葉を遮って洗面台に向かう。一緒に行くと言う姉を押しのけて外出の準備を始めた。父さんが休日出勤で車が無くて助かった。姉は電車通勤だから車を持っていない。

 無論、病院に行くなんて嘘だ。これは精神的なものだから、病院に行ったって治りっこない。行くとしたら精神科になるだろうが、俺一人が行ったところであまり解決はしないだろう。それならば彼女とデートをして、この極度なストレスを少しでも和らげる必要がある。

 鏡に顔色の悪い俺が映った。自他共に認める男前な顔のはずが、今ではすっかりと目から自信の色が抜け落ちている。肌は風邪を引いたときのように赤く荒れ、目の下の濃い隈が目立つ。幸が薄そうな男前というのも一定数の需要はあるかもしれないが、俺はこの俺を俺だとは認めたくなかった。こんな姿は涼音に見せたくない。涼音は優しいから愛想を尽かすことは絶対にしないだろうが、彼女が好きなのは確実に自信を持っている俺だ。

 とりあえず洗顔をすると、少しだけマシになった気がする。それでもいつものコンディションとは程遠い。最早デートをキャンセルしようかという考えが頭をよぎったが、久々に涼音と会いたい気持ちは捨てられない。夏休みに入ってからお互いの予定が合わなくて一ヶ月近くも顔を合わせていないのだ。ドタキャンしたら彼女も悲しむだろう。それだけは避けたい。涼音の悲しむ顔を思い浮かべると胸がきりきり痛んだ。

 行くことを決心する。ワックスで髪を整えた。また少し、マシになった気がする。そろそろ時間だ。俺は家を飛び出した。姉に怪しまれないように。


 待ち合わせは駅だった。家族と一緒に海へ行ってきたという涼音は、健康的な小麦色の肌に変わっていた。浜辺で彼女のお兄さんと一緒に写っているSNSの写真投稿を思い出す。水色で大きなリボンが胸元についたビキニがとても似合っていて眩しくて、何より可愛かった。彼女だから贔屓しているという訳でもなく、本当に可愛いのだ。ぱっちりした二重の大きな瞳に、分厚くて男を無意識に誘っている瑞々しい唇、小柄で小動物を思わせるちょこまかとした仕草や、肉付きの良い身体の柔らかい感触が堪らない。涼音には姉のような美人の要素は全くなく、本能的に守りたいと思わせる可愛らしさがあった。

 高校の入学式で俺が一目惚れし、友達に必死に頼み込んで何とか紹介してもらい、長い友達期間を経てからようやく付き合うことができた。手を繋いで一緒に街を歩けば「理想のカップル」として周りから羨望の眼差しを向けられる。最高だ。色んな女に目移りしていた中学時代が馬鹿らしかった。本当に好きな女ができれば他の女なんて全く気にならない。「男は浮気する生き物」とか言っている奴は本物の愛を知らないだけだ。俺には絶対に涼音しかいない。彼女もそう思ってくれていたら、たまらなく嬉しい。

「慶仁君、遅いよ」

 少し遅れて登場した俺に、涼音がむくれる。怒った顔も最高に可愛い。

「いや、ごめん、ごめん」

 俺は涼音の肩を抱き寄せた。暑いよ、と言って離れようとするが俺はさらに強く抱きしめる。姉によって汚染された心が溶かされていくのを感じる。ああ、この感じだ。これが幸せだ。いいにおいがする。ショートボブの髪はサラサラで、軽く梳かしてもすぐに指を通り抜けていく。愛おしい。叶うならば、彼女を攫って二人でどこか遠くへ行ってしまいたい。

 俺が涼音と久々の再会に浸っていたときだった。何故か突然、身体中に鳥肌が立った。視線を感じた。いや、視線を感じるのはいつものことだ。俺たちは誰もが羨む「理想のカップル」だ。当たり前のことだが、じろじろと見られてしまう。それは仕方ないことだが、いつもは感じない何かを察知した。言うならば、敵意。姉と同族の、気持ち悪い人間が俺たちを見ている気がした。いや、まさか、そんな。姉と同じような奴が何人も居るはずがない。居てたまるか。きっと俺は疲れているに違いない。あのクソ姉のせいで、精神が相当やられているのだろう。今は全てを忘れて楽しまなくては。

「どうかしたの? 慶仁君」

 俺の固くなった表情を不審に思ったのか、涼音が不安そうに俺を見上げてくる。可愛い。彼女を不安にさせるわけにはいかない。何でもないよ、と俺は微笑んだ。

 今日は隣町にある有名な神社に行くことになっている。俺は神様を信じていないが、涼音が大学受験の合格祈願に行きたいと言ったのだ。

「慶仁君も行こうよ。ちゃんと二人で受かりたいからね」

 涼音にそう言われちゃ断るわけにはいかない。俺たちは同じ大学を第一志望にしている。

 電車に乗り込んだ。ボックス席が空いていたので向かい合って座った。そこへ邪魔するように誰かが俺の隣に座ってきた。

「おやおや、お二人さん仲良しだね」

 変な奴に絡まれたと思ったら、見知った顔だった。クラスメイトの犬飼だ。小柄で人懐っこい、誰からも好かれるタイプ。小学校からの仲で、親友と言っても差し支えない。

「お前かよ。誰かと思った。いい雰囲気なんだから、邪魔するなよ」

「いいじゃん、いいじゃん。今日はどこ行くんだ?」

「広賀町に」

「え、マジ?」

 犬飼が気色悪い笑みを浮かべる。あそこにはラブホテル街があるからだろう。涼音も気付いたようで、顔を真っ赤にして恥ずかしがっている。可愛い。

「違う、違う、お前馬鹿だろ」

 勿論、そういうことをしたいのは山々だが、今は高校生だ。ここはグッと我慢する。

「分かってるって。そんなことよりさ」

 犬飼はこちらを茶化した後、急に真顔になって俺の耳元で囁いてきた。

「お前のお姉さん、彼氏いんの?」

「俺の知る限り、いないと思うけど」

「さっき見たんだよ、俺。すげえ男前と一緒に居るところ。眼鏡で、いかにも理系って感じの賢そうな男だった。あの雰囲気はナンパとかじゃなさそうだ」

 犬飼の情報に俺は面食らった。あの姉についに彼氏が…全く知らなかった。

「俺は残念だよ。どうせ俺とじゃ釣り合わないけどさ、ショックだった。推してたアイドルが交際宣言して絶望するファンの気持ちがよく分かったわ」

“見る目がないな、お前”

 そう言いたいが、我慢しておく。姉の信者に噛みつくと面倒だ。

「そろそろ邪魔しちゃ悪いから、俺行くわ。またな」

 犬飼は貴重な情報を提供してくれた後、空気を読んで去って行った。

「ねえ、何話してたの?」

 すぐさま涼音が問い詰めてきた。予想していた質問だ。

「あいつの好きな女に、彼氏ができたらしいよ」

 嘘は言っていない。俺の姉だと言っていないだけで。

「そうなんだ。また良い恋が見つかるよ、きっと」

 涼音の柔らかい笑顔が眩しい。よく知らない俺の友人を気遣ってあげるなんて、とても優しい。やっぱり涼音は最高だ。俺の天使だ。神様は信じないけど、天使は信じよう。涼音の笑顔が俺のエネルギーだ。

 ようやく目的の駅に着き、神社を目指して歩いた。真夏日で神社に着く頃は汗びっしょりだったが、境内は大きな木で日差しが遮られて快適だ。涼音の白いシャツワンピースが汗で透け、ピンクのブラジャーがうっすらと見える。あんまりじろじろ見ていると怒られてしまうので、たまに盗み見るぐらいにしておくのが賢明だ。

 神社は有名なだけあって、田舎なのに結構賑わっていた。そういえばこの神社には初めて来た。地元だといつでも行けるから、なかなか足を運ぼうと思わないのだ。

「早くお参りしようよ。神社だから、二礼二拍手一礼だね」

 涼音が俺の手を引っ張って急かす。可愛い。

「よし、大学受験合格祈願! 奮発して百円玉入れちゃおう!」

 涼音はマリンカラーの財布から百円玉を取り出した。俺が誕生日に贈った財布だ。

 すごいな。俺は神様を信じていないから、百円でも勿体ないと思ってしまう。神様を信じる人に賽銭が勿体ないと言ったら、きっと怒られるどころじゃ済まされないだろうな。

 俺も財布を取り出す。小銭入れを開けると…五百円玉一枚しか入っていなかった。

 列に並んでしまったからどこかで崩すわけにもいかないし、涼音に借りるのも、男としてのプライドが許さない。そもそもこういうのは自分のお金を入れるものだろうし、借りるのはきっと良くない。

 仕方ない。順番が来て、俺は五百円玉を賽銭箱に放り込んだ。

『平穏に生きたい』

 これが俺の願いだ。

 大学受験合格?

 そんなのは自力でどうにかするから、神様の力なんかいらない。

 涼音と幸せになりたい?

 俺が涼音を幸せにするのは決定事項だ。神様に頼るまでもない。

 だから、俺の力が及ばないことを願うことにする。

「五百円! 慶仁君、随分奮発したね」

 涼音が驚いて目を見開く。元々大きい目が、さらに大きくなる。その瞳に、俺がいつまでも映っているように。それは、自分自身の力で叶えることだ。

「まあね」

 俺はにこりと笑い、涼音の手を握った。

 さあ、神様とやら、お手並み拝見といきましょうか。


 涼音とのデートを終え、心が満たされるのを感じながら帰宅した。

 体調はかなりよくなった。やはり病院に行くより、涼音とのデートの方が効果的だ。

 風呂に入ってから自室に戻った。心地よい疲れの中、ふかふかのベッドに潜り込む。楽しかった。涼音さえいれば、俺はこの半年乗り切れる。大丈夫。

「ん?」

 眠ろうとしたとき、何かを目の端に捉えた。机の上に黒い封筒が置かれている。こんな物は知らない。姉が勝手に俺の部屋に入って置きやがったのか。嫌な予感がした。見ない方が良いのではないか? でも、見ないでもっと大変なことになったらそれはそれで後悔する。どちらにせよ後悔するのなら、今覚悟を決めて見た方が良いかもしれない。

 俺はパンドラの箱の如く、災厄がぎっしり詰まっているであろう封筒に手を伸ばした。厚みがあって封筒にしては重い。怖い。どうして幸せな気分で一日を終わらせてくれないのだろうか。クソ姉は俺に何をしたいのか。封筒の開け口は糊でべったりだったので鋏で封を切る。心臓が高鳴る。勿論、悪い意味で。

 中身を見ると、急激な吐き気に襲われた。さらに頭痛も眩暈も合わさり、殆ど立っていられない状態になった。机に身体を預けて倒れないよう腕の筋肉で支える。姉によってハンマーで粉々に潰された哀れなハムスターを思い出す。せっかく涼音に癒されていたのに、こんなのってあんまりだ! ふざけるな! クソ! クソ!

 ……封筒の中身は写真だった。

 俺と涼音の、先程のデートの様子を隠し撮りしたものが、ざっと数十枚入っていた。遠くから撮られているが、確実に俺と涼音だと分かる。誰がこんなことを…いや、クソ姉しかいない。こんなことをするのは、クソ姉だけだ!

「おかえり、慶仁」

 悪魔の声がした。自室のドアが開き、姉がぬっと俺の部屋に我が物顔で入ってきた。ひっ、と口の隙間から小さな悲鳴が漏れた。おかしい。鍵を掛けたはずだ。それは習慣になっている。いくら涼音に癒されて浮かれていたとしても、鍵を掛け忘れるはずがない。とすると、俺がデートに行っている間に鍵を壊したとしか考えられない。

「病院じゃなかったの? 嘘ついてデート行くなんて、駄目じゃないの」

 姉が近寄ってきた。口角は上がっているのに、目が笑っていない。俺の身体が、ガタガタと身震いを始めた。

「その写真、お姉ちゃんが撮ったんじゃないのよ。私はただ、慶仁の机に置いただけ」

 姉がさらに近づいてきた。もう限界だ。いや、限界なんてもうとっくに超えている。

「来るなあああああああ!!」

 腹の底から拒絶の言葉を浴びせた。自分が出した声とは到底思えない声で、獣の断末魔のように。

 身体が勝手に動き、姉の顔を、思い切り蹴り上げた。長い脚の持ち主だからこそできる芸当だった。

 ガッ。どすん。

 姉が後ろ向きに倒れ、頭をドアノブに強打した。鼻血が噴き出している。気を失ったのか、目を覚まさない。

 やっちまった。怒りで我を忘れてしまった。少し冷静になり、後悔が波のように押し寄せてくる。クソ! 流石に死んではいないだろうが、非常にまずい展開だ。もう逃げるしかない。姉が反撃をしてくる前に!

 自室のドアは姉の身体によって塞がれている。どかしている暇も惜しいし、動かした拍子に目を覚ましてしまうかもしれない。俺は窓を大きく開け放つと、窓から下へ飛び降りた。二階なら相当運が悪くなけりゃ、死にはしない。

 着地は思った以上の衝撃と痛みが襲ってきた。電流がビリビリと流れるような、痺れた熱い痛みだ。骨が折れたのではないかと疑ったが、少しすると歩けるようになったので恐らく無事だろう。帰宅部のくせに普段身体を鍛えていたのが幸いしたのか。それでもかなりのダメージが蓄積されている。姉に追いかけられたら逃げ切れる自信はない。早くどこかへ行って姉から身を隠さなくては。

 のろのろとダメージが大きかった左脚を引きずって、ようやく近所の公園までやってきた。姉はもう目を覚ましただろうか。もう少し眠っていてくれると助かるが。靴を履いていないので、足裏もずきずきと痛む。仕方ない。緊急事態だ。誰かに頼るほかない。

 俺はポケットに入っていたスマホを取り出し、父さんに電話を掛けた。

『ただいま電話に出ることができません。御用の方は…』

 五回目のお留守番サービス移行の音声を聴きながら、イライラして電話を切った。あのクソ親父出ねえ。どうせまた酔っぱらって部下を困らせているのだろう。無能な上司の部下たちを哀れに思う。仕方ない、次だ。ここから歩いて行ける距離にある友人の家を思い出す。

 …だが、ない。そもそもうちの近くに友人の家がない。うちの最寄りの隣駅まで行けば誰かが匿ってくれそうだが、このダメージだ。駅まで歩いて行くのも大変だし、行けたとしても靴がないから電車に乗るわけにもいかない。そうなると頼れるのは、家の近い…。

 いや、涼音を巻き込んでしまうわけにはいかない。奥歯をぎゅっと噛みしめた。あの可愛い涼音が姉に汚染されてしまってはいけない。涼音は俺が守る。絶対に。そう心に誓ったタイミングで、スマホが振動した。青いランプが点滅する。電話だ。父さんかと思ってスマホに飛びついたが、電話は涼音からだった。少し迷ったが、俺には涼音からの電話を無視なんてできない。緑色の応答ボタンを押して電話に出る。

「もしもし! けいじくんっ!?」

 涼音の取り乱した声が聴こえる。どうしたのだろう。胸がざわざわと騒ぐ。もしもし、と冷静に返事をする。

「良かった、無事で…」

 俺の声を聞くと、涼音の心底ほっとした様子が電話越しから伝わってきた。

「慶仁君、今家に居るんだよね? 外、出ちゃ駄目だよ」

 涼音は申し訳なさそうに、そして、懇願するようにそう言ってきた。何かあったことは確実だ。どうしたのかと訊くと、涼音は言葉に詰まり、そしてひねり出す様に言った。

「あのね、私ね、実は…慶仁君と別れなさいって言われてて…」

 涼音の言葉に頭が真っ白になる。どうしてだ? 誰がそんなことを言ったのか。涼音のご両親か? 俺は涼音を何よりも誰よりも大事に、そして優先してきた。こんなにも愛している。それなのに、別れろ、だと? 唇が震えた。怒りと言うよりも、ただただショックだった。俺は涼音にふさわしくないのか?

「でも、私嫌だって言ったの。そしたら、おに…」

 そこで、涼音の言葉が途切れた。俺の手からスマホが離れ、地面に落下した。

 誰かが後ろから、俺の口にハンカチを押し当ててきたのだ。気持ち悪い。臭いですぐに薬品が沁み込んでいると分かった。咄嗟に相手の腕を振りほどこうとするが、かなり力が強い。苦しい。気持ち悪い。死ぬ。小説やドラマでよく見かける、すぐに気絶させられる代物ではないようだ。抵抗してもハンカチを当てている人物は俺が逃れないよう、地面に叩きつけ、痛めつけてくる。叫び声も上げられやしない。うー、うー、と死に際の獣のように唸ってのたうち回るが、人通りも民家も少ない暗くて小さな公園に空しく響いただけだった。

 クソ姉が意識を取り戻しやがったのか…!?

 薄れゆく意識の中、姉への殺意だけが消えずにめらめらと燃えていた。

 

 目が覚めると、俺は冷たい地面の上に仰向けで寝かされていた。全身が痛いし、吐き気が酷い。頭が特に痛い。手足が縛られ、さらに地面に身体が固定されている。身動きがとれない。かろうじて動かせるのは首だけだった。日は沈んでいるが、周囲は電灯で照らされていて暗くはない。見覚えのない場所だ。

「おはよう、慶仁」

 姉が俺を見下ろしていた。右鼻の穴に丸めたティッシュペーパーがねじ込まれ、額には包帯が巻かれている。俺の足蹴りを受けた怪我だろう。悲痛な笑みと相まって世間が美人と持て囃した容姿は見る影もない。

 姉は俺の顔の近くに腰を下ろす。人工的な桃の臭いがした。そして地面に寝ている俺の顔を上から覗き込む。

「ねえ、六歳のとき私に四葉のクローバーを渡して、『俺、お姉ちゃんと結婚する』って言ったこと覚えてない?」

 両頬を手の平で挟まれた。手足を縛られているから当然抵抗はできない。

 俺は怒鳴りたくなるのを抑え、軽く首を振った。そんな十年以上も前のことを覚えているはずがないだろ。

 俺の反応に姉はため息を吐いた。全てを諦めたような、長くて深いため息だ。何だよ、呆れたいのはこっちだというのに。悔しくて、ぎりぎりと歯軋りをしてしまう。

「慶仁、良い子だったのに。こんなこと、する子じゃなかったのに」

 姉はごそごそと何かを取り出すと、俺の顔近くでそれを広げた。半分に折れ曲がった四葉のクローバーの栞だった。俺の部屋のゴミ箱に捨てたはずだ。こいつ、ゴミを漁ったのか。

「私の宝物だったの、それ。どうして捨てるのよ」

 姉は泣いていた。肩を震わせて、泣いていた。零れ落ちた涙が俺の顔に流れ込んでくる。その様子は姉ではなく、一人の別の女性のように見えた。一瞬何故か後悔が込み上げてきたが、俺はそれを振り払うように言い放った。

「知るかよ、そんなの。もう弟離れしてくれ。頼むから」

 騙されてはいけない。こいつは悪魔だ。同情なんて、してやるものか。

「うん。知ってるよ。うん。そうなんだよね。あの頃には戻れないんだよね」

 姉は自分に言い聞かせるように呟くと、今度はカッターナイフを取り出してきた。俺を切りつけるのか?それとも縄を解いてくれるのか? 心の中で身構える。

 しかし姉はやはり姉だった。俺の想像の範疇を遥かに超える行いをする。姉は俺を切りつけることも縄を解くこともしなかった。その代わり俺の服をカッターナイフで切り裂き始めたのだ。

「お前、何しやがるっ!」

 手足を縛られていて、芋虫のように身体をくねらせることしかできない。せめてもの抵抗だった。

「駄目だよ、慶仁。肌が傷ついちゃうよ。うーん、やっぱり難しいなあ。あ、裁ち鋏も持ってきたんだった。ほら、動いちゃ駄目だって。良い子にして、お願いだからさ」

 姉はカッターナイフと裁ち鋏を使って器用に俺の服を剥いでいった。夏用部屋着の薄いTシャツと半ズボン、トランクス、全部だ。俺の抵抗は空しく、自分の肌を傷付けることにしかならなかった。

 俺は姉に服を取り上げられると、無様にも泣いていた。これが姉を理解しようとする努力を怠った結果なのか。

「慶仁の臭いだ。良い臭い。私の部屋に入ったの、これで分かったんだよ。慶仁の臭い、私には分かるの」

 俺の履いていたトランクスを鼻に当てて臭いを嗅ぐ姉は、恍惚とした表情を浮かべていた。俺は殺意のこもった目で姉を睨みつけていた。涙が出たことで視界がぼやけるので今なら直視できる。こいつさえいなければ、俺は幸せだったのに。あるいは母さんが生きていたならば、もう少し違った結末になっていたかもしれない。母さんは常識人だった。少なくともクソ親父とクソ姉ほど歪んだ人ではなかった。

「そんなに怖い顔しないでよ。まるで、私さえ居なければ、みたいな顔」

 俺の表情を読み取ったのか、姉は小さい子供を諭すように言う。

「私が居なくても、彼女とは結ばれなかったと思うよ。名前何だっけ? スズナさんだっけ? 邪魔者は一人だけじゃなかったってことよ」

 姉の言葉に、俺は絶句した。冷静に考えれば、そうだ。思い返せば、姉一人ではこんなこと全くできるはずない。だって、姉は俺より力が弱い。俺は男だから当たり前だ。即ち俺を後ろから襲って担いで運ぶなんて、絶対に無理なのだ。白くて華奢な身体にできるはずがない。そもそも家には一台だけしか車がないし、それに父さんが乗って仕事へ行ったから尚更だ。

「気付いたようだね。写真だって、私が撮ったものじゃないって言ったでしょ?」

 愉快そうに姉は微笑む。じゃあ一体誰が…?

「あっ、お兄ちゃんって言おうとしたのか…」

 涼音の言い掛けた言葉を思い出した。涼音のお兄さん、優しそうだったけど、俺の姉と同じ人間だったのか。SNSの写真の中でしか知らないけど、俺に勝るとも劣らない爽やかな男前だった。可愛い妹に近づく俺を、良く思わなかったのか。

「そういうことよ。残念だけど、スズナさんは諦めなさい」

 諦めろだと? ふざけるな。頭に血が上る。

「スズナじゃなくて涼音だ! あいつは俺の彼女だ、何があっても! 別れろって言われても、嫌だって、言ってくれたんだ!」

 俺は俺の気持ちを吐き出した。悪魔が何人居ようが、関係ない。この気持ちは、どんな拷問をされたって揺るがない。

「ですってよ、お兄さん」

 クスクスと笑う姉の視線の先から足音がした。俺を見下ろす、不愛想な眼鏡の男の顔が見えた。男は腰を下ろし、俺の顔をまじまじと観察してきた。神経質そうだが確かな男前で、くっきりとした二重の大きな瞳は涼音によく似ていた。違うのは鼻がやけに高くて尖っているところと、唇が薄いところだ。涼音と同様に日焼けしており、その身体は逞しい筋肉で構成されていた。犬飼が言っていた、彼氏と思しき人物はこの男に違いない。

 男はゆっくりと立ち上がる。何をするつもりかと思ったら、俺の腹を思い切り蹴とばしてきた。つま先が鋭利な革靴が腹の真ん中を抉る。俺は何もできない。ただ嗚咽を漏らしながら、痛みに耐える。息をするのが難しい。空気を吸い込むと腹が痛む。どこかの骨が折れてしまったのかもしれない。

「やあ、慶仁君。こんばんは」

 男は激痛に悶え苦しむ俺の姿を見て微笑んだ。ぞっとするような良い声。低いのによく通る滑舌の良い声だ。眼鏡の奥の大きな瞳が、獲物を捕らえた獣のように危ない光を放っている。

「お兄さん、乱暴にしないでください」

「ちょっとした挨拶ですよ。お姉さんの顔を傷つけた罰です」

 姉が男を止めると、男は不愉快そうに眉をひそめた。本当は俺のことをもっと痛めつけたいのだろうが、姉の手前だからできずにいるらしい。

「涼音は、俺の、彼女だ…。別れろって、あんたに言われたって、別れるものか…」

 息も絶え絶えに、俺は男に反抗した。男は更に激昂するかと思ったが、予想外の答えが返ってきた。

「涼音なんて僕はどうでもいいんだよ。お姉さんが悲しむから別れろって言っただけ。お姉さんのためなら妹だって利用する」

 頭の中が真っ白になった。こいつ、姉の崇拝者だったのか。俺の姉と同じ人種かと思っていたが。

「最初はそう、可愛い妹に近付く君を排除したかったんだけど、お姉さんと出会ってからどうでもよくなってさ。お姉さんを知ったら涼音なんて、そこら辺の石ころぐらいにしか思えないし」

 石ころだと? 実の妹に向かって。

 こいつ、ふざけやがって。俺の可愛い彼女を侮辱しやがって、クソ!

 身体が拘束されていなかったら、こいつに殴りかかれるのに。そのクソ醜く歪む顔を、地面に叩きつけてやりたい。

「ああ、君が羨ましい。僕が君だったらお姉さんの身体を好き勝手にできるのに! 愛してもらえるのに! 君は馬鹿だ! こんな女神を抱かないなんて、君は男失格だ!」

 男は俺の髪を引っ張って、ぐいっと顔を近づける。

 さっきまでの男前な顔はどこかにいってしまった。今俺を見つめているのは、ただの、嫉妬に狂った哀れな男だ。

 姉の周りの男は皆狂ってしまう。この人も例外ではない。

 恋人が居ようが、妻が居ようが、老いてようが、男という性になった以上、この女を拒絶することなんてできないのだ。

 ――ただ一人、この俺を除いて。

「お兄さん、やめてください!」

 姉が声を荒げると、男は途端に目を覚ましたように俺から離れた。だが、惨めに喚くことはやめようとしない。

「僕は今までお姉さんに貢いできた。給料の殆どを使ったし、職場から薬品を盗んだし、特殊な免許も取った。でも、一度も愛して貰えなかった。お前ばっかり良い思いしやがって! お前さえ居なければ!」

 殺気に満ちた怒号が耳をつんざく。心の奥底から俺を憎んでいるのがひしひしと伝わり、恐怖でたまらず身震いした。今まで姉を崇拝する者はいても、ここまで狂信している奴はいなかった。

「君はお姉さんの逆鱗に触れたんだ。自業自得だな。慈悲深いお姉さんは君を救済してやろうとしたのに、君はお姉さんの美しい顔を蹴り飛ばした。つまり、更生の機会を自ら捨てちまったんだよ」

 救済? 更生? 好き勝手に言いやがって。こっちは姉の変な性癖で、精神崩壊しそうだってのに。

 俺も涼音も、何でこんなに不運なのだろう。俺が涼音をこの悪魔どもから守らなくてはいけない。こんなところで捕まって、寝そべっている場合ではない。俺は縄から逃れようともがく。縄が肌に食い込んで痛いが、逃げる意志を保つためにも、もがかなくてはいけない。このままでは悪魔に射竦められてしまう。

 二匹の悪魔はそれを見て無駄だとせせら笑った。何がおかしい。人を愛するだけでここまでされる方がおかしい。俺は、正常だ。おかしいのはこいつらだ! 俺は正しい! 誰か、助けてくれ!

 両目から涙が溢れ、視界は殆ど何も見えなくなった。鼻水も涎も出て、身体は子犬のように震えていた。まさしくまな板の鯉だ。

「おもしろいね、その格好。写真撮らせてね」

 クソ野郎が俺の無残な姿を面白おかしく写真を撮り始めたようで、乾いたシャッター音が響いた。これが狙いか。この写真で脅されて、俺は一生姉のおもちゃか。言うことを聞かなければ、またこいつに乱暴されるのだろう。

 頭が痛い。薬品の効果が完全には切れていないらしい。意識が遠のいていく。

 涼音は諦めるしかないのか。やっと出会えた、俺の天使だったのに。でも、俺頑張ったよな。ここまで愛せた。普通の男より、彼女を愛せたよな。多分そうだよな。また明日から頑張ろう。地の果てまで姉から逃げて、また彼女を作ろう。勿論、なかなか涼音ほど可愛くて性格もよくて俺を一途に愛してくれる子なんて出会えないだろうけど。でも世界は広いし、俺はまだ若いし、きっといっぱいチャンスはあるはずだ。ごめん涼音。お前を心から愛していたよ。幸せになってくれ。俺が居なくてもお前ならきっと…。


                 *

 

「お母さん、慶仁が四葉のクローバーくれたの!」

「あら、良かったわね」

「枯れないかな?」

「押し花にすれば枯れないわよ」

「じゃあ、押し花にする!」

 いつか見た、母さんと姉の会話が頭に鳴り響いている。確か、あれが母さんと出掛けた最後の日だ。

 あの日はよく晴れていた。入院中の母さんの外出許可が下りて、家族四人で大きい公園に行ったんだ。本当は遠出したかったが、母さんの身体を労わって近場で我慢した。子供だった俺は遊園地に行きたいって我儘を言って母さんを困らせたっけ。父さんに我儘を叱られてしょんぼりしていたら、母さんが細くて白い指で俺の涙を優しく拭ってくれた。ごめんね、また今度ね、すぐ良くなるから、って俺に微笑んだ。子供だった俺はその言葉を素直に受け取った。信じて疑わなかった。元々細い母さんが痩せたのは薬の影響だと思い込んでいた。

 父さんが母さんの車椅子を押して、途中で姉に代わった。俺も押したいって言ったけど、危ないから駄目だと却下されてしまった。

 いつも来ている公園だったけど、母さんが居るだけで嬉しかった。特別だった。この特別な日に、俺は何か特別なことをしたかった。

 俺は公園を駆け回り、四葉のクローバーを必死に探し出した。そして、姉に贈った。

「俺、お姉ちゃんと結婚する!」

 確かにそう言った。今更思い出すなんて。

 あの頃、俺は姉が大好きだった。入院している母さんの代わりに家事をしてくれて、俺が寂しいと駄々をこねると、母さんのように抱きしめてくれた。悪戯をして父さんに怒られれば、母さんと同様に庇ってくれた。母さんの手作りハンバーグが食べたいと夕飯のリクエストをすると、母さんからレシピを教わって、そっくりに作ってくれた。母さんの作ったやつより形は整っていなかったけど、それでも肉汁がじゅわっと溢れ出る美味しいハンバーグだった。姉も母さんがいなくて寂しいはずなのに、俺にはそれを悟らせまいと、必死に我慢していたのだろう。小学生であれだけ完璧に家事ができたのは、姉が俺の為に頑張ってくれたからだ。おかげで俺は何不自由なく過ごせていた。

 公園から帰宅する前に、家族四人で記念写真を撮った。車椅子の母さんが中央で、俺が左、姉が右、父さんが母さんの後ろに立った。近所に住む柴犬を連れた爺さんにシャッターボタンを押してもらったから少し斜めっていたけど、皆溢れんばかりの笑顔で、とても良い写真だった。あの時間が永遠に続けばいいと思った。

 悲劇はそれから三か月半後に突然やってきた。昼休みが終わる頃、父さんが学校に俺と姉を迎えにきた。初雪が降った、凍えるように寒い冬の日のことだった。

 父さんは何も説明してくれなかった。ただ、「行くぞ」と一言だけ。険しい表情から何も尋ねられず、俺と姉は黙りこくって車に揺られていた。道順から行先は母さんが入院している病院だと分かった。姉は何かを察したのか、隣で静かに泣き始めた。俺だけは訳が分からず、ぼうっと呑気に窓の外を眺めていた。

 そしてその日、母さんは帰らぬ人となった。泣き叫ぶ俺たちを、まるで眠っているような安らかな顔で置いていった。

『お母さんが良くなりますように』

 俺と姉が神様に祈った願いは届かなかった。奇跡は起きなかった。どんなに祈っても願っても、駄目なときは駄目なんだと、俺は気付いてしまった。

 母さんの葬儀はみぞれの日に執り行われた。早すぎる母さんの死に、多くの人が同情してくれた。しかし、酷いことを言う連中がいた。母さんを口説いたけど相手にされなかった奴らだ。いかにもモテない、冴えなくて目つきが悪い五人組の男たちが、大声で盛り上がっていた。

「こんなに早く死んじゃうなんてな。男をたぶらかした罰だ」

 その当時「たぶらかす」の意味がよく理解できていなかったが、母さんの悪口を言っていることは子供の俺でも分かった。

「お母さんを悪く言うな!」

 俺が怒鳴ると、弔問客にお茶を配っていた姉が飛んできた。姉は俺の頭を撫で、優しく宥めた。

「お前、母親にそっくりだ。お前もすぐ死んじゃうんだろうなあ」

 姉の顔を見たリーダー格であろう男は下品な笑い声を上げた。男の取り巻きもつられて笑った。周囲の大人は男たちを窘めはするものの、本気で止めようとする者はいない。トラブルに巻き込まれるのが嫌だったのだろう。

 姉は涙を堪えていた。長い睫毛から涙のしずくが零れ落ちたとき、俺は我慢できずに再び怒鳴った。

「お姉ちゃんを泣かせるな!」

 姉を庇うようにして男たちに立ちはだかった。奴らは興ざめしたのか、顔をしかめて俺たちから離れていった。

 その後、あの男たちは怖くて有名な俺の伯父さんに、こってり絞られたと噂で聞いた。俺は勇敢だったと色んな人から褒められた。大好きな姉を守れて俺は満足だった。

 だから、姉の中で俺はヒーローのような存在だったのかもしれない。今なら分かる。

 それなのに俺は、大切な思い出が詰まった姉の宝物を、何も考えないでゴミ箱に捨てたのだ。多分、それが一番良くなかった。悔いても遅い。遅すぎる。

 

                 *

 

 騒音と振動で再び目を覚ました。地面が揺れている。地震かと思ったが、この単調で人工的な振動、どうやら違うらしい。巨大な何かがゆっくりと俺の方へ向かってきている。

「おはよう、慶仁。お兄さんの準備ができたみたい」

 騒音に交じって姉の声が聴こえた。姉が俺を少し遠くから、見物するように眺めていた。

 俺は近づいてくる何かの正体にやっと気付いた。

 いや、まさか、そんな、そんなこと…。

「ロードローラーだよ。これなら人間も圧縮できそうね」

 おかしい!

 完全に狂っている!

 いつも俺の予想なんか、当たったことなんてなかった!

 写真を撮るだけで済むなんて考えていた俺が甘かった!

 俺は必死に命乞いをした。

 喉が潰れるほど大声で叫んだ。

「やめてください! お願いします!」

 しかし、ロードローラーは確実に近付いてきている。

「大丈夫。あの頃の思い出を閉じ込めるだけ。いっぱい可愛がってあげるから。ずっと私だけを愛して」

 ロードローラーに足が潰され、粉々になっていく様子を感じながら俺は絶叫した。

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圧縮する姉 伊那 @kanae-ryu

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