そして彼女は魂の自由を渇望する

「なにか心当たりがありそうだな」

 

 お爺様は私の言葉を信じてくれた。

 これから先、この程度のことを乗り越えられずに、次々に立ちはだかるであろう困難を乗り越えらるはずがないだろうからだ。

 私とお爺様の会話に馭者も動いてくれた。


「かしこまりました。少々お待ちを」


 馭者席から降りる音がして、足音が回り込んで馬車の左側の扉が開けられる。

 

「どうぞ」


 その言葉を私はタラップを使って降りていく。

 馬車の周りには警備部隊の隊員たちが居る。

 右手に官憲が所有する白塗の長杖を持ち、濃紺のボタンジャケット姿の官憲制服に身を包んでいる。

 頭には警帽を目深にかぶっており、顔立ちからして新人として配属されたばかりに違いない。


 私は悪びれもせず落ち着き払って語りかける。凛とした礼儀正しい声があたりに響いた。

  

「警備部隊の皆様、夜回りご苦労様です」

 

 彼らは馬車から降りてきた人物を目の当たりにして驚きをあらわにした。

 

「エライア?」

「上級侯族の馬車だとは思ったがまさかモーデンハイム家のものだったなんて」

「こんな夜更けにどうしたと言うんだ?」


 上級侯族――、

 この国の上流階級は貴族ではなく〝侯族〟と呼ばれる。私も身分としては侯族となる。

 まだ若さが残る新人隊員たちが矢継ぎ早に問いかけてきた。そして、その中の一人が強く声を発した。

 

「エライア! 軍学校で俺達と共に学んで卒業までしたと言うのに、お前はいったいどこへ行こうと言うんだ?」


 彼のその強い言葉には私を大切な学友として案ずる思いがあふれている。その暖かさと熱さを感じずには居られなかった。だが私は落ち着き払って答えた。


「申し訳ありません。騒ぎにしたくないのです」


 だが疑問を抱えたままの彼らは釈然とはしていない。それでもなお私は言った。


「どうかお察しください」

 

 懇願する言葉に彼らの誰もが言葉を失いつつあった。状況が膠着したその時、歩み寄る人影が2つある。

 その1人が告げる。

 

「おちつけ、お前たち」

 

 年の頃は20代中頃だろう。隊員たちの先輩のような風格だった。

 

「少尉?」

「エルセイ少尉」

 

 少尉と呼ばれた彼は言う。

 

「騒ぎになれば彼女にいらぬ迷惑がかかる。お前たちはそれを望むのか?」

「失礼いたしました!」


 先輩の叱責に隊員たちは敬礼をして後ろへと下がる。それと入れ替わるようエルセイ少尉は進み出た。

 彼は沈痛な面持ちで私の方を見つめている。私も真剣な表情で彼の言葉を待っていた。

 重い沈黙の後にエルセイ少尉が厳しい表情のまま訊ねてきた。


「正規軍大学を飛び級で、しかも主席級で卒業するほどの実力のお前が、進路未決のまま予備役になったと聞いた時は、流石に俺は信じられなかった」


 〝予備役〟――本来は、正規の軍務を退いたのち、軍隊に籍を残したまま市民生活を送る事となった者たちの事を指す。


「軍学校を卒業はしたものの配属先が決まらずに自宅待機という異例の辞令だ。本来ならあり得ない。だがそれに畳み掛けるように突然の婚約発表。もはや異例という言葉では済まされない」


 その真剣味を帯びた言葉の後に、エルセイ少尉は私をじっと見つめながらさらに尋ねてきた。

 

「今回の事態の裏になにかが画策されていると考えるのが当然だろう。教えてくれ。一体何があったんだ?」


 その強い言葉には私の事を仲間として大切に思う気持ちがにじみ出ている。さすがにそれを無視できるほど頑なでも強くもない。

 

 エルセイ・クワル少尉、私の軍学校時代の先輩格に当たる。

 いつでも冷製に落ち着き払い、感情を高ぶらせるようなこともない。指導や叱責は厳しかったが、理不尽なことはしない。その意味でも心から信頼できる人だった。

 無論、今もなお。

 

 私は観念して静かに語り始めた。これまでの人生の中で味わってきた苦痛の数々を。

 肌寒い夜に語られ始めた私の記憶を、皆がじっと聞き入ってくれていた。


「私の父は暴君そのものでした」


 静寂の中で私の坦々とした声が響く。


「巨大な権力を持つ上級侯族の当主と言うのは絶対的な存在です。たとえ家族であったとしても逆らうことは許されません。それは皆様もよくご承知のことだと思います」


 誰も否定せず、ただ静かにうなずいている。


「普通なら当主でありつつも人の親としてそれぞれを使い分けながらも子を思い慈しむ。上級侯族の親とはそう言う存在のはず。ですが、私の父は違いました」


 私の声は震えていた。そこににじみ出る苦痛は目の前の彼らに伝わっていた。

 

「父にとってすべてが自分の栄誉と立身出世のための道具。娘である私も、息子である亡き兄も、ただただ父の傲慢にひたすら耐える毎日。そんな私たち兄妹が自分自身を開放して胸を張って暮らせた場所こそが〝軍学校〟だったんです」


 私はかつて彼らとともに軍学校に身をおいていた。そこは己の可能性を精一杯試せた唯一の場所だった。


「幼くして寄宿制の進路に入り、雑事の全てを忘れて学業と訓練に邁進する毎日。それは私が私である事を許された貴重な時間でした。だからこそ軍学校を卒業した後も祖国の正規軍に身を置き、軍人として身を立てようと思っていたんです」


 それが私のささやかな願いだった。だが悲劇は起きた。


「兄も私と同じ様に正規軍人を目指していました。ですが軍学校の卒業を控えたある日のことです」


 私はそっと顔を上げると、皆の顔を見つめながら語る。そして、ついに訪れてしまった惨劇を滔々とうとうと口にした。


「あの血も涙もない暴君は兄を無理矢理に軍学校から除籍させました! そして実家へと連れ戻したんです。自分の従者として連れ歩くために! 自らの傀儡かいらいとするために! 酷使するために! 人生の行く先を閉ざされ、自由を奪われた事に耐えられなかった兄はついに心と精神を病みました。そしてついには――」


 私の声は震えていた。言葉が出ない、喉から絞り出せない。その先に何があったのか? 語らねばならないが、どうしても声にできなかった。

 慰めの言葉すらも出てこない。誰もがただ私の言葉を聞き入るしかできなかった。

 だが、悲劇の幕はそれで終わりではなかったのだ。

 

「兄亡きあと、次期家督継承者を失った父はその埋め合わせを求めました。私に婿取りをさせて、その夫の方を自分の意のままに操ろうとしたんです。私に〝人生の全て〟を諦めさせて!」


 固く固く握りしめられた私の両手には、耐え難いほどの心の痛みが現れている。

 

「父は策を講じました。私を軍学校から無理矢理に連れ帰れば兄の二の舞となる。それを避けるため、私の夫候補を用意しつつも、私の正規軍への配属辞令を徹底して潰しました。勝手にどこにも行かないようにするためにです」


 それは狡猾そのもの。親としての情は微塵もない。


「そうして父は、行き場を失い途方に暮れる私に婚約がすでに決まっている事を突きつけました。拒否をすれば私には生きる場所はなくなる。逃げようにも軍関係者にも学業関係者にも圧力がかかっています。私は絶望するしかありません」


 語られた残酷な事実に誰もが言葉を失う中で、エルセイ少尉は私へと優しく問いかけてくれた。

 

「だが、お前は今ここに居る。新たな自由と可能性を掴み取るために決意して。そうだろう?」


 それは優しくて、いたわりと慈しみの言葉だ。だが優しい言葉は時にはナイフのように苦痛を生み出す。その痛みの大きさに耐えかねた私は悲痛な叫びをあげた。


「当然じゃないですか! 私は、卵を生み続けるニワトリじゃない! 心を持った人間なんです!」


 到底納得できる現実ではない。受け入れられる運命ではない。罪人だってもっとまともな扱いを受けるだろう。


「侯族の女子なら、結婚相手が自由にならないことくらい百も処置です! 一族の反映のために身をやつすことも避けられません。でもほんの少しでも、人として扱ってほしい! 暴君の監視の下で、監禁されるような結婚生活なんか望む人なんかいません!」

 

 溢れた叫びとともに私の右頬を涙がつたっていた。そして飛び出たのは私の心の底からの願いだった。


「私は私自身であると認められたい! 自分の生きる場所を自分自身の手でつかみ取りたいんです!」


 それは魂の叫びだった。絶望しないために、希望を持って生きるために、命の底からの渇望だった。

 否、そう望まなければ、私は心の平穏を保てなかったのだ。


 かたや少尉は私の思いを理解しつつ、その身を案じてあえて強い言葉を投げかけてくれた。


「エライア。軍を離れ、侯族社会を離れ、本名と素性を隠しながら生きるのは並大抵の事ではないぞ?」

「はい」

「それこそ泥水をすするような餓狼のような生き方を強いられるかもしれない。仕事の清濁など言ってられない。どれだけその身を汚すかもしれない。それでも、それでも本当に良いのだな?」


 それはエールだった。私の覚悟を認め、その思いの深さを問う言葉だった。厳しさの中に深い思いやりが込められていた。

 少尉の言葉は私を落ち着かせてくれた。ゆっくりと息を吸うと覚悟の程を語った。

 

「承知の上です。今までの15年間の人生の中で学んだことすべてを武器にして、自分が自分らしく生きる事のできる場所をつかみ取ろうと思います」


 それは覚悟、私の覚悟の全てだ。


「そう、たとえ何年かかろうとも。どんな道を歩こうとも」


 その覚悟を否定するものは誰もいなかったのだ。

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