母からの手紙
クローゼットの扉を閉めて私はベッドサイドに腰を下ろした。
そして、深呼吸して気持ちを落ち着けながら、お母様から送られたあの手紙を開けることにした。
そこに書かれていたのは、ミライルお母様の切なる思いだった。
私はそれに視線を走らせた。
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我が娘、エライアへ
あなたがこの手紙を見ている頃には、すでに私のもとから旅立ったあとでしょう。
あなたは今、安寧な暮らしから離れて、危険をともないながらも、自分自身を活かせる充実した日々へと赴くはずです。
母にはあなたがそうするであろうということは判っていました。
自らの生きる世界をその手で掴み、そして、自らの手でその生きる道を切り開いたのですから。
これから続くであろう戦いや危険と隣り合わせの日々、その辿り着く先にはあなただけにしか得ることのできない〝価値ある答え〟がきっと見つかるはずです。
そしていつか、そう遠くない将来、モーデンハイムの血筋と家名を、あなた自身の意思で継ぐ覚悟を決める時が来るでしょう。その時まで、モーデンハイムの本家は母とあなたのお爺様が守り支えていきます。
だから、あなたは何の気兼ねもせずに、あなた自身の決めた道をお行きなさい。何も憂える事は無いのですから。
この家と家の中のものは母としてせめてもの心尽くしです。あなたの好きなようにお使いなさい。そして、何か困ったことがあれば気兼ねなく知らせてください。この空の下、どんなに離れていても母として親として、あなたをこれからも見守りたいを思います。
怪我と病にはくれぐれも気をつけるように。
母、ミライル・フォン・モーデンハイム
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「お母様――」
私はその手紙の重さを感じずにはいられなかった。
思えばあの人は、親として母として家族として、何も言わず否定せず、ずっと見守ってくれていた。
あの理不尽そのものの暴君の父親を前にして、言いたい事もあっただろう。忸怩たる思いを抱えながらも、外からやってきた嫁という立場ゆえに意見を汲み取ってもらえず、その辛い思いを聞いてもらえなかったに違いない。
愛する兄マルフォスが自ら命を断ってしまった時も、救おうとするその手が間に合わなかったことを今でも後悔しているに違いないのだ。
それでもお母様はそんな事はおくびにも出さなかった。なぜなら――
――私を悲しませたくなかったからだ――
「お母様」
思えば、もしかするとこの2年間のことも、手にとるように分かっていたのかもしれない。ワイアルド支部長が本当に私の叔父様だったとして私の正体にすぐ気付いたように、実際のところ些細なことで私の正体とその動向は容易に露見していてもおかしくはない。
お母様も自分なりに私のことについて把握していた可能性もある。いや、わかっていたのだ。分かっていてあえて口を噤んでいたのだ。
――私を守るために――
どれだけ会いたかっただろう。どれだけ声を聞きたかっただろう。手紙の一つでも送ってみたいと思いはしなかっただろうか?
でも敢えてお母様はそれをしなかった。自分が迂闊な行動をとれば、あの愚かな父デライガに私に関する事が露見する可能性もあったからだ。
そう――
――私は守られていたのだ――
お母様は母親としての願いも願望もすべてを押し殺して、私に関する全ての秘密を守り通す道を選んでくれたのだ。
「お、お母様――」
私の胸の中を熱いものがこみ上げる。
「う、うっ……」
全部わかっていた。全部知ってくれていた。
家を出てはみたものの仕事すら見つからず生まれて初めてひもじいという思いを噛み締めたあの時。
やっとの思いで手に触れた娼館の仕事、慣れない仕事に怒られながらも頑張り通し信頼を勝ち得たあの時。
父親に見つかり決死の覚悟で再び逃げ出さなければならなかったあの時。
新たな名前を手に入れて職業傭兵となりとにかくお金を稼がなければとがむしゃらだったあの時。
ワイアルド支部長に出会いブレンデッドに住み始めたあの時。
そしてそして、このブレンデッドの街で、たくさんの人に出会い、たくさんの人に守られて、喜びと笑顔に満ち溢れた充実した毎日を過ごしてきたこと。
喜び、成功、失敗、悲しみ、後悔、覚悟、努力、勝利、栄光、
この2年間で私には本当に色々なことがあった。
本当にたくさんのことを経験した。
でも――
私は馬鹿だ。
自分一人で今の栄光と地位を勝ち得たようなつもりになっていた。
それがどうだ。
自分一人では何もできないではないか?
私はまだ〝子供〟だったのだ。
その時、半年前に実家に帰り着いた時のあの時の光景が脳裏に蘇った。
そして思い起こされたのは、ミライルお母様が私を迎えてくれた時のあの言葉だった。
そう、
――おかえり――
たった一言。でも、とてつもなく温かい一言。
あの一言で私はどれだけ安堵できただろう。それすらもわかっていたに違いない。
だって――、あの人は私の母親だから。
「ごめんなさい」
締め付けられるように胸が痛み、涙が溢れ出して止まらない。
「ごめ――ん――」
言葉にならない。
溢れる涙がお母様が送ってくれた手紙の上にポタポタと落ちていく。左手で必死に涙をぬぐったが拭いきれなかった。
私は両手でお母さんの手紙を抱きしめた。
「うぅ……」
私は心の堰を切ったかのように声を上げて泣いた。
大声で泣いた。
人目をはばからず、小さな女の子のように。
ただただ泣いていた。
――行かないでおくれ――
そう喉まで出かかっていたはずのお母様のその思いを感じてしまったのだ。それを必死にこらえてお母様は私を見送ってくれたのだ。
私は泣いた。
ひたすら泣いていた。
お母様が送ってくれた〝愛〟そのもののこの部屋の中で私は泣いていた。
私の心のなかに広がるのは、懐かしい思い出と、母と祖父への侘びの思い。ただそれだけだったのだ。
それからどれだけその家の中で過ごしただろうか。
気がつけば窓の外は夕闇の赤い空に染まりかけていた。
泣きはらした後、自分のベッドの上で呆然としていた私だったが、ようやく気持ちを落ち着けて何かをできる気持ちになっていた。
「みんなのところに行こうかな」
私はぽつりと言葉を漏らす。
立ち上がるとバスルームへと向かう。まずは汚れを落とそう。その後お化粧して、みんなに会うために着替えなければ。
そのために必要なものは揃っている。
そのためにお母様が用意してくれたこの家なのだから。
そして、お母様が用意してくれたクローゼットの中から外出着のドレスを選び出す。
「これにしよう」
ハイウェストのライトなシュミーズドレス。両肩が露出していて、パールブルーの生地で薄手の割にしっかり目に作られている。
ロングタイツを履いたその上にパニエを重ねる。シュミーズドレスを着て、腰にはベルト代わりにサッシュを巻き、その上に薄いショールを羽織る。足にはロングブーツを履き、頭にはベレー帽を乗せて出来上がりだ。これに必要な手回り品を入れた肩掛けカバンを下げ、護身用に愛用の戦杖を持てば出来上がりだ。
「よし」
家の鍵を持ち日の始末と戸締まりを確かめて、玄関に向かう。
玄関を開けると背後を振り返り私は言った。
お母様はそこにはいない。でも、確かにそこに居た。
ここは私の家です。
そして、お母様と私の家です。
ありがとうございます。お母様。
「行ってきます。お母様」
私はみんなの所へと向かったのだった。
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