再開 ―涙―

 私は館の中をしずしずと歩いて行く。館の中の主立った廊下の随所にも2人ずつで侍女たちが並んで待機して恭しく頭を下げる。

 それを横目に見ながら館の中を歩き案内された先は来賓用の控えの間だ。

 部屋の入り口の扉には男性近侍役が待機して扉を開けてくれる。


 そしてその部屋の中へと歩いて行き中央に置かれた応接セットの革張りのソファーへと案内される。そこにもう一人の近侍が待機していて私が座る肘掛け付き椅子を操作する。

 私はそれに一切の淀みのない身のこなしで腰を下ろす。

 メイラさんはその傍らに立ったままで待機することになる。

 私たちが所定の場所に着いたことで、セルテスはこう述べる。


「それではこちらにて少々お待ちください」


 その言葉を残してセルテスはこの部屋から立ち去っていった。すると私に、この部屋で待機していた一人の侍女が暖かな湯気を放つ一杯の茶を出してくれた。


「ご苦労さま」


 そう声をかけて私はじっと待った。

 この部屋に現れるであろうあのお二方を。

 その応接の間でじっと待つ時間は一分一秒が何時間にも思えるほどに長く感じられた。

 不安が、恐怖が、そして罪悪感が、

 私の肩にひしひしと迫ってくる。

 私は悪いことは何もしていないはずだ。自分にそう言い聞かせるがやはりこの場にいること自体が身の程違いだったのではないかと思えてきてしまうのだ。


 それはやはりどんなに考えても、実の母親への不義理と裏切りへの罪の意識に他ならなかった。


 前に置かれた一杯の茶も手に取る気にはなれなかった。そんな時、私の背後に立っていたメイラさんが後ろから私の肩をそっと触れてくれた。


「お嬢様、罪悪感を感じるのはそれは自分は悪くないと言う逃げる心の裏返しです。お気持ちはわかります。でも〝逃げないでください〟それだけがお母上君への償いにつながる道だと思うのです」


 その言葉は不思議と私の心の中へと染み入っていく。

 そうだ、喜びも悲しみも詫びる気持ちも感謝の気持ちも、それで正面から受け止めてここに来たはずではなかったのだろうか?

 ならば、恐れも不安も、後悔の涙も、堪えることなく受け入れるしかないだろう。

 そう覚悟を決めた時、体の震えは不思議と止まった。私はメイラさんに応えた。


「ありがとう」


 肩越しに背後を振り返りメイラさんの顔を見る。そこには満足気に笑みを浮かべる彼女の姿があった。

 私は彼女から勇気をもらう。そしてこの2年間の結末に向かい合うのだ。


 その時だ。


 ドアがノックされた。

 部屋の中にいた使用人たちが姿勢を正す。メイラさんも私から数歩離れて姿勢を正して待つ。

 私もソファーの上で姿勢を正してこう答える。


「どうぞ」


 その言葉が扉の外へと伝わる。


――ガチャッ――


 両開きの扉の片方を開けたのは筆頭執事となったセルテスだった。


「失礼いたします」


 そう声を発すると毅然として立って私の方へと向けて彼は告げる。


「当家ご当主ユーダイム・フォン・モーデンハイム候、並びに、ご当主様ご息女ミライル・フォン・モーデンハイム様、お出でになられました。皆の者は控えるように」


 その言葉と同時にその部屋に居合わせた侍女も近侍もメイラさんも直立の姿勢から上体を倒して礼意を表す。私も多分に漏れずソファーから立ち上がる。そしてその場で部屋の入り口の方へと体を向けた。


 しっかりと向き合う姿勢を示した私に真正面から二人は姿を現した。


 一人はルダンゴトコート姿の長身に白髪の老候族、手には大理石の握りのステッキが携えられている。毅然とした姿勢と、強い意志を感じさせる鋭い視線。2年を経てもなお老いたる気配は感じられなかった。

 そのお方は力強さを宿した声で私にこう語りかけてきた。


「さすがに2年も経つと大人びて見えるものだな」


 それは2年前に月夜の下で私を見送ってくれたその人だった。


「ユーダイムお爺様――」


 その名前を口にすればお爺様は口元に笑みをたたえて答えてくれた。


「無事、息災だったようだなエライア」


 2年の時を経ても毅然として矍鑠としたままでありその力強さは微塵も衰えてはいなかった。私はお爺様に対して軽く上体を傾けて一礼しつつこう答えた。


「お久しゅうございます。お爺様」


 そう答える私は自ら数歩進み出る。するとお爺様も私の方へと歩み寄って自らの右手を私の肩へとそっと乗せてくれた。


「大きくなったな。もう17か」

「はい」

「見違えるようだ。あの2年前の夜、悲しみに打ちひしがれて遠くへと去っていったお前とは思えん」


 鋭さを帯びたその視線の向こう側に私を思いやってくれる奥深い慈悲の心が浮かんでいる。お爺様は安堵の表情でこう言ってくれた。


「積もる話は山ほどあるが、今はそれよりも先にすべきことがある」

「え?」


 お爺様の言葉に私は思わず呟いた。それまでお爺様の背後にて無言のままで佇んでいた人がいる。

 お爺様はその人を手前へと呼び寄せた。


「さ、おいでなさい」


 その声に招かれて進み出てきたその人は、落ち着いた雰囲気のペールブルーのエンパイアドレスに身を包んでいた。

 襟はハイネックで首全体を覆う形でフリルの付いたシースルー素材のハイネックが立ち上がっている。肩から上半身を覆うように濃紺の大判のフィシューがかけられている。腰下から全体を覆うようにフィシューと同色のオーバースカートが重ねられていた。


 足元に履いているのはエスパドリーユと同系の履物で、ヒールの低い履物であるエスパドリーユにくるぶしまでの編み上げ紐がつけられたアスパルガータを履いている。

 中背で細身のシルエット。抱きしめたら折れてしまいそうな儚さのある美しい女性だ。

 髪は銀色、瞳は翠色、私とよく似た特徴を持つ人だった。

 彼女は静かにたおやかに私の方へと一歩一歩近づいてくる。しかしその表情は――


「エライア」


 その人に優しい声が聞こえる。

 その声に刃物のような鋭さはない。あるのはただおろしたてのリネンのような包み込むような温かさだけ。

 私はどうしてもその人の顔を見れなかった。

 その人の声が聞こえる。


「どうしたの?」


 だめだ。ちゃんと顔をあげなければ。

 その人の顔をしっかりと見なければ。

 ちゃんと決めたではないか! しっかりと向き合って!

 私は、それでも、両手で自分の顔を覆ってしまう。

 その人が私に語りかけてくる。


「何を泣いているの? エライア」


 声が出ない。2年間と言う隔たりを超えてやっとここに帰ってきたというのに、私は何も答えられなかった。


「う――」


 情けない声が漏れる。もはやそれは言葉ではない。

 だが、そうだ。それでもこの人に言える言葉がある。私は言葉と、泣き声の、ぎりぎりのところでようやくに一言だけ答えられた。


「……ごめんなさい」


 この人は何も悪くない。それより私はたった1枚の手紙だけを残してこの人の前から去ってしまった。

 もっと他にやり方はあったはずだ。

 この人たちと話し合い救いを求めて共に手を携えて乗り越える方法もあったはずだ。それなのに私は――


「ごめんなさい――、ごめんなさい――」


 顔を覆った両手の指の隙間から涙がこぼれ落ちる。  

 そんな時、その人は私の肩を両手でそっと優しく抱きしめてくれた。


「あなたは何も悪くないわ」


 涙を流し泣き声をあげるだけしかできない私にその人はなおも優しくささやきかけてくれた。


「あなたは自分の意思で決意して歩き出しただけ。子供というのはね、いつか親元から離れて自分自身を試そうとするものよ」


 私を抱きしめるその人の手が私の背中をそっと優しく撫でてくれる。泣きじゃくる幼子をあやすかのように。


「それにあなた、ちゃんと約束してくれたじゃない〝必ず帰る〟って」


 だから私は泣きながらその人の胸の中で頷いていた。その人の声がなおも聞こえる。


「私は信じてましたよ。あなたならちゃんと帰ってきてくれるって」


 とてもとても、優しい声が。


「おかえり。エライア」


 それは私がこの2年間、ずっと聞きたかった言葉。


「ただいま……お母様……」


 もう限界だった。


「わぁぁぁ……」


 私は泣いた。大声で泣いた。

 寂しかったこと、辛かったこと、苦しかったこと、申し訳なく思っていたこと、ずっと謝りたかったこと、すべてが心の中から溢れ出してくる。

 私はやっと帰ってきたのだ。

 懐かしい〝我が家〟へと。

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