幕間:伏龍、憂い怯える
幕間:伏龍、憂い怯える
政務館へと帰投し時間まで一時休息待機となった時だった。
執事のオルデアさんによる割り振りに応じて、各々に休息場所へと向かう。当然ながら私はエスコート役であるプロアや、小間使い役であるサーシィさんとともに休憩室に一旦行くことになった。
1階の裏手に近い方の応接室。そこが待機場所となった。そこへと向かう途上、私はあるものを見かけた。
「ん……」
私のそのつぶやきにプロアが気づく。
「どうした?」
私は答えるか迷ったが小さく一言だけ
「パックさんの所」
とだけ答えて一人離れることにした。何かを言いたそうにするサーシィさんを、私の意図を察したプロアが押し止める。
「控え室で待っている。なるべく早く帰ってこいよ」
「分かったわ」
そして、パックさんが姿を消した場所へと向かう。階段を上りたどり着いた先は、3階の何もない空き部屋だった。
寒々とした空気だけがあるその場所でパックさんは一人、武術の
武術の基本鍛錬のひとつである套路、定められた通りに一連の動作を進め、その武術に必要な基本動作を身に付けるためのものだ。
――キュッ、キュキュッ――
パックさんの履いた異国の履き物が木製の床の上でリズミカルな音を立てる。私はそれを見守りながら沈黙を守っていたが、音が一瞬止む時を待って小さく語りかけた。
「パックさん」
動きを止めるのには十分すぎる一言。彼は一瞬の戸惑いを見せながらも私へと返事を返してくれた。
「隊長」
「あなたが一人でこちらへ来たのを見かけたもので」
「申し訳ありません、お気を遣わせてしまって」
「いいえ、お気になさらないで。あなたが何か物憂げな表情で居たから何かあったのかと思って」
そう問いかけたが彼の口は固く閉じられたままだった。軽々しく言い出せない重い何かがあるのだ。
私は再度問いかける。
「もしかして〝あの件〟ですか?」
ふたたびのその問いかけに彼はようやくに口を開いた。
「なんでもお見通しなのですね隊長は」
パックさんは言葉を続けた。
「ええ、私の出自についてです。それについてずっと考えていました」
「はい」
予想された通りだった。彼の出自、すなわち彼が奴隷階級出身だと言う過去の自立についてだ。
彼はすまなそうに表情を落としながらこう語った。
「実は私は、このような衣装を纏ったことがありません」
「そのフィッサールの民族衣装の漢服の礼服ですね?」
「はい」
彼は言う。
「私の生まれは隊長にお話しした通りです。日の当たらぬ世界で平民より下の存在として、過酷に使役される毎日、自由はなく希望を持たぬように自分自身に言い聞かせてきました。しかし現実に押しつぶされた私は一人逃亡し海を渡り今日と至っています」
彼は漢服の両袖を合わせながら言う。
「奴隷である者は平民以上の者と同じものを着ることが許されていません。ましてやこのような礼服は着ることすらありえないのです。そんな私が着ているということに対して、自分自身が心の中で強く否定しているのです、『お前にこれを着る資格はあるのか?』と――」
奴隷階級だったと言う事実、それは呪いのように彼にまとわりついていた。それゆえの
少しばかり沈黙してから、私は彼に告げた。
「おっしゃる事も、お感じになられる不安も、もっともだと思います。ですが、一つ事実を伝えようと思います」
「事実? ですか?」
「ええ」
私は一歩進み出て彼と告げた。
「この国へとやってくる異国人はたくさんいます。職業傭兵として日々戦っている人達もいます。その中で絶大な武功をあげた人にはこの国では〝帰化〟を勧めています」
「帰化?」
「ええ、この国のフェンデリオルの国民になるのです。フィッサール国民から、この国の国民へと。それを帰化と言うのです」
「帰化については、私も以前に聞かされたことがあります」
そこまで知っているのなら、あとは早かった。私は彼に告げた。
「パックさん、この国に骨を埋めませんか? この国の民になりませんか? 重く苦しかった過去と手を切り、新たな自分へと生まれ変わるために」
パックさんは驚き沈黙するままだった。
しかし、絞り出すように彼の言葉が続く。
「私がですか?」
「ええ」
私はさらに歩み寄り彼の肩に触れながらこう言った。
「帰化を申請し認められるためにはそれ相応の国家への貢献が求められることになります。普通の一般人である場合なかなかそこまで到達することはありません」
「はい」
彼の返事の声が聞こえる。それはどこか自信なさげだ。
「ですがパックさん、あなたにはその優れた実績があります。先の西方国境での戦いで得たあまりにも巨大な武功が。あなたのその拳が、あの日この国を守り抜いた。それは事実です」
私はあらためて彼の目をじっと見つめた。そしてこう告げたのだ。
「それを無視し、労わぬほどこの国は愚かではありません。あなた自身が望むのであれは、新たな自分自身を得て自由を掴み取ることができるのです」
「自由……」
彼はそのことに全く気づいていなかったり違いない。自分自身には本当の自由はありえない、そう思っていたのだろう。驚くような表情が全てを物語っていた。
そして私は彼に言った。
「パックさん、この任務が終わりブレンデッドへと帰ったなら〝帰化〟を申請しましょう。そしてこの国の民として新たな出発をしましょう。そうすることであなた自身があれほど渇望していた〝自由〟が手に入るのです。そのためのお手伝いはいたします。
だから、あなた自身が今感じている不安はもう忘れてください」
私が一気に語ったその言葉に彼は驚きつつも冷静に耳を傾けてくれていた。そして然る後に両手と両手の袖口を合わせたまま両手を水平にして重ねる
「ありがとうございます」
私は彼の肩にそっと手を触れながら言う。
「お気持ちが落ち着いたのなら下へと降りてきてください。皆と一緒に休みましょう」
そう告げる言葉に彼は一言小さく
「はい」
とだけ答えたのだった。
「それでは失礼いたします」
私がそう言葉を残せばそこにはもう、己自身の過去に怯える者はいなかった。私は彼を残してそこから立ち去ったのだった。
――キュ、キュキュッ! ダッ――
彼が再び套路を踏む音が聞こえた。その音は先ほどよりも希望に満ちていたのだった。
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