シャワーの朝と催促の手紙
「わあっ!!」
私は思わず叫んでいた。全身汗だくになってベッドから飛び起きる。朝だというのに心臓がバクバクと鳴っている。
「最悪――」
私は思わず言葉をもらした。
「なんであんな夢を見るのよ。もう昔の話なのに」
そう、すでに振り切ったはずの話だ。とっくの昔に
時間は朝の5時、そとはすでにうっすらと朝ぼらけの中にある。季節は6月、初夏の涼しさが家の外から伝わってくる。
雨音はしない。この時期は晴れが続くことが多いから。
早起きの鳥がさえずっている。その鳴き声が陰鬱な気持ちを少しだけ和らげてくれていた。
「気分転換しようっと」
簡素なベッドから降りると私はシャワー室へ向かった。
悪い夢を流し切るために。
モスリン生地のネグリジェと下着を脱いでシャワー室へ入る。素肌は抜けるように白く今のところ目立った傷痕はどこにもない。仕事柄これだけは密かな自慢だった。シャワー室の中、私は真鍮製のバルブを開けて熱いお湯を浴びる。私の周囲に漂っていた汗の匂いがあっという間に流されていく。
私の名前は〝エルスト・ターナー〟
目がすっかり覚めて、
† † †
私の借家にはシャワーがある。高級邸宅ならともかく、設備が希少で高価なので庶民階級の家では珍しいと言えた。一人暮らしの人は、大抵が街にある風呂屋を利用している。
だが私たちの住む借家の大家さんが良い人で、汗をかいて帰ってくる仕事をしている私たちが助かるならと設置してくれたのだ。
シャワーを浴び終えてワンルーム部屋の中へと戻ってくる。
小柄だけど歳相応にメリハリのある体を清潔なタオルで拭き、水滴を拭い去ると、壁にかけていた大きな鏡で自分の顔を確かめる。やつれていないか、目の下にクマはないか、人前ではいかにも疲れていますというような自分は他人には見せない様にしていた。
鏡の中にいたのは碧の眼の女の子。周りからはよく可愛いとか、美少女だとか、言われることがある。確かに自分でも多少は整った顔立ちだとは思っているけど特別人より抜きん出て綺麗だとかそういう風には思っていない。仕事柄周りに男の人が多いので女の人に対してお世辞を言うのはよく見られる光景だからだ。
むしろ、私の目を見て生意気だとか言う人が居る。でもそのことに対して仕事仲間のある人はこう言ってくれた。
『お前の目には不思議な力がある。どんな困難も乗り越えられそうなそんな意志の強さを感じる』
その言葉は私の中で不思議な自信となって今でも残っている。
髪はウェービーなミディアムレングスのプラチナブロンドで、耳には小粒のイヤリングを付けている。虫歯はなく今のところ健康。今のところ特別問題は無し。これなら人前に出ても少なくとも不快には思われないだろう。
下着を新しくして部屋着のキャソックへと着替える。
昔から大切に使っている愛用のキンモクセイの香りの香水を耳の後ろと首筋につける。お化粧もするけどそれはまた出かける時に。
朝食は、買い置きのパンとチーズと、自家製の茸のピクルスで済ませる。
食事を終えると私は昨日届いた手紙を戸棚から取り出した。
~~~~~~~~~~~~~
拝啓、エルスト・ターナー様
お仕事は順調でしょうか? お母さんの容態は順調です。お薬の効き目もあり、最近では自力で歩けるにまで回復してまいりました。行く行くは自活ができるようになりたいと当人も申しております。今は手紙を書けるように練習中です。
さて、そろそろ来月分の治療費仕送りの時期となりました。何分、特効薬が高額なのはご存知のことと思います。つきましては遅れることのないようにお願い申し上げます。それでは。
ミルフル・ターナー代理人より
~~~~~~~~~~~~~
それは私が里に残してきた病身の母親の世話を任せている代理人から届いたものだった。
「先月は仕送り送るの遅れたからなぁ」
今月は遅れないようにと釘を刺しにきたのだろう。私はベッドの下の奥に隠してある鋲打ちの小さい金庫を持ち出す。今回の山あいの村で得られたカンパを含めてしまってある。
中を開けて金額を確かめた。
「えっと……3デュカット、60フロンゾ」
これはお金の単位。つまり金銀合金貨が3枚で、銅貨が60枚になる。都市圏で健康的な生活をするには最低でも月に10デュカットは要る。私は思わずため息をついた。
「ミルフル母さんの仕送りにはちょっと足りないなぁ」
里のミルフル母さんは外見が劣化する重い病を患っている。その
――漢生病――
地面の土の中に当たり前に存在する病原菌に感染することで発症する。多くは軽症か無症状で終わるが、まれに悪化して特徴的な外見になることから恐れられてきた。古くから『業病』などと呼ばれ、差別や虐待の原因ともなっていた。
罹患者が市街地や村落から追放されていた時代も有り、隠れ里を作って暮らしていた時もあったと言う。それが現在は研究が進み、対処法もわかっている。感染力も、非常に弱く適切な処置さえすれば伝染ることはまず無いとわかっている。
医者は言う。
――最も感染力の弱い病――
だが母さんは、その病への根拠のない偏見から故郷の村人たちから疎外されて孤独な暮らしを強いられていた。母さんをなんとかして助けたいと思った私は信頼の置ける医学博士に手紙で問い合わせた。
そして、治療法と特効薬について教えてもらうことに成功した。
正しい医学知識と治療法を身に着けて、きちんと投薬すれば症状を抑えられる事を知った私は、故郷の村人たちと話し合った。
その結果、私が責任を持って薬代と治療費と介護の手間賃を支払うことを条件に、ミルフル母さんの毎日の世話を村の人々に依頼して、面倒を見てもらっている。
治療費・特効薬代と世話人の手間賃を含めて、約束した仕送りは毎月4デュカット。
都市で一人の人間が健康的な生活を送るのに必要な金額が、1ヶ月に10デュカットと言われているから、いかに高額であるかがわかるだろう。
それに加えて、私自身の生活費も必要だ。ちまちまと小銭稼ぎをしていたのでは全然足りない。
「家の家賃も一月遅れてるし、大口の仕事をなんとかして見つけないと」
金がないのは首がないのと同じとは誰が言ったか――
無論、いろいろな仕事を検討した。でも、毎月4デュカットと言う金額はそうそう簡単なものじゃない。
住み込みでメイドをしても生活費がチャラになることを差し引いても毎月4デュカットと言う金額を安定して稼ぐのは至難の業だ。かと言って夜の仕事で体を売るのだけはゴメンだった。
色々と込み入った事情があって、夜の町の裏の事情を知っている。決して綺麗事で済む世界じゃないことは熟知している。
そして考えに考えて、命の危険を覚悟の上で、私は思い切って今の仕事を選んだのだ。母さんを助けるために。
スッキリしない頭で考え込んでいたときだった。
――コンコン――
家の扉をノックする音がする。
「はーい」
私がそう答えれば扉の外から声がする。
「ルスト姉ちゃん! 俺!」
「あら、ポール」
それは見知っている新聞配達の少年の声だった。
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