第16話 そして語り部は次の地へ

 エリオットが火を熾していない暖炉の前で繕い物をしていると、玄関のベルが鳴らされる音がした。


 無遠慮に扉を開けてこないところを見ると、大方気安い村の連中ではないだろう。なんとなく来訪者の予想を立てながら扉を開けると、雪だるまのように着ぶくれしたステイシーが立っていた。


「おはようございます。エリオットさん」


「おはようございます。どうしたんです?あ、中に入りますか」


「いえ、こちらで結構です。ご挨拶をしに来ただけですから」


 「挨拶?」とエリオットは怪訝な顔をする。


「ええ、そろそろ、出発しようと思いましたから」


「出発って」


 言いかけ、彼女が各地を渡り歩く語り部であることを思い出す。


「ああ、また旅を始めるんですね」


 ステイシーの村での滞在期間は、およそ二週間といったところだろうか。


 その間、ステイシーは村のあちこちを歩いたり、住人たちから土地の歴史や風俗を聞いて回ったり、「語り」を披露したり、時には住人と一緒に働いたりして過ごしていた。


 彼女は人懐っこく、するりと人の懐に入るのがうまい。二週間の間で村人の間に溶け込み、老若男女から「語り部さん」と親しく呼ばれるほどになっていた。そんな調子だったから、エリオットも、ステイシーが村にいることは当たり前の感覚になっていた。


「次は、どちらに行かれるんですか」


「隣国のデイウェスへ」


 エリオットは「えっ」と目を見開いた。


 デイウェスとはアエルム山脈の向こう側にある国だ。


「山脈を越えるんですか?」


「まさか」


 ステイシーは笑いながら手を振った。


「アエルム山脈を越えるのは私には難しいですからね。ずっと南へ下って、山脈を迂回し、大河を渡るルートを取るつもりです」


「はあ、それはそれでまた、大変ですね」


 遠出といえば、ここから歩いて三日はかかる市街地へ行ったのが限界のエリオットには、村の西に聳える山脈を迂回して国境を越えるというのは一体どれほどの日数を要するのか想像もつかない。村長の書斎で見た大陸の地図を思い浮かべてみるが、それでもなんだか途方もなさそうだということしか分からなかった。


 ステイシーは肩をすくめると、「まあ、どうせ旅の途中であちこちの村や町へ立ち寄りますから、デイウェスに着くのはもっともっと先になりますよ」と言った。


「また、物語を人にたかるんですか」


 不適切な言葉を使ったことに気がついて、エリオットは「あ」と一声発してがもう遅い。


 ステイシーがムッとした様子で、「言うに事欠いてたかるってなんですか」と眉尻を釣り上げた。


「す、すみません。つい」


「全く。あなたが私のことをどう思っているのか、なんとなく分かりました。でも、たかるという表現はおかしいですよ。ちゃんと代金は支払いますのに」


「支払う対価があるときだけ、ですよね」


 ボソッとツッコミを入れるとステイシーは「当たり前です」とムンと胸を張る。


「それで思い出しましたけど、本当にお金は受け取らないのですか」


「はい、何度も言いましたが、結構です」


 エリオットの脳裏に、大気に溶けゆく乙女の姿が蘇る。


「デルティムムとの思い出は、お金に変えられるものではありませんから。それに、赤裸々に人に語られたい訳でもない。ただ、彼女の存在と、彼女が大火を鎮めた物語が、あなたの口から語られる物語になるのは、悪くない。それに、デルティムムも了承したことだし」


「本当に人がよろしいこと」


 ステイシーは、ほほ、と上品に笑う。


「あ、でも、実名は伏せてくださいよ。あと、その、僕のいろいろと未熟で恥ずかしいところとかも。約束したんですから、絶対ですよ」


 デルティムムと別れた日の夜、エリオットはステイシーの前で酒を飲み、醜態を晒した。わんわん泣いては酒を飲み、デルティムムと初めて出会った日のことや、幼少期の記憶や思い出、デルティムムへの思いなどを、森で語ったこと以上に、酔った勢いに任せて散々喋ってしまったのだ。



 酔っ払いのうわ言と流してくれればよかったのに、なんということに、ステイシーはエリオットの喋ったことを全て手帳に書き込んでいたのだ。あまつさえ、酔ったエリオットの発言と今日の出来事を物語に仕立てたいから、買い取らせてくれとまで言い出した。


 その時、エリオットはステイシーの手から手帳をひったくってその内容を読んだが、赤裸々過ぎて悲鳴をあげるほどだった。いますぐこの手帳を燃やせとステイシーに迫ったが、当然取り合ってもらえず、とにかく実名を伏せ、また個人を特定できるようなことは絶対に語らず、細部はぼかすことを条件に、物語にすることを了承した。プライドのため、お金は受け取らなかった。


 エリオットの酔いつぶれた姿を思い出しておかしかったのか、ステイシーの肩はふるふると震えている。


「ええ、もちろんですとも。その辺りは職業柄必須の技術ですから。実話オリジナルの芯の部分は保たせた状態で、語るにふさわしい昔語りに仕立ててみせますよ」


 それから、ステイシーは「もうひとつ、許可をもらいたいものがあります」とふと真面目な表情に戻った。


「な、なんですか」


 エリオットはおもわず身構える。


「私は、収集した物語を、いつか本に残したいと考えています」


「本に、ですか」


「はい。人から人へ伝わる口伝では、長い歳月をかけて忘れ去られたり、内容が改変されてしまう恐れがあります。語り継がれる物語は生き物のようなものですから、変容することもまた魅力の一つではありますが、私が自ら収集した物語は、できればそのまま残したい。だから、いつか本にまとめるつもりなのです。その本に、あなたと彼女の物語を、載せても構わないでしょうか」


「ええ。構いませんよ」


 エリオットは二つ返事で了承した。


 ステイシーは「ありがとうございます」と律儀に頭を下げる。


「本が完成した暁には、あなたへ一冊贈呈いたします。それともう一冊も」


「もう一冊?なぜ二冊なんですか」


「デルティムムさんの分に決まっているじゃありませんか」


 ステイシーは「いいですか」と身を乗り出す。


「デルティムムさんが戻ってきたら、絶対に彼女に渡してくださいよ」


「いや、でも、また彼女と再会することは」


「いいですから、約束ですよ」


 エリオットの声を無理やり遮り、ステイシーはエリオットの手を掴んだ。握手したような格好になる。


「約束、ですからね。彼女も、この物語を私が語ることを了承してくれた方なのですから。私は、物語に関わった人には全て、完成した本を贈呈することを心に決めているのです。残念ながら、デルティムムさんにはそこまでは話せませんでしたけど、でも、絶対にそれは成し遂げたいのです。そのためには、あなたの協力が必要不可欠なんですからね」


「あ、はい」


「頼みましたよ」


 最後にもう一度念押しすると、ステイシーは「それでは、明日の早朝に出発しますので、ここでさようならです」と言い残し、エリオットの家から去っていく。


 右の手のひらには、まだステイシーの手のぬくもりが残っていた。


 あの日、あの森で、この右手で、ステイシーの手を取った。


 その時、彼女は微笑んでいた。


 触れた彼女の手は氷のように冷たかったけれど、内側には熱がこもっていたように思う。けれど、そう感じたのも一瞬のことで、手のひらに舞い降りてきた雪の欠片が人肌に触れて溶けてしまうように、彼女の姿もあまりにあっけなく消えてしまった。


 ただ、エリオットの手に彼女の冷たさを感じたその余韻のようなものだけが残った。その手を抱えて、あの日、エリオットは泣いた。周りで、炎を閉じ込めていた氷柱が消え去り、狼たちがデルティムムを送り出す遠吠えをあげたことにも気づかず、泣いていた。


 その冷たい手も、どんどん他の冷たさやぬくもりに上書きされていくのだろう。やわらかな織物に触れたり、鍋を持ったり、友人同士で肩を叩き合ったり、誰かと握手をしたり、振り落ちる雪の結晶に触れたりして。


 玄関先で、そんな風に考え事していたエリオットの手のひらに、小さな粉雪が降りてきた。この二週間の間で、雪はほとんど溶けていた。けれど、森の方や日陰にはまだ雪が残っている。その雪が、風に運ばれてここまでやってきたのだろうか。


 雪は、エリオットの手のひらへ吸い込まれるように落ちて消える。


 ステイシーの手から移ったぬくもりに、その冷たさが優しく広がった。

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