第15話 水は循環し、やがて再会を果たす

 溶かすという言葉に、エリオットは硬直した。

 

「それは、デルティムムを殺すってことか」


「違う」


 デルティムムは即座に首を振って否定した。


「私たち氷雪の乙女に、死という概念はない。溶けるというのは、死ぬことではない」


「けれど、溶けたら、それはいなくなるってことだろう。この世から、完全に」


「エリオット。雪は溶けたらどうなる?」


「え」


 虚をつかれ、エリオットは間の抜けた顔で固まる。


「えっと、雪は」


 助けを求めるように隣のステイシーを見ると、彼女はエリオットの意思を汲み取り、言葉を継いだ。


「水になりますね。さらに、水は蒸発し、水蒸気となります。水蒸気は上空で冷え、雲を作ります。そして、その雲が雨を降らします。時には、雪を」


「そういうことだ」


 デルティムムは満足そうに頷いた。


「溶けるというのは、その循環に加わるということだ。それは、死ではない。もっと簡単に言うと、私にとって溶けるというのは、姿を変えて、空を旅するというだけの意味に過ぎない。エリオットには、その旅の出発の手伝いをして欲しいんだ」


「なぜ、そんなことをする必要があるんですか。それは、万年雪の中に戻るのとは、違うんですか」


「うん、そうだね。少し違う。少し違うけど、旅の終点は万年雪だ。だから、近道か遠回りかの違いでしかない。どうして遠回りする必要があるのかというと、私はもはや、自力で万年雪の中へ行くことができないからだ。さっきも言ったように、私は自ら氷雪の乙女としての体を壊し、本性である雪と氷になった。そうなればもはや、自力で動くことはできない。だから、君に溶かして欲しいんだ。そうすれば、時間はかかるけれど、私は万年雪の中に戻れるよ。」


 エリオットは返す言葉をなくし、肩を落とした。デルティムムの言っていることが、理解できないわけではない。ただ、人間のそれとはあまりに異なった考え方と理屈を、自分なりにどう受け取ればいいのか、分からなくなっただけだ。

 

 いくらデルティムムの中では溶けることが死ではなく、旅路の始まりであってもエリオットにとって、それは彼女を殺してしまうことと、感覚的に変わりない。そんなことを、できるわけがなかった。


「理由は、それだけではない」


 デルティムムはさらに言葉を続けた。


「万年雪から生まれたとはいえ、わたしはそれほど強固なものではない。閉じ込めた炎は、わたしと一体化しつつある。抑えきれずに、小火騒ぎが頻発しているのが何よりの証拠だ。やがては、わたしをも炎に変えて、再び復活を遂げるだろう。その時、今度こそ村をも焼き尽くす大火となる。だが、溶けるとなれば好都合だ。今や炎とは共存関係にある。氷が溶ければ、炎も共に溶ける」


 デルティムムは短く笑った。


「一石二鳥だろう」と。


 そこでステイシーが、手を挙げて「いくつか質問があるのですが」と、白い息を吐いたいた。


「うん、なんだい」


「業火すら凍らせたあなたを、どうやって溶かすのですか」


「簡単なことだ」


 ただ戸惑うことしかできないエリオットの耳に、デルティムムとステイシーの質疑応答が機械音のように響く。


「私の体に触れるだけで良い」


「人の体温が、あなたを溶かすと?」


「ああ、そうだ。今の私はそれほど儚い存在に過ぎない。炎を閉じこめるために、ほとんど全ての力を注いでいるせいで、それ以外のことには極端に耐性が下がっている」


「私は先ほど氷柱に何度か触れましたが、とけなかったのは何故ですか」


「氷柱の一番外側の氷は私自身ではないからだ。あれは、周囲の雪たちを私の力で氷に変えたものだ。その氷に包み込まれるようにして、私自身は最も深部にいる。その氷を壊して深部の私に触れないと、溶かすことはできない。今、こうして二人の前に立っている私は、ほとんど幻のようなものだが、あちこちにある氷柱の深部と共鳴している」


 ステイシーは「そういうことですか」と静かに言った。


「深部の氷と繋がっているあなたに触れれば、外層の氷を破壊する手間が省けるのですね。ちなみに、人肌で溶けるのならば、狼の体温ではいけないのですか」


 狼たちは、デルティムムたちを見守るように地面に体を伏せて、静かな眼をこちらに向けている。


「彼らは冬の王の眷属だ。私を守る盾でもあり、従者でもある。従者は、主人を溶かせない」


「一種の契約のようなものですか」

 

 その言葉はデルティムムに向けられたというより、ステイシーの独り言のようだった。


「私たちは、狼に案内されてここへきました。あなたの、計らいでしょうか」


「いいや。私は何も指図していない。ただ、聡い彼らのことだ。小火騒ぎに危機感を覚え、そのためには何をすべきなのかがわかっていたのだろう。だからずっと、頼れることのできる人が、私のことを、事情を知る人が来るのを。ずっと待っていた。そしてやっと、君たちが来たんだ」


「エリオット」


 名を呼ばれ、エリオットは反射的にデルティムムの顔を見上げた。


「狼たちは、君を覚えていたんだろうな。そして君に、助けを求めた」


 それを肯定するように、ひときわ体の大きな狼が。尾をゆったりと持ち上げた。


「さあ」


  そう言って、デルティムムは、両手をエリオットとステイシー、それぞれへ差し出した。


「二人とも、私の手を取ってくれ」


 ステイシーが、伺うような仕草でエリオットへ目配せした。


 エリオットは、こちらへ差し出されたデルティムムの手を見下ろしたまま、うつむいた。


 デルティムムの言うことが本当なら、いや、きっと本当なのだろう。

 彼女の手をとれば、彼女は溶けてしまう。溶けた後、やがて水蒸気となって空へ登り、雲となり、再び大地へ帰ってくる。デルティムムにとって、それは旅に過ぎないという。死ではないと。


 だが、彼女はいなくなってしまう。少なくとも、エリオットの目に見える姿ではいられなくなる。再び雪となり、アエルムの高き峰々に降り注いでも、万年雪の中に降り落ちた彼女は、まだ彼女だと言えるのだろうか。もう一度、この姿になることはあるのだろうか。


 頭に浮かぶ疑問の一つ一つが、人間であるエリオットには推し量り難いことばかりで、今すぐに全てを飲み込むことはできなかった。


 エリオットは、自分の感情を置き去りにしようと頭を軽く振った。


 考えるべきなのは事実だ。デルティムムの手をとれば、彼女は溶けてしまう。エリオットの前からはいなくなる。そして、彼女と同時に炎も消える。彼女が溶けなければ、炎はやがて彼女の体を飲み込み、再び大火と化す。その炎に焼かれる村や、家族、親しい人たち、そんな恐ろしい未来の光景が、炎の記憶とともに頭に浮かぶ。


「デルティムム。僕からも質問があります」


「ああ。どうぞ」


「炎は、あなたと一体化し、やがてはあなたを飲み込んで大火と化すと言いましたね。その時、あなた自身は、どうなるのですか」


「うん、そこまでは想像してなかったな」


 デルティムムは顎に指を当てて、しばし考える。やがて、慎重な様子で言葉を選び取るようにして答えた。


「人の言葉を借りるのなら、死ぬ、ということではないかな。炎となれば、それはもう氷とは全くの別物だ。氷雪の乙女としての本質が変容するということだからな」


「氷として溶けるのは、そうではない?」


「ああ、全然違う」


あっけらかんと言い放つデルティムムを、エリオットは眩しく感じた。


そして、まとまらない思考と感情を、無理やり言葉に変える。


「デルティムム。これだけは、理解してほしいです。僕は、僕にとっては、目の前の生きているものが溶けるというのは、死を意味します。あなたにとってはそうでなくても、僕にとってはそうなのです。これは事実かどうかではなく、感覚の問題です。僕の感覚では、あなたの手を取るというのは、あなたを殺すことに他ならない」


「そうか…」


 デルティムムは眉尻を下げ、そっと目を伏せる。彼女のそんな表情を見るのは、初めてだった。


「私は君に、残酷なことをお願いしているんだな。ならば、無理強いはしない」


「やらないとは言っていません」

 

 エリオットは、声を震わせながらもきっぱりと言った。


「逃げません、今度は、逃げませんよ」


 あの日、炎の中へ飛び込んでいった彼女の後を追うべきだと思った。けれど、恐ろしくて追いかけることはできなかった。鎮火した後、彼女の消息を知るために森へ行こうと何度も思った。けれど、行こうと思えば思うほど、彼女の消息を知ることに恐怖を覚えた。無事ではないと知ってしまえば、きっと胸が張り裂けてしまうと思った。


 元々、彼女はあの夜、自分にお別れを言いに来ていたのだ。あの火事がなければ、そのまま別れたきりだったろう。だから、これで良いのだと。


 そう、何度も自分に言い聞かせても、森を見ると、火事を知らせる鐘の音を聞くと、恐怖と後悔で身が竦み上がった。


 そんな逃げてばかりの自分に、ステイシーが、狼たちが、デルティムムが、再び機会を与えてくれた。


 今度こそ逃げはしない。デルティムムを万年雪の苗床へ返し、確実に火種を消し去る。


「デルティムム。また、会いましょう。それまで、さようなら」


 エリオットは、デルティムムの白い手に、自分の掌を重ねた。


 それは、雪が溶け、仔狼が春を呼ぶ季節の出来事だった。

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