第11話 冬の王と夏の姫君
デルティムムと別れたエリオットは、大きな虎落狼の背に揺られていた。
デルティムムが狼の背に乗るよう言ったのだ。その怪我では村まで歩いて帰るのは難儀だろう、それに、案内役もいると。そうでなければ、誰が好き好んで恐ろしい大型の肉食獣の背に跨るだろうか。
しかし、狼の体は豊かな体毛に覆われていて、触れると心地よかった。エリオットは、狼が怒らないのをいいことに顔を鬣へ埋めた。不思議と、獣臭さは感じない。干した布団の匂いに近い。
「お前も、寂しいのか?」
ぽつりと零した声は、狼へ向けたものだ。
「お前が仕えていた冬の王も、お前が守っていたデルティムムも、お前たち狼を残して、いなくなってしまった。俺がお前なら、きっとすごく寂しいよ。心にぽっかり、穴が空いたみたいに」
狼は、自分の背中の上でぶつくさと呟いているエリオットを気にもとめず、デルティムムに命じられた最後の仕事を実直にこなしているようだ。
エリオットはため息をこぼし、狼に話しかけるなんて、相当参っているようだと考え直した。そして、狼の背に密着しすぎているとどうにも暑いことに気がつき、体を起こす。
空は快晴。気温は、昨夜の寒さが嘘だったように暑い。もう夏も終わりか、なんて仲間内で言い合っていたくせに、夏が最後の最後に息を吹き返したかのようだった。最後の大盤振る舞いと言わんばかりに暑い。
「全く、こんなに寒暖差が激しいと体調を崩しそうだ。ちょっとは手加減してくれよ。夏の王様……じゃなかった、夏の、なんだったっけ」
その時、ゆったりした速度で歩いていた狼が、急に足を止めた。
「おお、どうした」
狼は、鼻面を空に向けて、しきりに空気中の匂いを嗅ぎ取っているようだった。やがて、金の光彩の中にある瞳孔が、キュッと引きしぼられた。途端に四つ足を動かし、元来た道を引き返し始めた。
ゆったり、なんてものではない。跳ねるように地面を駆けていく。エリオットは振り落とされないように、訳がわからないまま狼の太い首に腕を回して必死に掻きついた。
「おい、どうしたんだよ。村まで送ってくれるんじゃないのかっ」
喋ると、狼の毛が口中に入ってきて、エリオットはゲホゲホとむせる。
「急にどうしたっていうんだ、よ」
独り言は、最後は勢いをなくして空気中に溶けた。
エリオットは、呆然と目の前の光景をその目に焼き入れた。
「なんだよ、あれ」
目算で数百メートル先。針葉樹の間から、チロチロと蛇の舌のような赤いものが覗いている。そして、鼻につく植物の焦げ付く匂い。
火事だ。
いつの間に。デルティムムは、無事なのか。
そこまで思考を進めたところで、エリオットは自分を運ぶ狼が、火の手が上がっている方へまっしぐらに駆けていることに気がついた。
「おい、待て、止まれ!」
この狼、火の中に突っ込む気か。さっと血の気が引き、エリオットは狼の鬣を引っ張ったが、ビクともしない。
ゴオッと、火の燃える音まで聞こえてきた。顔を上げれば、目の前の背の高い樹木から毛が生えたように赤い炎が吹き上がっていた。炎は風に煽られて隣の木に燃え移っていく。
最初に火がついたらしい針葉樹が、ついに耐え切れなくなったか、バキバキと嫌な音と焦げ付く匂い、そして炎を振りまきながら、こちらへ倒れてきた。視界が炎の赤と倒れてくる樹木の黒で染まる。
エリオットは死を覚悟した。
しかし、狼の華麗な足さばきのおかげで、間一髪燃える木の下敷きにならずに済んだ。
それでも、後ろでどおっと倒れた木の音を耳にすれば、生きた心地がしない。
その間、狼は足を止めることなく走り続けていた。ハアハアと、狼の荒い息遣いが聞こえて来る。昨夜、震え上がったこの呼吸音も、今となってはむしろ頼もしい。
「お前、もしかして」
エリオットは、狼の大きな三角の耳へ声をかけた。
「冬の王、いや。デルティムムのところに?」
それに呼応するように、近くの茂みからエリオットの乗る狼に並走する影が二つ、左右から現れた。
エリオットの乗る狼より一回り小さい体格の虎落狼だ。
並走する三びきの狼は、遠吠えをあげた。森のあちこちから、それに応える声が上がる。その声をあげた狼たちは皆、森の奥に向かって走っているようだ。
エリオットも、もう狼の背中の上で震え上がるのはやめた。全く走る速度を緩めない狼の背の上で、なんとか態勢を立て直す。
「デルティムム」
無事でいてくれ。
狼たちは森の地形を知る尽くしているようだ。地面の高低差、地表に露出した木の根、細く伸びる小川。
それらに足を取られることなく、むしろ地形を利用して、たくみに炎を交わしながら森の奥を目指す。
火を避けながらのため、狼たちの動線は真っ直ぐではなくあちこちへ折れ曲がっているが、左右を走る二頭の狼は絶えず一定の距離を保ちながら並走してくる。
彼らの統率の取れた動きには舌を巻く。獲物側からしたら怖くてたまらないだろう。
その時、また目の前に燃え盛る木が倒れてきた。速度を緩めた狼たちの前で、通せんぼをするように倒木と炎が立ち塞がった。
熱気がブワッと吹いてきて、エリオットは腕で額の汗を拭う。
狼たちは、倒木を迂回するルートをとる。
エリオットは狼たちに身を委ねながら、畏怖の念で燃える森を眺めた。
炎の勢いは激しく、まるで森を食らっているようだ。空は青く晴れ渡っているというのに、その下は地獄のように赤黒い色をしているせいで、さらに悍ましく感じる。
火災の原因は、急激に上がった気温か、乾燥か、その両方か。どちらにせよ、最悪の条件が重なって起こった自然発生の火災だろう。
おまけに、風も強い。炎は凄まじい勢いで燃え広がっている。この勢いで、村にまで火の手が迫るかもしれない。
今頃、村では緊急事態を知らせる鐘が鳴り響いている頃だろうか。森から村までは、見通しのきく平原が広がっている。村の皆が、早く火事に気づいていればいいのだが。
その時、視界に見覚えのある白い髪を捉えた。燃え盛る炎の赤い色と、焼けこげて黒く変色した草木の中で、それは光り輝いているように見えた。
「デルティムム!」
エリオットが声をあげたのと、狼たちがデルティムムの前で足を止めたのはほとんど同時だった。
「エリオット、お前たち、戻ってきたのか。危険なことをする」
「デルティムム、無事でよかった。森が、」
その先の言葉が出なかった。
デルティムムは、森を食う焔を睨み据えている。エリオットには一度も見せたことのない、怒気を孕んだ眼光を宿した目だ。
「冬の王の去るタイミングが悪すぎた」
「タイミング?」
デルティムムは頷く。
「今は、晩夏だ。この時期は本来姫君のもの。だが、私を迎えてここから去るために冬の王の姿を取った。冬の王が去るということは、春の女王も、夏の姫君も、秋の皇子も去るということだ。皆等しく、この土地の四季だからな。皆順番に去っていった。つまりたった昨晩で、季節は一巡りした。そのせいで、冬の乾燥と夏の高温がぶつかり合い、こんな火事を引き起こした」
昨晩で季節が一巡りした。エリオットは、その言葉に自分の耳を疑ったが、昨日と今日の寒暖差を鑑みれば、デルティムムの言っていることは本当なのだと理解できる。
夏から秋へ、そして冬から春へ、そして再び夏へ。目まぐるしく変わる季節が、本来混じり得ない冬の乾燥と夏の高温を巡り合わせた。
「これでは、万年雪の中へおちおち還れないな」
デルティムムが歩き出すと、狼たちは守りを固めるように彼女の周囲に付き従った。
「エリオット、狼たちのそばから離れるな」
デルティムムは、背中まで流れる豊かな白髪を、後頭部へ高く結い上げた。
「私は、この火事を眠らせる」
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