第10話 晩夏の森で交わした約束

 目を開けたエリオットは、ほとんど反射で顔を上げた。頬にくっついていた土や草がパラパラと下に落ちる。


 うつ伏せのまま、呆然として頬に手を添えて固まっていると、近くから「起きたか」と声が聞こえた。


 首を回して声のした方を見ようとしたが、痛みが走り「うっ」と声をあげて再び地面に突っ伏す。


「無理して動くな。あちこち脱臼や捻挫でひどい有様だからな」

 

「デルティムム?」


 問いかけると、足音がこちらに近づいてくる。じきに、目の前にデルティムムが現れた。周囲は夜の闇ではなく、明るい日差しに包まれている。


 明るい陽の下で見た彼女の姿は、幼い時の記憶よりも若く見えた。ずっと年上の大人の女性であったはずの彼女の姿は、自分と同年代の少女に見えた。いや、彼女の姿は何も変わっていない。自分自身が成長したから、そう感じただけだ。


「軽い脳震盪も起こしてた。無事に意識が戻ってなによりだ」


 しゃがみこんだデルティムムは、良かったと歯を見せて笑った。


「デルティムム、もう行ってしまったんじゃなかったんですか」


 エリオットの問いに、デルティムムは片眉を吊り上げた。


「そのはずだったんだけどな。誰かさんのせいで延期だ」


「誰かさん?」


「エリオット、君だよ」


 デルティムムはやれやれと肩をすくめた。


「昨夜、狼たちが騒いでたから、何事かと思ってき見てみれば、君が地面にぶっ倒れてた。さすがに放っていくわけにはいかないからな。還るのは、君が意識を取り戻して、村へ戻るのを見届けてからにしようと思ったんだ」


「すみません」


 エリオットは謝った。自分の軽率な行いのせいで、デルティムムの予定を狂わせた。引き止めたい気持ちはあったが、こんなことをしたいわけではなかった。ただちゃんと、別れの挨拶を交わしたかっただけなのだ。昨夜、窓越しに交わしたような、あんな子供じみた会話を最後にしたくなかった。


「謝るな」


 デルティムムは、眉尻を下げた。


「別に責めてるわけじゃない。君にあんな真似をさせたのは、私のせいでもある。君からすれば、数年ぶりに姿を現したと思った奴に、いきなりさようならと言われたようなものだ。説明を求めるのは当然のことだ」


 立ち上がったデルティムムは、そばの倒木に腰掛けた。倒木のすぐ近くには、狼がいる。顔を地面につけて小山のように伏せているんのではっきりとは分からないが、小型の馬ほどはあろうかという大きな虎落狼だった。


 エリオットは昨夜、狼に襲われたことを思い出して震え上がったが、狼はおとなしくしている。エリオットを金色の双眸で一睨みしただけで、あとは興味がなさそうにそっぽを向き、大あくびをした。


 その狼のたてがみに触れて、デルティムムは言葉を続けた。


「私は、心の整理をつけて君に別れの挨拶ができたけれど、君からすればそんな話は知ったことじゃない。いきなりのことで、心の整理がつくはずもなく、私の後を追いかけてくるだろうことは、想像できたことだ。それなのに私は、中途半端に会話を切り上げてしまった。すまないな」


「違います。そっちこそ謝らないでください」


 痛みを堪えながら、エリオットは体を起こす。


「僕が子供過ぎただけです。子供みたいな我儘を言って、あなたを引き止めようとした。挙句、森の危険さを忘れて追いかけてきてしまった。僕は馬鹿です。図体だけ大きくなって、心は馬鹿な子供のままだ」


 うなだれたエリオットの頬を、温かい雫が滑り落ちた。


「でも、ずっとこんなままでいるわけにはいかない。ずっと子供ではいられないんだから」


 涙で濡れた顔を上げて、エリオットはデルティムムを見上げた。


 木漏れ日が、彼女の頭上に降り注いでいた。雪のような白髪に、陶器のように滑らかな肌、冬の空のような青く澄んだ瞳。彼女の姿は、出会った頃と何一つとして変わらない。


 その事実全てが、彼女が人でないことを示している。


 もとより、交じり合うことのなかった出会いだ。


 伝承の中でしか聞いたことのなかった、氷雪の乙女。

 

 彼女らは冬の王の奥方であり、狼たちの女主人でもある。その姿は美しく、時に人の男を惑わせるという。


 冬の王は、それを厭う。自分の奥方をどこの馬の骨とも分からない輩に取られたくないという思い故、人間の男に触れられた氷雪の乙女は、万年雪が溶けるように消えてしまう。


 彼女も、今のエリオットが触れたら、溶けて消えてしまうのだろうか。


 そんな無粋な考えを、エリオットは振り払う。


「デルティムム」


「うん、聞いているよ」


 頷いたデルティムムの表情と声は、冬の初めに降る、綿雪のように静かで、優しい。


「今まで、僕を見守ってくれてありがとうございます。そして、あなたと会った時間は短くても、僕にとっては宝物のような時間でした。僕は、あなたのことをきっと忘れない」


「そうか」

 

 デルティムムは、深く感じ取るように目を閉じて、自分の胸に手を当てる。


「私たちはかつて、氷雪の乙女と人々に呼ばれるほどに、人に近しい場所で住んでいた。今よりももっとずっと、人と獣、そして私たちのような者との距離が近かった頃の話だ。けれど、今やその数を減らし、人も、氷雪の乙女を単なるおとぎ話の中の存在としか思わなくなった。そして、私が最後の一人だ。私が去れば、氷雪の乙女は本当にいなくなってしまう」


 目を開ける。彼女の双眸に、エリオットの顔が映った。


「初めて、君に話しかけた時、どんな反応をされるだろうかと、実はドキドキしていた。怖がらせてしまうかもしれない、驚かせてしまうかもしれないと。けれど君は、ちっとも怖がらなかったね。私は嬉しかったよ。人と親しげに言葉を交わしたのは、とても久しぶりだったからね。私の方こそ、君と言葉を交わした時間は、宝物のように素晴らしい時間だった。君以外の話し相手と言えば、狼か、冬の王くらいだったからね」


 デルティムムは短く笑う。そばに伏せていた狼は、不満そうに鼻を鳴らした。


「ここだけの話、冬の王は寡黙でさ。私ばっかり一方的に喋ってた。だから、話しかければポンポン答えを返してくる君との会話は、本当に楽しかったよ。もっと君と話す時間を作ればよかったのが、心残りだな」


 よいせ、と、デルティムムは倒木から腰をあげると、エリオットの横を通り過ぎ、二、三歩歩くと、そこで足を止め、くるりと振り向いた。


「約束だ」


 彼女の白髪が、木漏れ日に洗われて雪の結晶のように煌めく。


「覚えてといてくれ。この地に、かつて氷雪の乙女がいたことを。デルティムムという、氷雪の乙女がいたことを」


「うん、覚えている、死ぬまで、絶対に忘れない。あなたと交わした言葉も全部、覚えておきますよ」


 デルティムムは笑った。


「ありがとう、エリオット」

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