第9話 夜の森と虎落狼

 エリオットは、マシューと共に篝火の焚かれた厩舎へ向かった。もちろん、厩舎だけでなく、村全体にも警戒の人員を配備しているが、厩舎が一番防備を厚くしている。大事な馬が襲われないためだ。


 しかし、エリオットだけは狼を警戒する必要がないことを知っていた。

 彼らは、この地を去る冬の王との別れを偲んで、送別の遠吠えを奏でているだけだ。村を襲いに来た訳ではない。

 

 そのため、エリオットは緊張感が持てなかった。それなのに、心臓はバクバクと激しく脈打っている。


 来るはずのない狼の襲撃に備えるよりも、一刻も早くここから抜け出して、デルティムムを探しに行きたい。その衝動が、心臓の中で暴れ狂っている。しかし、村人として生きる以上は果たさなければならない責務をほっぽり出していくような度胸を、エリオットは持ち合わせていない。


 そんな不甲斐ない自分と、どうしようもない衝動に、エリオットは思い切り頭をかきむしりたくなった。


 皆の目がある手前、そんなことはしなかったが、マシューにはお見通しだったらしい。


「さっきから落ち着きがないけど、どうした。もしかして、さっきの子が気になるのか」


 マシューは、デルティムムの姿を見ている。彼女と、いつもと様子の違うエリオットを彼なりに結びつけたのだろう。


 エリオットの顔を覗き込んだマシューは、エリオットの返答を待たずに「ニヤリ」と笑った。


「行ってこいよ」


「え?」


 何を言われたのかが一瞬分からず、エリオットはぽかんと口を開ける。


 マシューは、エリオットの肩を肘で小突いた。


「会いに行きたいんだろ。あんな一瞬の逢瀬じゃな。しかも、今晩は狼が出て物騒だ。お前が行って、守ってやれよ」


「いや、そんな。俺だけここを離れるわけには」


「お前の代わりなんていくらでもいる。でも、その子を守ってやれるのはお前だけなんだろ。あの子が一体何者なのかは、分からんけどさ」


 マシューは、目を細めてエリオットを見つめた。


「苦しそうな顔してるぜ、お前。逢いたくて、たまらないんだろ。いい人なんだろ、お前の」


 勘違いされているようだが、マシューの言っていることは半分当たっている。エリオットは、カクカクと声も出さずに頷いた。


 マシューは、バンバンとエリオットの背中を叩く。


「心配すんな。お前の不在は、俺が適当にごまかしておく。行って来い。さあ」


 エリオットがまだ遠慮していることに気がついたのか、マシューは最後に一際力強くエリオットの背中を叩いた。


 その力が強すぎて、エリオットは前につんのめってよろけた。よろけた姿勢のまま、マシューを振り返る。


「マシュー」


「なんで泣きそうな顔してるんだよ。早く行け」


 マシューは手をひらひらと降る。エリオットは頷いて、家と家の間の路地に飛び込んだ。


 エリオットは走りながら、忙しなく頭を動かしていた。


 今、村の周囲は厳戒態勢が敷かれている。だが、村の男手にも限りがある。厳戒態勢にも必ず隙間がある。森へ走っていくところは、できれば誰にも見られたくない。だから、その隙間から村を出る。


 彼女は、森にいるはずだ。森へ走って、よしんば彼女を見つけたとして、その先は。そこまで考えたところで、エリオットは足を止めた。


 それで、どうするというんだ。


さっきのように、「一緒にいたい。行かないでくれ」と、そんな子供じみた言葉をぶつけるのか。いや、そんなことはできない。そんな子供じみた言動を、デルティムムのエリオットに対する最後の記憶にはしたくない。


「ちゃんと、今度こそちゃんと、別れの言葉を言うんだ」


 息切れしたまま、エリオットは言葉を紡ぐ。


「もう俺は、子供じゃないんだから」


 エリオットは鼓舞するように膝を叩いて、再び走り出した。


 エリオットは、警備に起き出してきている村の若衆の目をかいくぐり、村と平原を隔てる柵までたどり着いていた。


 暑くなってきたのでコートを脱ぎ、柵に引っ掛ける。あとで回収するの忘れないようにしないと、と自分に言い聞かせながら、柵を越える。


 平原から森までは、人の足では少々遠い。しかし、子どもの頃は探究心と好奇心で苦もなく歩いたものだ。当時のことを懐かしく感じながら、エリオットは平原へ足を踏み出した。その踏み出した先は、暗い。


 当然だ。夜なのだから。


 夜の森へ行くのは、初めてだった。夜の森は、真っ黒な影のようで恐ろしい。松明を持ってくるんだったと後悔したが、松明を持っていれば厳戒態勢を敷いている村の仲間に気づかれてしまう。気づかれた時の言い訳を考えるのも面倒だったので、そのまま突き進んだ。


 それに、森はデルティムムの住まいだ。恐ろしいことなど、何も起こらないはずだ。


 森が近づいてくると、エリオットは声を張り上げて彼女の名を呼んだ。


「デルティムム!」


 沈黙する木々の間に向かって、エリオットは何度も叫んだ。


「エリオットだ。もう一度、今度はちゃんと、別れの挨拶をさせてほしい!」


 近い距離から、狼の遠吠えが聞こえてきた。その遠吠えがエリオットに応えたものなのか、冬の王への送別の遠吠えなのか、どちらかの区別はつかなかったが、エリオットは遠吠えが聞こえてきた方へ足を進めた。


 初めて会った時、デルティムムは狼の背に乗っていた。そして、今晩、彼女は狼の遠吠えと共に姿を現した。狼が、彼女の居場所を知っている、そんな気がする。


「デルティムム、まだ、行かないで。俺はまだちゃんと、あなたにさようならを、言えていない」


 ハアハアと溢れる自分の呼吸の音がひどくうるさい。さっきからずっと声を張り上げて動き続けているせいか、身体中火照ったように暑い。


 それとは正反対に、夜の森は闇と沈黙に沈み、時折聞こえる狼の遠吠え以外の獣の息遣いは聞こえてこない。皆、狼の群れに恐れをなして、姿を隠しているのだろうか。


 雲間からわずかに差し込んだ月光は、非常に頼りない。ほとんど前方を視認できない状態で進んでいたエリオットは、足を踏み出したその先が急斜面になっていることに気がつかなった。


 あ、と声をあげた時には、体は尻餅をつき、そのまま急斜面を転がり落ちていた。体のここをぶつけた、あそこをぶつけた、と頭が理解する処理速度を遥かに上回る速度で、衝撃が身体中にぶつかってきた。


 自力で止まることもできずにいたエリオットの体は、平坦な地面に出たことでようやく止まった。身体中が痛い。何とか頭を持ち上げたが、力尽きてすぐに地面に落ちてしまう。頭もぶつけたのか、痺れたように痛いし、めまいもする。


 「デルティムム…」


 力尽きた声で彼女の名前を呟くと、サクサクと地面を踏みしめる足音が聞こえてきた。一瞬、デルティムムかと思ったが、耳を澄ましてみれば人の足音ではない。これは四足歩行の獣の足音だ。


 それを理解した矢先、生臭い獣の息が額にかかった。見上げれば、エリオットの視界を黒い影が月光ごと遮っていた。狼だ。


 エリオットは息を止めて、黒い影の獣と見つめ合う。


 見つめ合った時間は、そう長くはなかった。狼が口を開けて、エリオットの首に牙を突きたてようとしたからだ。


 悲鳴をあげ、エリオットは咄嗟に腕を交差させて致命傷を塞いだ。腕を覆っていた服が引き裂かれ、血潮が噴き出す。


 エリオットは、打ち身だらけの体が悲鳴をあげるのも厭わず、がむしゃらに動いた。逃げなければ食われてしまう。だが、足を挫いていたのだろうか。走りだそうと前へ踏み出した足に激痛が走り、地面に倒れ込んでしまう。足がダメならと、代わりに腕を動かして這って進んだ。そのエリオットの背中を引っ掻くように、狼が爪を突き立てた。

 

 エリオットは恐怖のあまり声も出なかった。


 幼い時、デルティムムに言われた言葉が不意に蘇る。


「いいか、エリオット。狼はな、腹が減っている時、近くに、狩りやすくて栄養源の豊富な獲物がいたら、そいつを真っ先に狙うんだ」


 ゾッとする光景が脳裏に浮かび、デルティムムはめちゃちゃに足や腕を動かしてもがいた。しかし、焼け石に水で、狼に何の効果もない。


 背中に重みが増し、エリオットのうなじに生温かい狼の呼気が当たった。必死で顔を上げると、目の前に狼の足があるのが見えた。今、エリオットを踏みつけている狼のものではない。前にもう一匹、いる。


 前方の狼の鼻面が、闇の中でもはっきり視認できるほど近づいた時、エリオットは気絶した。

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語り部ステイシーと氷雪の乙女 藤咲メア @kiki33

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