第8話 去りゆく冬の王と氷雪の乙女
三度目は、エリオットが成人した年だった。
村の男性は、成人すると家を与えられる。やがて妻を迎えて、その家で新しい家庭を築くのだ。
この頃にはもう、エリオットはすっかり同年代の若者たちと打ち解けていた。背もすっかり伸び、体力もつき、誰からも文句を言われないくらいの働きぶりを見せた。自然、村の若い娘たちからも好意の眼差しを向けられることが多くなった。
「エリオットは、どの子がいいんだ?」
マシューからそんな話題を切り出されることも少なくはなかった。マシューは血のつながりこそないものの、兄のような存在だった。
子供の頃、村でエリオットをからかってくる連中をしょっちゅう追い払ってくれていたのは彼だ。しかし、それはそれでマシューがいなきゃ、なにもできない泣き虫、と罵られる原因でもあったので、数年前、一人で森へ入ったのもそうではないことを証明したい気持ちからでもある。
「どの子って、言われてもな」
氷の切り出し作業がひと段落つき、橇の上で休憩していたエリオットは、マシューからの問いに、いつものように曖昧な返事を寄越していた。
「まだ、よく分からない」
「じゃあ、こういう子が好き、とかはできたか。前聞いた時は、それすらもわからんと言ってたけど」
もう縁組の話が持ち上がっていてもおかしくはない年頃のエリオットだ。兄貴分であるマシューとしても、世話を焼きたいところなのだろう。話は毎度こういう風向きになる。
「そうだな」
エリオットは、村の若い娘たちの顔を思い浮かべる。その中に、もうずっと会っていないデルティムムの顔が浮かんだ。
「白い髪」
「え」
マシューは虚を突かれたような顔をしてから破顔した。
「白い髪の女の子か。それはなかなか若い子にはいないんじゃないかな」
「え、今、声に出てた?」
「出てたぞ」
エリオットは思わず顔を赤くして口を塞いだ。
デルティムムとの出会いのことは、誰にも話していない。マシューは単純にエリオットの女性の好みだと受け取ったようだ。
しかし、エリオットはデルティムムのことを思う自分の心がおよそ恋と呼べるものなのかどうかは分からなかった。好きな女の好みを聞かれて思わず彼女のことを思い浮かべるなんて、どうかしているとも思う。たった二度しか会っていないし、しかも、子供の頃に会ったっきりだ。彼女だってもう妙齢の女性になっているだろう。
「まあでも、生まれつき白い髪の人間が生まれることは稀にあるそうだし、全く突拍子な好みでもないな。でも、この村にいる若い女の子たちの中にはいないからなあ。村を出るしか、お前の好みに合う女の子には会えなさそうだ」
「いや、今のは違う。気にしないでくれ」
真面目に考え始めたマシューをエリオットは慌てて止める。
「何が違うんだ」
「あ、いや、あれは、さっきちょっと頭がぼんやりしていてさ、その、最近見た夢のことを思い出したんだ。白い髪の女の人が出てくる夢で、さ。あんまり綺麗だったから」
エリオットは苦し紛れの嘘をついたが、マシューは信じたようだ。
「なんだ夢の話か。しかし、夢でもいいなあ、そんな美人に会えるなんて。今度紹介して欲しいくらいだ」
「俺の夢の中にマシューを招待しない限り、無理な話だな」
マシューに調子を合わせて、エリオットは笑う。しかしその眼差しは、かつてデルティムムと出会った、アエルム山脈の麓に広がる森へ向けられていた。
それからまた少し時が経った。冬は完全に過ぎ去り、季節は春から夏へ、そして秋へ移り変わろうとしている。
その夜は、寒い夜だった。ようやく夏が終わりを迎えつつあるという季節に関わらず、秋を飛ばして先に冬が訪れたかのような冷え込んだ夜だった。
エリオットは、家の中でシチューを煮込んでいた。兎のもも肉と馬鈴薯が柔らく解けてきて、そろそろ食べ頃だと思うと腹が鳴りそうになる。しかし、代わりに聞こえてきたのは狼の遠吠えだった。その遠吠えに応答するようにして、また別の方角からの遠吠えが重なり、荘厳な二重奏を成す。
エリオットは鍋から顔を上げて、窓の方へ目を向けた。
狩りでもしているのだろうか。村の馬たちは、狼の襲撃に合わないように、夜になると必ず厩舎へ入れている。だが、馬たちは今晩眠れぬ夜を過ごすことになるだろう。
エリオットは、鍋の前に置いていた椅子から腰をあげると、窓の方へ向かった。額がガラスにくっつきそうなほど顔を近づけて、外の様子を伺う。
さすがにここからでは狼の姿を見ることはできない。しかし、エリオットが探しているのは狼ではなかった。
デルティムムが氷雪の乙女だと正体を明かしてから、半信半疑ながらもエリオットはその種族にまつわる伝承について少し調べてみたことがあった。
調べると言っても、氷雪の乙女について書かれた書物があるわけではない。村の古老へ話をせがんで、伝承をもう一度聞かせてもらうしか、手段がなかった。
とある古老が語ってくれた伝承の中には、狼の話も出てきた。
彼は、狼は冬の王の眷属だと語った。人間でいえば、王様と騎士のような関係だと。そして狼は、騎士が姫を守るように、冬の王の奥方である氷雪の乙女の身も守るのだと。
だから、狼の気配を感じるとつい彼女の姿を探してしまう。
しかし、今は夏だ。いや、もう秋と言ってもいいだろうか。
思い返してみれば、デルティムムと会ったのは、二度とも冬だった。氷雪の乙女が冬の王の奥方だというのなら、冬以外の季節の際はどこにいるのだろう。冬眠する熊のように、冬が来るまで、アエルム山脈の万年雪の中で、眠っているのだろうか。
「デルティムム」
エリオットは、ポツリと呟いた。もう窓外を見てはいなかった。窓から離れ、鍋の前に置かれた椅子へ戻る。
すると、外からドアをノックする音が聞こえてきた。エリオットは弾かれたように立ち上がると、ドアへ駆け寄り、ゆっくりドアノブを回す時間も惜しいとばかりに客を迎えた。
「デル……」
呼びかけた名は舌先で止まり、別の名を紡いだ。
「マシュー」
勢いよく出てきたエリオットに驚いたのだろう。マシューはしばし呆気にとられた顔をしてから、我に返ったように「よお、エリオット」とはにかむ。
「こんな夜更けにすまないな」
マシューは、ひょいと手に持った携帯用の石油ランプを掲げた。
「何かあったのか、狼か?」
「ご名答」
マシューは笑みを引っ込め、真面目な顔つきになった。
「今晩、やけに狼が騒がしい。今、村長と主だった顔役が顔を突き合わせて、決めたとところだ。今晩、村中に火を炊いて見張りを立てる。特に、厩舎の周りを厳重にな」
「狼が村のそばまで来たのか」
「いや、入ってきた。一頭だけで、もう追い払われたけどな」
こうやってマシューと会話をしている間にも、幾度も狼の遠吠えが交わされている。その感覚は次第に短くなり、マシューと話し終える頃には絶えず聞こえるようになっていた。
美しい笛の音のような遠吠えも、今夜ばかりは少しやかましいほどだった。
エリオットは「ちょっと外で待っててくれ」と言い残すと、シチューを雑に皿に寄せると、口の中へ掻き込んだ。それから炉の火を消して、薄手のコートを羽織った。普通ならこの季節にコートはいらないのだが、冷え込む今晩の間は必要だった。
さあ準備ができたと、外で待ってくれているマシューのもとへ向かおうとした時、コンコン、と外から窓を叩く音がした。
エリオットは足を止めて、窓へ向かう。ガラスの向こうには、あろうことかデルティムムの姿があった。最後に会ってから、もう十年ほど経つというのに、彼女の姿は全く変わらず、若く美しいままだった。
エリオットは窓を開けて、「デルティムム!」と子供に返ったように声をあげた。
「エリオット。久しぶりだな。こんな時分にすまない」
久しぶりと言いながらも、ディルティムムはつい一週間前にも会ったような顔で、謝ってきた。
だからエリオットも、夢にまで見た彼女との再会に舞い上がったような素振りを見せずに、「そんなことないですよ」と首を横にふる。
僕はずっと、あなたに会いたかったんですよ、とまでは言わなかった。言えなかった。
「どうしても、しなくちゃいけないなって、思ったんだ。別れの挨拶をさ」
「別れの?」
どういうことだと、デルティムムを見つめるエリオットの視線が宙をさまよう。
「夫に呼ばれたのさ。あんたら人間が言うところの、冬の王に」
デルティムムは雪が降ったかのような白い睫を伏せた。
「もう、この大陸は私らみたいなのが住むような場所では、なくなってきてるんだ。昔は、この地にはもっとたくさん私の仲間がたいたもんだが、今ではもう私一人だ。私はまだここで待っていたかったけど、夫は、もうここを去ると決めた。今、そうしたところだ。その証拠に、狼たちが送別の遠吠えを奏でている」
エリオットは、はっとして狼たちの遠吠えを聴いた。長く伸びたその音色は、どこか物悲しく聞こえる。もう二度とは戻らぬ冬の王との別れを、惜しんでいるとでも言うのだろうか。
「でも、今は夏です。冬の王は、今までどこに」
今晩が冷え込んでいるのは、冬の王が最後の手向けだと、一時の冬をもたらしているのか。わけがわからぬままに尋ねるエリオットを見て、デルティムムはおかしそうに口を開けて笑った。
「冬の王はずっといるさ。まあ、時には春の女王になったり、夏の姫君になったり、秋の皇子になったりするけどな。でも今晩は私に会いに来てくれたから、冬の王の姿をしていたよ」
そっと、窓枠からデルティムムが離れた。
それを引きとめようと、エリオットはなおも尋ねる。
「冬の王がここから去ったら、この村はどうなるんですか」
「どうにも」と、デルティムムは頭を振った。
「季節は変わらず巡り続ける。それが世の理ってもんだ。ただ、ちょっとばかし不思議なことは起きなくなって、つまらなくなるかもな。でも、季節は主人がいなくなっても、うまくやっていくさ。もう既に、そういう土地の方が多いから」
会話を続けなければ、デルティムムが暗い夜の向こうへ消えていってしまう気がして、エリオットは矢継ぎ早に質問を続ける。
「あなたは、どうなるんですか。さっき、別れの挨拶だと言いました。冬の王と一緒に、どこかへ行ってしまうんですか」
「私?」
デルティムムは月白の髪をかきあげた。
「私はどこにも行かないよ」
「では、どうして別れの挨拶になるんですか」
「私は還ろうと思うんだ」
デルティムムは、夜の空を覆う黒々としたアエルム山脈の影を指差した。
「氷雪の乙女は、万年雪の中から生まれて、万年雪の中へ還る。私の仲間もみんなそうさ。今では私一人きり。他のみんなはもう万年雪の中へ還って行った。私はまだここでグズグズしていたけれど、冬の王が去るというのなら、私も還らないと」
「どうして」
エリオットには、彼女の言っていることが全く理解できなかった。それは、エリオットは人間で、彼女は人間ではないからだ。これまで、心のどこかで彼女は本当は人間であり、おとぎ話の存在を出してきて、子供のエリオットをからかってきただけなんだと、そんな思いがあった。けれど、やはりそうではないことを、眼前に突きつけられた気分だ。
「どうしてと言われても、な。そういうものだとしか言えないな。別に、私たちの生き方を理解してほしいわけじゃない。ただ、エリオットとは不思議な縁があったからさ、最後にちゃんと、お別れがしたいからここに来たんだ」
複雑そうな表情を浮かべて、デルティムムは後ろへと下がった。引きとめようとしたエリオットの手が空を切る。
「あなたは、どうしてここに僕がいると分かったんです」
「ずっと見守ってた」
デルティムムは言った。
「心配だったんだ。二度も一人きりで森の中に迷い込んで。次こそ、うっかり狼に食われたらって。でも、私とエリオットは住む世界が違う。理も道理も違う。だから、あんまり関わらない方がいいと思って。またお前が私を見つけるまでは、そっと見守ろうと決めてたんだ」
「でも、あなたはここを離れるんでしょう。もう、僕を見守る必要は、ないんですか」
声に出してしまってから、なんて稚拙でわがままな発言なのだろうと、エリオットは己を恥じた。そして、そんなことを言ってまでもデルティムムを引きとめようとしている自分が、とても醜い生き物のように感じた。
デルティムムは小さく笑うと、首を横にふる。
「もうその必要はない。お前はもう立派な男になったんだからな」
彼女のそばに、一頭の狼が現れた。それはデルティムムを迎えに来たかのようだった。
「さようなら、エリオット」
待ってと、なおも見苦しく引き止めようとしたエリオットの前で、デルティムムの姿はどこからともなく現れた季節はずれの吹雪に、まるで溶かされるようにして消えてしまった。呆然とするエリオットの隣には、外で待っていたはずのマシューがいつの間にかそばに来ていた。
「今の子、誰だったんだ」
弾かれるように振り向くエリオットに、マシューは笑いかける。
「もしかして、お前のいい人か」
「マシュー、話を聞いてたのか」
尋ねると、マシューはかぶりを振った。
「いや、俺には、彼女が窓から離れていくところしか見えなかったよ」
エリオットはホッとした。先ほどのやり取りを聞かれていたら説明が面倒になっていたところだ。そもそも、説明をできるかどうかの自身もない。
「で、あれは誰だったんだ」
そんなことよりも、しつこく聞いてくるマシューの方が今は面倒だった。
エリオットは「なんでもない」と言ってそっぽを向いた。
「とにかく、早く行こう」
乱暴に窓を閉め、エリオットは早足で家を出た。マシューもその後から続く。
吹雪は、いつの間にか止んでいた。そもそも降っていたかどうかも怪しい。寒いとは言っても所詮は「夏の終わりの割には寒すぎる」という程度の気温だ。吹雪が降るとは到底思えない。先ほどデルティムムの周りに降っていた吹雪は、幻だったのだろうか。あるいは、彼女自身も。いや、そんなことはない。マシューだって見たのだから。
エリオットはとりとめもない思考を止めたくて、ますます足を速めた。けれど本当は、一人になりたかった。いや、彼女を追って、吹雪の中を走って行きたかった。
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