第7話 迷子の少年と最後の乙女

 エリオットが彼女と出会ったのは、六つか七つの時だった。


 ふかふかの雪の上で仰向けに寝転がった幼いエリオットの鼻面を、何かが舐めた。ぎょっとして飛び起きると、目の前に大きな狼の顔があった。エリオットは、恐ろしさのあまり声も出ない。


「人間の坊主がこんなところで、何してんだ」


 狼が口をきいたと思ったエリオットは、ますます身を強張らせる。しかし、狼の背中の上にどうやら人が乗っているらしいことに気がついた。その人は純白の毛皮のコートを着ている。ひらりと狼の背から飛び降りると、サクサクと雪を踏んで、エリオットの方へ近づいてきた。


 エリオットは警戒して、地面に尻餅をついたまま後ずさった。ちょうど太陽が顔を出していて、エリオットを見下ろすその人の顔は逆光でよく見ることができなかったが、声色と背格好から見てまだ若い女性であることはわかった。


 女性は腰に手を当てると、首をひねった。


「んん?私は狼ではないぞ。かといって人でもないがな。そんなに怖がるな。取って食べやしないよ」


 そう言いながら彼女はまっすぐに手を伸ばしてきて、エリオットの首根っこをつかんで持ち上げた。自分の尻尾を抱きしめて縮こまる子猫のようになったエリオットを、そのまま狼の背の上へ乗せる。


 その時になってようやく、エリオットは彼女の顔を見ることができた。


 子供の好奇心は時として恐怖心をも凌駕するのか。狼の背の上に乗せられたというのに、エリオットは彼女の顔をまじまじと眺めた。まだ人の美醜に頓着しない子供のエリオットでも、その人が美しいということは分かった。


「なんだい、じろじろ見て」


 片方の眉尻を釣り上げた表情ですらも美しかった。雪のような混じり気のない白い髪に、冬の空を映したかのような青い目。雪原を思わせる白い肌。どれもこれも、エリオットが見たことのない特徴を持った女性だった。


「お姉さん、だあれ」


「そういうお前はだあれ」


 まさか聞き返されるとは思っていなかったエリオットは、つっかえながらも名前を告げた。


「エ、エリオット」


 女性は「そう、エリオット」と名前をつぶやいてから、「私の名前は⬜︎⬜︎⬜︎」と言った。


 なんと発音したのかが分からなかった。


 エリオットは戸惑ったが、今聞いた妙な発音の名前を、自分が見知った発音へ無理やり変換した。


「デルティムム、っていうの。へんな名前だね」


 変換させた言葉は、「終わり」だとか「最後」だとかを意味する言葉に近いスペルになった。


 デルティムムはエリオットの言葉に対して気分を害した様子は見せなかった。それどころか「そうだろう」と口を大きく開けて笑った。


「変な名前だろ。だが、印象に残りやすい」


 彼女の言った通り、エリオットの記憶の中に、彼女との出会いはしっかりと刻まれた。


 狼の背に乗って、エリオットを村まで送ってくれた彼女と別れてからも、エリオットはずっと彼女のことを覚えていた。


 二度目にあったのは、エリオットが十歳の時だったか、それでも三、四年前の出会いと、その時彼女と交わした言葉の端々さえも覚えていた。


「やあ、また会ったな。少年」


「僕はエリオットです」


 生真面目に言うと、彼女は笑った。


「おっと、一丁前に敬語を扱えるようになっているじゃないか。エリオット。私の変な名前は覚えているかい」


「デルティムムです」


「正解だ」


 デルティムムはくしゃくしゃとエリオットの髪をかき回した。エリオットはムッとして、「子供扱いしないでください」と言い、彼女の手をどかした。


「子供を子供扱いして何が悪いんだ」


「僕はもう子供じゃありません。十歳になったら、大人と同じ仕事を任されるんです。それに、あと五年もすれば自分の家だって与えられます」


 それに対して「ふうん」とだけ返したデルティムムは、つまらなさそうな顔をしている。


「そんなことよりさあ、お前、何でまた森の、こんな深いところまで来たんだ。大人に聞かされてないのか?森には狼が出るから、子供一人だけで行くなって」


「度胸試しです」


「度胸試しぃ?」


 何だそりゃ、とデルティムムは目を丸くしたが、エリオットは真剣だった。


「はい。度胸試しです。一人で森へ行って、無事に帰ってこられたら、僕は本当に大人になれるんです」


「それ、誰が言ってたんだ」


「先輩たちです。僕はチビで、本当の親もいなくて、村長が育ての親だから、下駄をはかされているんだって言って、僕のことをからかうんです。それが嫌で歯向かったら、狼の出る森へ行って無事戻ってこられたら、大人だって認めてやるって、言ってくれたんです。いてっ」


 最後の言葉は、デルティムムに額を指でパチンと弾かれたせいだった。


「なっ、何をするんですか」


 ほんのり赤くなった額の一点を抑えて、エリオットは叫んだ。デルティムムはエリオットと目線を合わせるようにしゃがみ込むと、折りたたんだ膝の上で頬杖

をついた


「いんや、馬鹿だなと思って。意地悪な先輩たちも。その意地悪な先輩たちの言葉を真に受けて、こんなところまでやってくる少年も」


「馬鹿じゃないです」


「馬鹿だよ」


 ぴしゃりと言われて、エリオットは思わず口を閉じた。


「君は、その先輩たちのこと好きなのかい。仲間に入れて欲しいのかい。そんなに早く、大人になりたいのかい」


 そんなことを考えたこともなかったので、エリオットは慎重に言葉を選んだ。


「好きとか、嫌いとか、そういうのはありません。それに、村のみんなは、みんな仲間なんです。僕もその仲間の一人です。でも、まだちゃんと認められてないから、認めてほしいんです。それに、早く大人になることは、悪いことじゃないでしょう」


「そのためには、自分の命を危険にさらす?」


 命を危険にさらしているという自覚は、エリオットにはなかった。ただ認められたい一心で、ここまで来た。これで認めてもらえると思うと、恐怖よりも興奮の方が、勝っていた。


「僕は」


 エリオットは、唇を震わせた。デルティムムの言葉で冷静になって初めて、自分がどんな危険なことをしているのかに思い至ったのだ。


 デルティムムは、唇を舌で湿らせてから、囁くような声で言った。


「いいか、エリオット。狼はな、腹が減っている時、近くに、狩りやすくて栄養源の豊富な獲物がいたら、そいつを真っ先に狙うんだ。狩りやすいっていうのは、動きが鈍くて非力なやつだ。今この森の中で、一番動きが鈍くて非力で、栄養源のある獲物は少年だ。真っ先に、狼の狩りの対象になるんだよ。奴らは喉笛を裂いて動脈を絶ち、お前の腹を食い破る」


「やめてください」


 想像すると吐きそうになって、エリオットは耳を塞いだ。


「な、怖いだろ。だからもう二度と、こんなことをするんじゃない。あの時みたいに、また村まで私が送ってやる。私がいれば、狼は手出ししてこないからね」


エリオットは黙ってデルティムムの後へ従った。「今日は、狼を連れていないんですか」


 以前会った時、彼女は狼の背に乗っていた。だが、今日は彼女ただ一人だ。エリオットを怖がらせないように、狼を遠ざけているのだろうか。


「狼たちにも用事がある。常に私の用事に付き合わせているわけじゃないよ」


「用事?」


「ああ、そうさ。彼らの用事と言ったら、それは狩りだよ。だから私はさっき、君に忠告したのさ。よりにもよって、彼らの狩りの時間に一人で森へ来るもんだからさ」


「ごめんなさい」


 真剣にエリオットを諭す、先ほどのデルティムムの表情を思い浮かべて、エリオ

ットは思わず謝った。


「自分がどんな危ないことをしていたのかが分かれば、謝罪は結構だよ」


 手をひらひらと振って、デルティムムは笑った。


 エリオットは足を速めると、デルティムムへ追いつき、彼女の横へ並ぶ。彼女のことを、もう少し知りたいと思った。今日が過ぎれば、次はいつ彼女と会えるかも分からない。


「あの、あなたは、一人でこの森に住んでいるんですか」


「ああ、そうだよ」


 デルティムムはどこか自嘲気味に笑う。


「私は最後だからな」


「最後?何の最後なんですか」


「私は、この土地に住む、最後の氷雪の乙女だ。そう言ったら、エリオットにもわかるかな」


 氷雪の乙女。寝物語でしか聞くことのない名前だ。女しかいない不思議な民で、彼女たちは万年雪の中から生まれてくるという。彼女らはみんな冬の王の花嫁で、皆白い髪と白い肌を持つ。その容姿はとても美しく、人間の男なぞ一目見ただけで惚れ込んでしまうという。それを冬の王は嫌うので、彼女たちは人間の男に触れられると溶けて消えてしまうらしい。


 そんな夢物語のような存在なのだと、目の前の彼女は言った。エリオットは全く実感が湧かず、首を傾げた。


「なんだ、不服そうだな。らしくないか?」


 エリオットは「うん」とも「いいや」とも取れない声を返した。寝物語に聞かされてきた氷雪の乙女は、とても麗しく、それこそ深窓の姫君のような高貴さと清純さを備えた女性というイメージがあった。


 しかし、デルティムムはどうだろうか。確かに彼女は子供のエリオットから見ても綺麗だと思う。白い髪と白い肌は、雪の積もったこの景色と同化することなく輝き、雪の色を纏った長く豊かな睫毛に囲われた瞳は見ていると吸い込まれそうになる。しかし、彼女の立ち居振る舞いは全く持って深窓の姫君ではない。山歩きになれた狩人という印象の方が強い。


「本当にそうなんですか」


「やっぱり疑ってるんだな」


「証拠を見せてください」


「証拠?」


 デルティムムは顎に手を当てると「うーん」と唸った。


「そんなこと言われてもな。この白い髪と白い肌が何よりの証だろ」


「遠い異国には、白い髪と白い肌を持った人間がいると聞きます。ですので、それは証拠になりません」


「ええええ」


 デルティムムは面倒くさそうな声を上げる。それから「あ」と何か思いついたのか、ピンと人差し指を立てた。


「氷雪の乙女は、人間の男に触れると溶けて消えるらしい。まあ試したことはないから、実際そうなのかは知らないが」


「でも、あなたは僕に触れたことありますし、さっきだって思い切り僕の額を指ではじいてました。でも溶けてないですよ?」


「そりゃお前が人間の男じゃないからだ」


 その言葉にエリオットは絶句して立ち止まった。


「僕は、僕は人間の、男じゃ、ない?」


 その鳩が豆鉄砲を食らったような表情がおかしかったのか、デルティムムは腹を抱えて笑った。


「そりゃお前、ははっ、まだ子供だろ。男の子ではあるが、男じゃないよ」


「男と男の子は違うんですか」


「全然違うよ」


 デルティムムはまだ笑いをこらえながら言った。


「もっと背が伸びて声も低くなったら、その時は男だけど。まだそれは何年か先だな」


「そうですか。じゃあ、結局あなたが本当に氷雪の乙女であることは証明できないということですね」


「全く、なんだか難しい言い回しをしているな。子供なのに学者みたいなやつだ」


 デルティムムは「ほら」と手をこちらへ差し出してきた。


「ここから先は雪が深いから、子供だと足を取られかねない。私が引っ張っていくから、頑張ってついておいで」


「はい」


 頷き、エリオットは彼女の手を取った。彼女の手はひんやりしていた。そのひんやりした彼女の手に、自分の温かい体温が伝わっていく。


 自分が大きくなった時、こうやって彼女の手を取ったら彼女は溶けて消えてしまうのだろうか。エリオットは、前を歩くデルティムムの背中を見上げて、そんなことを考えていた。

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