第6話 奇妙な氷と狼の群れ
エリオットとステイシーは、狼とはかなり遠い距離を置いて森の奥を進み続けた。
時折後ろを向いたり、太陽の位置を確認したりして、エリオットは方角の確認を怠らないように注意する。ステイシーは、遠くを歩く狼から決して目を離さずに黙々と歩いている。しかし、そうしている時間がだんだん長引いてくると、ステイシーは不意に狼の話題を口に出した。
「虎落狼の伝承を知っていますか」
「伝承?ああ、なんか冬の眷属とか、そういうやつですか」
馴染みのおとぎ話を思い出して、エリオットは答えた。合っていたようで、エリオットの前を歩くステイシーの頭が縦に振られた。
「ええ、そうです。彼らはその雪のように美しい毛皮と美しい声、そして、極寒期に耐えうる強靭な体力と生命力により、冬に仕える従者、または冬を呼び寄せる者という印象を人々に抱かせてきました。彼らはその遠吠えで冬を呼び寄せ、逆に彼らの子らの鳴き声は冬をまた別の地へ運ぶ、とされています」
語り部という生業のおかげか、ステイシーの声は淀みなく流れる水のように耳に心地が良い。
「実際、冬は他の季節と比べてよく音が響きますから、彼らの遠吠えがより強調されて聞こえてきますし、冬から春にかけては繁殖期なので、子狼が鳴く頃には冬も終わりを告げ始めます。伝承というのは、一見デタラメに見えても元となる事象はあるものです」
「あなたが先ほど村で披露していたあのおとぎ話も、何か元になった出来事というか、事象があるんですか」
「薔薇色の目の猫の話ですか」
ステイシーは肩をすくめて、白い息を吐いた。
「残念ながら、私は知りません。ただあの物語の原形を語ったのは人ではなく、猫たち自身でした」
「猫が?」
エリオットは思わず聞き返した。
「正確に言えば、
「魔力猫って。あの、使い魔の?」
魔力猫とは、人語を解し、その身に魔力を宿す猫の種族のことだ。それ故、魔法使いの使い魔として重宝されている。寿命も通常の猫よりもはるかに長いだけでなく、命も九つあり、例え死しても八度目までは生き返るなどという信じられないような言い伝えまであった。
「魔力猫なんて、話に聞いたことがあるだけで、僕は見たことないです。あなたは、その魔力猫と会い、しかも話をしたということですか」
「ええ、そうです。そして、彼らの物語を聞かせてもらいました」
その対価として、彼女は魔力猫に報酬を支払ったのだろうか、とエリオットは考えた。しかし、魔力猫がお金を必要とするとはあまり考えられなかった。
「そういえば、あの話の結末は、どうなったんですか」
何を報酬として支払ったのかを聞くのは野暮な気がしたので、エリオットは別のことを尋ねた。
村では、山の異常を知らせる鐘のせいで物語の結末を聞くことができなかったのだからちょうど良い。
エリオットは、幾分期待してステイシーの横顔を見た。
「それっきり」
「え」
ステイシーの言葉に。エリオットは目を見開いた。
「目を閉じた猫は二度と姿を現さず、やがて残った方の薔薇色の目をした猫も、世界中の猫へ美しい目を与えるための旅に出て、以後その姿を見たものはいない。けれど、私たちの世界では、どの猫もその目に美しい色を宿しているから、薔薇色の目をした猫は旅の目的を果たしたのでしょうね」
「不思議な話、ですね」
「そうですね。けれど、往々にしてあるものですよ。古い伝承には。以後、その者の姿を見た者はいない、と」
不意にステイシーが立ち止まった。エリオットも立ち止まる。前方を見れば、狼もその足を止めていた。
エリオットとステイシーは、木々の生えていない開けた空間の手前で立ち止まっていた。その不自然に開けた空間には、奇妙な形の氷がそこかしこで屹立したいた。
「これは一体」
ステイシーが、すぐ近くにあった比較的大きな氷へ顔を近づけた。
「氷の中に、何かが閉じ込められています」
エリオットもステイシーの隣に立ち、氷を観察した。氷は、透き通った青色をしていた。村の氷室にある白い半透明の氷とは違う。
「中にあるのは」
ステイシーは、目を細めた。
「炎?」
ステイシーは後ろへ体を退くと、そこかしこにある氷を見渡した。
奇妙な形の氷は、大小様々だが、形はある一定の輪郭を描いている。上へ向かうにつれて細く鋭くなってゆく突起が数本。それは、確かに炎に似ていた。いや、炎の周囲に氷が形成されている。青い氷の中には、鈍く光る赤い色が宿っている。
「炎を凍らせるなんて、不可能です。ですが、その不可能は可能となって。私たちの前にある。このようなことができるのは、神か悪魔か...」
「どちらでもありません」
エリオットは、勢いよくステイシーの言葉を遮っていた。
「彼女は、神や悪魔なんかじゃない」
「エリオットさん?」
ステイシーが、訝しげな目を向けてくるのがわかった。
「彼女とは誰です」
「彼女は」
サクサクと雪を踏み分けて、先ほどの大きな狼が近寄ってきた。気がつけば、その狼だけではない。何頭もの狼が、エリオットとステイシーの周囲に集まってきていた。
「彼女は、彼らの主人だった」
虎落狼の群れに囲まれたというのに、エリオットは不思議と恐怖を感じなかった。それどころか、懐かしささえこみ上げてくる。それは、彼女の存在を感じているからだ。しかしそれは、懐かしいと同時に背を向けたくなるような罪悪感と自己嫌悪を抱かせるものでもあった。
エリオットは震える唇で言葉を紡ぐ。
「あの日。森が燃えた日。彼女は一人で森の奥へ向かった。火を止めるのだと言って。それっきり、僕は彼女の姿を見ていない。いや、怖くて確かめに行くことができなかった。けれど、彼女はここに、いたんだ」
「その彼女は、人間ですか」
ステイシーの問いかけに、エリオットは首を横に振った。
「違います。彼女は自分のことをこう言っていました」
雪原のように白い髪を、今でもありありと呼び起こすことができた。エリオットは手袋を履いた手を、その髪に触れるかのように前へ伸ばした。
「最後の、氷雪の乙女と」
彼女の微笑んだ顔の幻が、氷の表面に映り込んで消えた。
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