第5話 人を誘う獣と恐れを知らぬ人間

 森で大きな肉食獣と遭遇した時の処し方は一つだ。決して背中を見せず、走らず。ゆっくり後退して距離をとる。


 エリオットは、隣のステイシーへ「落ち着いて、ゆっくり後ろへ」と声を抑えて伝えた。ステイシーは黙って頷くと、ゆっくり後ろへ下がり始めた。エリオットもそれに倣う。


 狼の方は、襲う素振りは見せずに足を止めたまま二人のことを観察しているようだった。だが、獣は次の瞬間どんな行動をとるか分からない。いつ彼らの警戒心や敵愾心を刺激してしまうのか、野生の獣とは程遠い生活を送る人間には想像しがたい。今はとにかく、最も彼らを刺激しないと考えられている行動をとるしかない。


 エリオットが、後ろに向かって五歩目になる足を伸ばした時だ。隣で、「ひゃっ」という短い悲鳴と、ドサリと地面へ尻餅をつく音が聞こえた。思わず狼から視線を外してステイシーの方を見れば、彼女は着込みすぎた防寒服に難儀し、すぐに立ち上がれそうにない。


 大きな動きを見せたステイシーに、狼がにわかに体勢を低くしたのをエリオットは視界の端で捉えていた。しかし、狼はステイシーに襲いかかろうとはしなかった。体勢を低くしたのは、いきなりずっこけたステイシーに驚いただけのようだ。状況がわかると、元の姿勢に戻った。それから、ゆったりした動きで尾のある方をこちらへ向けた。 雪の結晶をまぶした太く長い尾を揺らして、自分の足跡のついた道を辿り始める。


 エリオットはホッとして、白い息を吐いた。ようやく立ち上がったステイシーも、安心した様子でお尻についた雪を両手でハタハタと落としている。


 しかしエリオットは、狼の後ろ姿を見やって、ぎょっと身をこわばらせた。そのまま去って行くかに見えた狼は、立ち止まって顔だけこちらに向けている。それからまた森の奥へ歩き出してすぐに立ち止まり、こちらを振り返る。まるで、ついて来いと言っているようだ。


「あの狼さん。私たちを呼んでいるみたいですね」


 ステイシーも、狼の動作にエリオットと同じ考えを抱いたらしい。そして森の奥へ向かって歩き出したので、エリオットは仰天してステイシーの肩を掴んで引き寄せた。


「正気ですか!」


「はい?」


 ステイシーはエリオットがなぜ焦っているのか分からない様子で首を傾げた。


「まるでついて来いと言われているようだからって、本当に狼についていく人なんていますか」


「ここにおりますけど」


 はあ、とエリオットは右手で顔を覆う。


「危険すぎますよ。もう帰りましょう」


「しかし、物語の定石ではこれが正解の道です。人を誘う獣の後を追えば、その先には……」


「あなたは物語の読みすぎです」


「なっ」


 狼の居る方を差した彼女の指先は、エリオットの言葉に怯んだように引っ込められた。引き止めようと手を置いていた彼女の肩が、フルフルと震えている。


「今、私を馬鹿にしましたね。空想の世界で遊び呆けていると」


「そこまで言ってませんけど」


 エリオットは肩から手を離して、丸腰であることを示すように両手を掲げる。 


 ステイシーの顔は、羞恥と怒りからほんのり赤くなっている。そして、拗ねた子供のようにムスッとした表情は、これまでの彼女が見せたこともないものだった。


 しかし、彼女も冷静さを取り戻してきたのか、急に気後れした様子で「狼の後を追いかけるのは、いささか早計に過ぎました」と小さな声でエリオットの意見を認めた。


「我々人間は、動物の特別な行動を、人間の感情や思考を当てはめて捉えてしまいがちです。私もその例に洩れず、さらに物語性を期待してしまった。愚かなことです」


 このまま村へ帰ってくれそうだと、エリオットは胸をなでおろした。しかし、そう思ったのは「いささか早計」だったらしい。


「しかし」


 ステイシーは演説する人のように胸を張ると、言葉を続けた。


「私はまだ、森で何が起こっているのかを突き止めてはいません。自然の摂理から外れたことが起こっている原因を、究明してはいない」


「それは僕らの仕事じゃないでしょう。ステイシーさんは語り部、僕は村の労働力であるただの青年。森で起こっている残留火災の真相を解き明かすなんてことは、もっと専門的な人たちに任せておけばいいんです」


「その専門的な人たちはどこにいるのですか」


「え、いや、村にはいないです。もっと街の方へ行かないと」


 ステイシーは荒々しく鼻息を立てると、


「では目下、この状況を解明する人、いえ、しようとしている人は私だけということですね」と告げた。


「ですから、そんなことあなたも僕もする必要なんてないんですよ」


「する必要がないから行かなくていい、というのは私を引き止める理由にはなりません」


 ステイシーは剣呑な目つきでエリオットを見上げてきた。


「私は最初から一人で森へ行こうとしていました。そんな私が心配だからと、あなたは一緒にきてくださった。森を恐れているようだったのに、そうしてくれた。それには感謝しています。しかし、危険だからと私を引き止めるのはやめてください。私は子供ではありませんし、危険があることは重々承知しています。自分の行いの責任は自分で取れますし、あなたが代わりに責任を感じる必要もありません。ですから、止めないでください。私は一人で、森の奥で何が起こっているのかを調査してきます」


 それでは、と言って、ステイシーは今度こそ森の奥へ、狼の居る方へ向かって歩き出した。


 エリオットは自分でも大げさだと思いながらも、絶望的な気持ちでステイシーの背中を目で追った。


 彼女はどうして危険に身を晒しながら、こんな見ず知らずの土地で起こっている現象を解き明かしたいと思うのか、全く意味がわからない。好奇心が異様に強いのか、それとも、語り部という職業が成せることなのだろうか。何が起こっているのか、何が起こったのか、それを見届け語り継ぐというその行いが、彼女を駆り立てているのか。


「俺には、無理だ。見届けるなんて、到底出来ない」


 エリオットは、一人つぶやいた。


「臆病者の俺には、とても」


 彼女を引き止めるように、足を一歩前へ踏み出して、手を伸ばす。


 目の前にいるステイシーと、あの日の彼女の背中が重なる。


「私を止めるなよ」


 そう言って消えていった彼女の背中。自分は彼女の言う通り、止めなかった。いや、止めようとしたけれど、結局彼女に言い負かされて諦めたのだ。そしてそのあと、彼女がどうなったのか、怖くて見に行こうともしなかった。


 今回もそうなるんだろうか。もしもステイシーが帰ってこなかったら、見ないふりをして、村に閉じこもるのか。


 彼女とは違う。ステイシーは、まだ手の届く場所にいる。


「待って、ください」


 エリオットはステイシーの背中へ追いすがり、彼女の肩を強引に掴んだ。ステイシーはまた止められると思ったのか、ムッとした表情でこちらを睨んできた。


 エリオットは、妙齢の女性の体に自分が何度も触れていることに思い至り、慌てて手をどける。


「止めませんから、僕も行きます」


 鬱陶しいほど、自分の口からこぼれる息が白かった。


「責任を感じる必要がないからって、あなたの身を案じなくていい、ついてこなくていい、というのは、理由になりませんからね」


 

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