第7話
◎イタリア王国の参戦
1915年5月23日イタリア王国はオーストリアに宣戦布告した。
1月よりドイツはオーストリアに要請しトレンティーノなどの割譲に同意しイタリアを少なくとも中立に押さえ込もうとしたが、イタリアの三国同盟解消に伴い提案は段階的にグレードアップし、トレンティーノの他にイゾンツォ川沿岸の割譲やアルバニア公国の自由行動権などが提案された。
一方イタリアは4月26日にロンドン協定を協商国と結び、対独宣戦布告の代償に未回収のイタリアの獲得を約束された。
当時議会でも国民も参戦派は主流派でなかったが主戦派の方がはるかに活動的でありファシズムの先駆者ダンヌンツィオはローマにて戦争賛成のデモやイベントを行い、イタリア社会党員のベニート・ムッソリーニは参戦派の立場を14年10月頃から明らかにしており、恐らくフランスの資金提供を受け、連合国側での参戦を支持していた。それによりベニート・ムッソリーニは社会党から除名処分を受けることとなる。
イタリアの参戦により、オーストリアは3正面戦争となる(ロシア・セルビア・イタリア)。
兵力の欠乏によりオーストリア軍は緒戦において3万人程の民兵その他に防衛を依存しており彼我の戦力差2倍の第一次イゾンツォの戦いを迎える。オーストリア軍が戦術的優位な場所を抑えたことやイタリア軍の支援砲撃不足によりオーストリアは被害を最小に抑えることに成功。15年中に4度行われたイゾンツォの戦いは全てオーストリア軍は防衛に成功している。
◎アルメニア人虐殺
オスマン帝国政府の青年トルコ人政権は国内のキリスト教徒であるアルメニア人虐殺を開始した。最終的に100万人が虐殺されたこの事件でドイツ政府は在オスマン大使は非難声明を求めたがホルヴェーク宰相により戦争中に同盟国との対立は前代未聞である。我々に必要なのはアルメニア人の生命より戦争終結までオスマン帝国を同盟国で居させ続けることであると退けられた。
◎ブルガリア王国の参戦
ブルガリア王国は当初厳正中立を表明していたが、中央同盟国及び連合国から各々の陣営に迎えようと交渉の席がもちかけられていた。
ただし、これは中央同盟国側が優位であった。何故なら中央同盟国側は連合国及び連合国側での参戦を行うと思われるセルビア・ルーマニア・ギリシャから領土獲得を確約すればよかったからである。
ブルガリア王国正式に参戦後オーストリア軍及びマッケンゼン将軍率いる部隊に、ブルガリア王国軍により圧倒的な数的劣勢に陥ったセルビア王国はベオグラード陥落後11月9日にニシュが陥落した時点で開戦時36万居たセルビア軍は15万まで減衰しアルバニアやモンテネグロの山岳地帯に撤退した。
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