第6話
◎その後の東部戦線1915年
ロシア軍の大包囲を狙い南北から挟撃を狙うもマルヌ会戦の惨状をみて野心的過ぎると修正されたブク攻勢及びそれのすぐ後に行われたナレフ攻勢によってロシア軍をポーランド、リトアニア、クールラントから撤退させる事に成功、1600㎞にわたる前線を1000㎞に縮小させた。9月までに中央同盟国はワルシャワ、ブレスト=リトフスク、ヴィリニュス等を掌握。
ドイツ帝国軍とオーストリア=ハンガリー帝国軍はそれぞれミンスクとリウネを占領しようとそれぞれ行動するが失敗、先の9月の大撤退以降も数的優位をロシア軍は確保した為に戦力を西部戦線に供出する計画は破綻した。
◎ガリポリの戦い
後の英国首相ウィンストン・チャーチルが計画した英仏軍によるオスマン帝国本渡侵攻計画である。
2月19日、首都イスタンブールを脅かしオスマン帝国を戦争から脱落させロシア帝国の黒海経由での補給路回復の為にダーダネルス作戦が開始された。
25日、ロベック率いる艦隊が突破しようと攻撃を開始したが、戦艦3隻を喪失その他にも被害を出し上陸部隊の遅れもあり撤退した。
連合軍は4月25日、上陸を開始した。
欧州列強に敗戦を重ねヨーロッパの病人と呼ばれていたオスマン帝国はドイツのフォン・ザンデルス将軍を軍事顧問とする第5軍団が上陸地点を防衛、堅固な陣地を構築し待ち構えていたオスマン帝国軍は連合軍の上陸地点5箇所の内2カ所を撃退し3箇所の占領に留めた。
オーストラリア=ニュージーランド義勇軍、通称ANZAC軍団は名もない入江に上陸を敢行、ムスタファ・ケマル大佐率いる第19師団の猛攻を受けつつも橋頭堡の確保に成功。
両国では現在もアンザック・デーとして祝日となっている。
その後5月から七月にかけて両国は戦況打開の為に手を尽くすも大きく動く事は無かった。5月にはオスマン帝国海軍の駆逐艦とドイツ海軍のU-21により前弩級戦艦3隻が沈没。
戦艦6隻喪失に3隻大破の被害を許容できなくなった海軍は戦線を離脱。
新たに英国は新鋭2個師団をアンザック岬から揚陸させるも望みの綱となる8月大攻勢は失敗。
10月に撤退に反対するハミルトン将軍を解任しサー・チャールズ・モンロー将軍を司令官に任命し更にこの月中立国であったブルガリア王国が中央同盟側で参戦、陸続きとなったことで上陸部隊と艦隊はドイツの超大型砲の攻撃を受ける危険性も出て来たことで連合軍は1916年1月9日までに総撤退した。
モーズリーの法則を発見したイギリスの物理学者ヘンリー・モーズリーがこの戦いで戦死。以後各国は自国の科学者に戦闘に参加する事を禁止した。
杜撰な計画で失敗した今作戦の責任をとりハーバード・アスキス首相は辞任ロイド・ジョージが就任した。計画立案を担ったウィンストン・チャーチル海軍大臣は失脚した。
オスマン帝国はこの戦いで英仏軍を撤退に追い込んだ事はヨーロッパの病人と呼ばれていた国民を鼓舞中でもムスタファ・ケマルは多くの上陸部隊を撃破した功績により准将に昇進、英雄となりパシャの称号を与えられた。
後のトルコ革命では国土を占領したギリシャ軍を撃破し連合国の干渉を跳ね除けトルコ共和国を建国初代大統領にムスタファ・ケマルは就任、父なるトルコ人を意味するアタテュルクを送られた。
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