第4話

◎タンネンベルクの戦い

ドイツ帝国の予想はロシア帝国軍の展開には六週間は要するとのものであった。

それに反しロシア帝国はそれの半分以下の時間で動員を完了、ドイツ帝国軍第8軍15万人、ロシア帝国軍第1、2軍計41万人による東プロイセンで始まった戦いがタンネンベルクの戦いである。

ロシア帝国はかつて独墺と行ったポーランド分割により国境を接していた。

東プロイセンへの攻撃はロシア帝国がオスマン帝国やオーストリア帝国とも接する以上、限定的なものとならざるを得なかった。

一方、ドイツ帝国はロシア帝国を第一の脅威と考えていた。

シュリーフェンプランはフランスを早急に打倒し全軍を鉄道輸送、ロシア帝国と決戦するものだった。

ロシア帝国軍はレイネンカンプ率いる第一軍6個師団半と5個騎兵師団21万人をケーニヒスベルクの東にサムソノフ率いる第二軍10個師団と3個騎兵師団23万人を南に配置していた。

最初の週はドイツ側の予定通りに進行した。

レイネンカンプ指揮下の第一軍は東プロイセンに侵攻を開始した。その時ドイツ第8軍は根拠地からの移動が半分程度しか進んでおらず、ケーニヒスベルクに第1軍団と第1騎兵師団の一部、第1予備軍団はケーニヒスベルクの東の国境に展開し緒戦ではフランソワ指揮下のシュタルペーネンの戦いで勝利したもののこれはフランソワの独断であったと考えられている。

ドイツ第8軍の司令官マクシミリアン・フォン・プリントヴィッツは当初は防衛計画に従って居たが、ロシア帝国軍の侵攻を受けヴィスワ川を超えて撤退して東プロイセンを完全に開け渡そうとしたが小モルトケによって解任。を司令官に任命し参謀長西部戦線の英雄エーリヒ・ルーデンドルフを任命した。

ヒンデンブルクはその後ワイマール共和制ドイツ大統領になり死後ヒトラーへと権力が委譲される切っ掛けにもなった人物である

ところで2人のロシア軍指揮官は1905年の奉天会戦以来犬猿の仲であった。

サムソノフ騎兵大将とレイネンカンプ騎兵大将は奉天会戦敗走時に奉天駅で殴り合いの喧嘩(敗走時にレイネンカンプは入院していたとの証言もあり真偽は不明)をしており彼らは余程の危機的状況になければ救援に来ないと判断。

2つの部隊は連絡を取り合っておらず、サムソノフの第二軍の兵站が致命的状況にあったのもレンネンカンプは知らなかった。

レイネンカンプはドイツ第8軍に別の面から攻撃を仕掛けるべく再編の為更に進軍を遅くした。

しかし、ロシア帝国軍はその数において依然、圧倒的に優位であり、ケーニヒスベルクは包囲の危機にあった。

プリントヴィッツの参謀であったマックス・ホフマン中佐は両指揮官の怨恨とロシア帝国軍の慣習である次の日の命令は無線で伝えるという所から自信をもって独第一騎兵師団のみをレイネンカンプ側に残し全軍をサムソノフ側に向けた。

ロシア帝国軍第二軍右翼第六軍団はフランソワ率いる独第17軍団及び第1予備軍団と接触、南東まで押し込まれる。

ロシア第一軍団は独第1軍団に重砲を打ち込まれ潰走、しかしロシア帝国軍中央部の戦闘はロシア帝国有利であり、独第20軍団は押し込まれつつあった。

しかしロシア帝国軍が優勢であったのは中央部のみであり危機的状況は極限に達する。両翼が壊滅し中央部の部隊は補給の致命的な不足によりもはやさらなる攻勢は不可能でありサムソノフにできる事は国境まで撤退するのみであった。

ここでサムソノフはレイネンカンプにケーニヒスベルクでは無く南西の支援に向かうように要請した。

しかし、フランソワ率いる独第1軍団はすでにロシア帝国軍の退路で有る南側に展開、北部の独第17軍団は南下し進撃翌日ロシア帝国軍はこれらの部隊と交戦包囲下にある事を悟る。

ロシア第一軍が救援に向かおうとしたときには既に大勢は決しており、独第1騎兵師団が解囲に向かうことを阻む盾となり戦闘終結したときには包囲地点から70キロの地点までしか進撃できなかった。

ロシア第二軍はフロゲナウ近辺の湖沼地帯にて壊滅9万2千人が捕虜となり、7万8千人が死傷、逃亡出来たのは僅か1万人のみであった。

サムソノフは逃走したがニコライ二世に敗北を報告するより拳銃で自決。遺体は1916年に赤十字国際委員会から家族の元へと送られた。

対してドイツ第8軍の損害は15万人の内1万2千人程度でありまさに大勝であると言える。

ヒンデンブルクは「タンネンベルク村の近辺で勝利」と報告しこの戦いは1440年のドイツ騎士団とポーランド・リトアニア大公国が戦ったものに因みゲルマン民族とスラブ民族のナショナリズムを煽るためにタンネンベルクの戦いと称される様になった。

この戦いの際、小モルトケは西部戦線から2個軍団を引き抜いておりこれは皮肉な事にタンネンベルクの戦いに間に合わなかったばかりかその後のマルヌ会戦でフランスを建て直させる事になってしまう


◎オスマン帝国の参戦

ドイツによるオスマン帝国軍事顧問派遣やバグダード鉄道の建設でドイツに接近していたものの当初は武装中立を望んだ。

オスマン帝国はイギリスに戦艦2隻を受注し代金を支払っていたが開戦時イギリスは強制接収し更に政権を掌握する青年トルコ人は列強の何処かに接近しなくては軍事的に維持できない事を知っており最終的に、オスマン=ドイツ同盟及びオーストリア=ハンガリー帝国と同盟したもののこの同盟は内閣内でも賛否両論であった。

ドイツ帝国の地中海艦隊の巡洋戦艦ゲーベンと軽巡洋艦ブレスラウがイギリスの地中海艦隊の追跡を振り切りオスマン帝国首都イスタンブルに逃げ込む。

両艦はそのままオスマン帝国に買い上げられ、黒海沿岸を破壊した。

ダーダネルス海峡を封鎖し国際船舶の航行を禁止、11月に英仏露はオスマン帝国は宣戦布告した。メフメト5世は敵対国に対するジハードを宣告但し呼応したのはアフガニスタンの英国植民地軍の一部部隊のみであった。

ペルシアやシナイ半島は1914年は大した進展はなかった。


◎北欧諸国

北欧諸国は大戦中一貫して中立を維持した北欧のデンマーク、ノルウェー、スウェーデンの3王は会議をマルメで開き、スウェーデンは親独的な雰囲気を持っていたが3国は強固な利害関係が無かった事もあり、伝統的政策に従い中立を採った

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