午前中のお勤めを終え、昼食を取り終わり、自室でくつろいでいた。すると、部屋の扉をノックされ、返事をすると、九十九さんが顔を出した。

「染宮殿。歪屋殿がお呼びです」

 部屋を出て、九十九さんと一緒に大広間へと向かった。

「やあ、来たかい。時、そこに座りなさい」

 響介さんに言われるがまま、僕は響介さんの隣に座った。響介さんと対面している男性に、頭を下げる。響介さんを挟んで反対側に、九十九さんがチョコンと正座をした。

「こちらの方はねえ、古杉(こすぎ)さんとおっしゃってねえ。何やら、相談事があるそうだ」

 相談ですか。と、僕は正面に座っている古杉さんを見た。浅黒い肌をして、筋肉質な体をしている。見るからに、スポーツマンといった感じだ。案の定、古杉さんは、自己紹介時に、大学でラグビーをやっていると言った。

「実は俺・・・『狼男』なんです」

「はあ?」

 思わず、僕は大声を上げてしまい、慌てて口元を押さえた。気まずくて、チラリと隣を見ると、響介さんは眉一つ動かさず、古杉さんを真っすぐに見据えている。九十九さんも微動だにしていない。そうか、これがこの人達の日常なのだ。わざわざ、リアクションを取ることでもないようだ。九十九さんが言っていた歪屋の役目は多岐に渡るとは、このような相談事を持ち込まれることもあるということなのだろう。まさに、人生相談だ。様々な依頼を受けているのだろう。

「今までは、上手く誤魔化して、人間社会に溶け込んできたんですけど・・・もう・・・色々、限界で・・・」

 古杉さんは、泣き出しそうな顔で、拳を握っている。

「そうか。狼男じゃあ、力加減も大変だろうに。それでも、人間に混ざってラグビーをやってきたのは、努力の賜物だろうねえ?」

「それは、どういうことですか?」

 僕は、響介さんの顔を眺めた。響介さんが腕組みをする。

「そもそも、人間と狼男では、身体能力が違うからねえ。全力で走れば、簡単に世界記録を叩きだすだろうからねえ。ボールだって、簡単に破裂させられるし、ぶつかったら人間なんか簡単に吹き飛ぶ」

 へーと僕は、眉を上げて、羨望の眼差しで古杉さんを見た。自分の能力を理解し、人間社会で生き抜く為に、たゆまぬ努力を積んできたのだろう。それにしても目前に座っている古杉さんは、どこをどう見ても普通の人間だ。社会的価値観は、人間との差異が存在するかもしれない。でも、『もののけ』は、得てして人間以上の能力を持っている者が多い。高い能力を所持していると、多分にひけらかしたり、見せつけたりしてしまいがちだ。能力で、マウントを取ることも用意だろう。でも、この古杉さんをはじめ、多くの『もののけ』達は、能力を隠してまでも人間社会に溶け込もうとする。それほどまでに、人間社会は、魅力的なのだろうか? 圧倒的に数で勝る人間に対して、多勢に無勢と考えているのだろうか? 『もののけもの』見習いの僕だけど、やはり人間なので、『もののけ』のそういった機微も学んでいかなければ、ならないのだろう。やはり、人間の僕には、『もののけ』の価値観は、分からないのだから。

「ふむ。人間とも上手くやっているように、見えるけどねえ? そんな君が僕に相談とは、いったい何事なんだい?」

 僕も響介さんと同じ疑問を持った。見るからに爽やかな好青年だ。友達も多いだろうに、いったい何を悩む必要があるのだろう。女性にもモテそうだし。すると、それまでは、案外堂々としていた古杉さんであったが、急によそよそしく、居心地が悪そうに何度も体勢を変える。座りが悪いように、何度も腰を浮かせ、落ち着きがなくなった。

「じ・・・実は・・・俺、彼女ができたんです」

 古杉さんは、恥ずかしそうに、耳まで真っ赤に染まっていく。

「それは、メデタイじゃないか! もしや、相談って恋の相談かい? 申し訳ないが、それは管轄外だ」

 あっさりと、切って捨てる響介さんに、あからさまに古杉さんは、落ちこんでいるように見えた。

「そ、そうじゃないんです! いや、そうなのかもしれないんですけど」

 古杉さんの体が、みるみる小さくなっていくようだ。確かに、恋の相談は、受けつけられないだろう。しかし、古杉さんは、相当思い悩んでいるらしく、苦しそうな顔を浮かべ、俯いてしまった。

「歪屋殿? 聞くだけ聞いて差し上げては、いかがですか? 解決できないまでも話して気持ちが落ち着くこともございますし」

 九十九さんがフォローを入れ、響介さんは、あからさまに『面倒臭い』といった顔で、溜息をついた。古杉さんが俯いていて、良かった。我が主ながら、本当に生臭坊主だ。僕は、ジットリと湿気をたっぷり含んだ目で、響介さんを見つめた。僕と九十九さんに見つめられている響介さんは、鬱陶しそうに、愛用の煙管に火を落とした。存分に溜息を含んだ煙を吐く。どうやら、諦めたようだ。

「分かったよう。古杉君、話を聞こうじゃないか。色恋沙汰は、僕の専門外なんでねえ。力になれないと思うけどねえ」

「はい! ありがとうございます!」

 パッと顔を上げた古杉さんは、真剣な眼差しで響介さんを見つめていた。そして、僕と九十九さんにそれぞれ視線を向けると、ポツリポツリと話をしてくれた。

 古杉さんは、二十歳の大学二年生で、これまで人間社会に上手く溶け込み、順調に生活をしてきていた。友人にも恵まれ、大好きなスポーツに汗を流してきた。しかし、これまで、交際はおろか、恋愛はしてこなかった。告白は、何度かされたが、丁重にお断りをしてきた。

 話を途中で遮ってしまい大変申し訳なかったのだが、とある疑問を響介さんに、投げかけた。

「ああ、それは、問題ないねえ。僕や御三家は、警察とも太いパイプを持っているから、何とでもなるんだよねえ。面談して、人間社会に適応できると判断したら、『御三家預かり』という名目で、住民票の取得は容易にできる。だから、賃貸マンションも借りられるし、学校にも行ける。勿論、婚姻もね。でも、なかなか人間との婚姻に踏み切る『もののけ』は、少ないねえ。いないとは、言わないけれどねえ」

 響介さんは、僕を見ながら説明してくれ、視線を古杉さんに戻し、手の平を差し出して、話の続きを促した。僕は、古杉さんに顎を引いた。

 風雲急を告げる出来事が起こったのは、数か月前。もののけに追われていた女性を助けたことが、全ての始まりだった。そう、恋の始まりだ。その後、彼女とは、頻繁に会うようになり、他愛のない会話を続けている内に、交際に発展した。古杉さんにとって、まさに初恋であり、初交際であった。そして、日に日に幸せで充実感に満ちた時間を過ごすようになった。と、同時に、不安感が増していった。

「俺、いつか・・・彼女を傷つけてしまうんじゃないかって・・・」

 古杉さんは、尻つぼみで語り、俯いてしまった。僕は、交際の経験は、ないのだけれど、それは当然のことではないかと、首を傾げた。女性との交際に限らず、人間関係では、知らず知らず人を傷つけてしまうことはある。古杉さんは、彼女のことが好き過ぎて、彼女との接し方に憶病になっているだけではと感じた。すると、古杉さんは、小さく首を左右に振った。

「そうじゃないんです。もっと、物理的な問題です。俺は、極端に力が強いんです。手を握る時だって、全神経を集中させています。少し力を込めたら、彼女の華奢な手なんか、簡単に潰してしまう。もし、俺の頭が欲望に支配されたら、彼女の体は・・・理性を失ってしまうのが、怖いんです。でも、彼女に触れたいという欲望が膨らんできていて・・・」

「ちなみに、その彼女は、人間なのかい?」

「いいえ、『もののけ』です」

「それならば、ある程度の理解は、あると思うけれどねえ。彼女は、君の狼の姿は、見たことがあるのかい?」

 響介さんの問いに、古杉さんは、フルフルと横に首を振った。

「見せれば、良いじゃないか?」

「簡単に言わないで下さい!」

 古杉さんは、突然大声を出し、立ち上がった。僕は驚いて、体をのけ反らしてしまったが、響介さんは微動だにしていなかった。

「あんな毛むくじゃらで! 無駄にでかくて! 牙や爪なんか、刃物そのものなんだ! ただの化け物だ! あんな醜い姿、彼女に見せられる訳がないんだ!」 

 古杉さんは、一しきり叫び終えると、萎れるように座布団に腰を下ろした。涙声が混じっていたのは、聞かなかったフリをする。古杉さんの彼女への切実な想いが溢れていた。好かれたいというよりも、嫌われたくないという想いが強いのだろう。僕なんかが、かけられる言葉がない。『もののけもの』としても人間としても半人前以下の僕が、言える言葉なんかない。僕は、チラリと響介さんを見た。僕が、解決できる案件なんか、あるはずもないのに、僕をこの場に呼んだのは、経験値を上げさせる為だ。『経験し、考えて、学びなさい』と、言われているような気がした。僕は、無言で小さく頷いた。

「君は、自在に変化できるのかい?」

「あ、はい。最初は、苦労しましたけど、今ではある程度コントロールができて・・・でも・・・」

「でも?」

 声を出してしまった僕を一瞥して、古杉さんは、唇を噛み締め黙り込んでしまった。大広間に、しばらく沈黙が流れた。古杉さんは、顔を上げ俯き、口を開け閉じを繰り返している。すると、意を決した顔を上げた古杉さんが、額の汗を拭った。

「俺・・・性的に興奮すると、変身してしまうんです。その時だけは、制御がきかなくて」

「なんとまあ、そりゃ困ったねえ」

 古杉さんの決意に満ちた表情と、響介さんの湿気った声のアンバランスさに、違和感しかない。古杉さんもよく怒らないものだ。真剣に話したら、真剣に聞いて欲しいと思うのが、道理のはずなのだが。響介さんのこの人を食ったような態度に、古杉さんも慣れてしまったのだろう。

「性的興奮とは、具体的にどんな感じなんだい?」

「え? どんなとは?」

「端的に言うと、ボーダーラインだねえ。例えば、キスならとか、ハグまでならとか、身体的接触は、どこまでいけるんだい? データを取って、訓練はしていないのかい?」

「そ、そんな事・・・手をつないだのだって、彼女が初めてだし・・・」

「なるほど、じゃあ君は、孤独遊戯で、自分の体質を知った訳だね? つまり身体的接触どころか、視覚情報でも変化してしまうという訳だね?」

 響介さんの問いに、古杉さんは、ポカンと口を半開きにしている。

「こ、孤独遊戯?」

「ああ、伝わらなかったかい? 一応、オブラートに包んで聞いてみたんだけどねえ? 簡単に言うと、オナ・・・」

「歪屋殿。そのくだりは必要ありませんよ」

 九十九さんに止められた響介さんは、歯を見せて笑っている表情で静止している。

「まったく、九十九君も堅いねえ。男しかいないんだから、別に良いじゃないか。下ネタは、場の空気を和らげる作用があることを知らないのかねえ?」

 響介さんは、僕の方へ身を寄せ、耳元で内緒話をする。僕は苦笑いで答えたが、九十九君『も』の『も』が気になった。その『も』は、僕のことも含んでいるのだろう。

 この軽薄な人のことは横に置いておいて、目の前で藁にも縋る思いで・・・断腸の思いで座っている古杉さんのことを考えなくては。自分の容姿にコンプレックスを持っている狼男。人間よりも優れた能力であるのは確かだけれど、そのことで苦しんでいる。恋人がピンチの時に、颯爽と駆け付け助けることはできるが、優しく触れることができない。少しでも力の加減を誤ってしまえば、守るべき体を簡単に壊してしまうから。

 古杉さんは、このジレンマにもがいている。今にも溺れてしまいそうになっている。そして、僕も一応男だから、古杉さんの気持ちは良く分かる。好きな人に、触れたいと思う気持ち。勿論、性的な感情がない訳ではない。そんなのは、当たり前だ。でも、それは、当然のことで、恥ずべきことではない。

 好きな女性と、肉体的な関係を持ちたいというのは、至極まっとうな精神だ。細胞レベルで備わっている機能だ。

 触れたいけど、触れられない。自分のことを知って欲しいけど、知られたくない。失うのが怖い。嫌われるのが、怖い。傷つけ、傷つくのが怖い。その気持ちが痛いほど伝わってきて、古杉さんの悲痛な叫びを、悲痛の面持ちを見ていられない。

 何か解決方法は、ないのだろうか?

「あの、古杉さん。本当の姿と言って良いのか分かりませんが、狼の姿を彼女さんに見せられないのは、分かりましたが・・・悩みを打ち明ける気持ちは、あるんですか? 古杉さんが、思い悩んでいることに彼女さんは、気が付いていないのですか?」

 僕が古杉さんに視線を送ると、彼は真剣な眼差しを返してきた。どこかの誰かのせいで、話が脱線しかけていたので、正規ルートに戻ったようだ。

「実は、彼女に打ち明けたんです。僕の悩みを・・・勿論、性的な興奮で、変化してしまうことは、言ってないですけど・・・この風貌のコンプレックスを告白しました」

「ほうほう、それならば、問題解決したんじゃないのかい? 別に別れた訳では、ないのだろう?」

 響介さんが、上半身を前のめりにして、顎を撫でる。すると、古杉さんは、顎に力を入れて、大きく頷いた。

「だから、ここに来たんです」

「ん? どういう訳だい?」

 響介さんが片眉を上げると、古杉さんは座ったまま尻を引きずるようにして響介さんに接近した。響介さんは、首を傾げている。

「俺は彼女に、自分のコンプレックスを話しました。彼女は焦って克服する必要はないって言ってくれたんですが、それでも俺は、やっぱり焦っていて、出来る事なら、今すぐにでもなんとかしたい」

 古杉さんは、大きく息をついた。

「すると、彼女がある噂を教えてくれたんです」

「噂ですか?」

 僕が尋ねると、古杉さんが僕を見て頷いた。

「玄常寺に行けば何とかなるかもしれない。玄常寺には、『もののけ』の能力を奪ったり、与えたりできる秘術があると聞いたことがるって」

「え? そんな噂があるんですか?」

 僕は、目を大きく見開いて、響介さんを見た。

「アハハハ! そんな噂話初耳だねえ? そんな秘術があるのなら、お目にかかりたいねえ! 九十九君は、聞いたことあったかい?」

 響介さんが、腹を抱えて笑っており、隣では九十九さんが、黒光りする仮面を左右に振っていた。

「そんな根も葉もない噂話を信じたのかい? 残念ながら、その噂話は、完全にデマだよ。噂の発信源はどこだか聞いたかい?」

「い、いえ。彼女も噂としか、言ってなかったんで」

 すっかり、意気消沈してしまった古杉さんが、肩を落として俯いた。

 逃げ出したくなるほどの居た堪れない空気に侵食された大広間内に、痛々しい沈黙が流れている。沈黙の中に、カリカリという音が微かに聞こえてきた。音の発生源を確認していると、古杉さんが畳を指で引っ掻いていた。藁にも縋る思いで、この玄常寺にやってきたけれど、やはり掴んだ物はただの藁で、そのままブクブクと沈んでしまった。悲痛で歪んだ古杉さんの顔を直視できない。僕は響介さんを見た。

「やっぱり、何もできないんですか? 何とか、お力になってあげられないものですか?」

「うーん、難しいねえ。別に意地悪で言ってる訳ではないよ。世の中には、原理原則というものがあるからねえ。それには、抗えないよ。能力を奪ったり与えたりするのは、神の領域だ。僕達は、所詮人間だからねえ! できることなんか、たかがしれている。皆が皆、微細な世界で折り合いを付けながら、生きているんだよねえ」

 響介さんは、腕組みをして溜息にも似た溜息を吐いた。

「例えばなんだけれど、古杉君?」

「・・・なんでしょうか?」

「君は、狼に変化した時に、全身の毛を剃ったり、牙を削ったり、爪を切ったりしたことは、あるかい?」

「え? あ、はい。試したことは、勿論あります。でも、人型に戻って、もう一度狼になると、元に戻っているんです」

「なるほどねえ。努力済みという訳か」

 右手を脇から引き抜いた響介さんは、顎髭を撫でた。またしても重苦しい空気が両肩に圧し掛かる。何か、良い手はないものだろうか?

 すると、突然、沈黙を破る音が鳴り響き、僕の両肩は反射的に持ち上がった。襖が開き、人が入ってきた。人では、ないけれど。

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