第二章 口が裂けても伝えぬ乙女心

―――わたし・・・きれい?

 ポツリポツリと、雨が頭に当たった。少年は、手の平を上に向け、黒く染まる空を見上げた。傘は持っていないけれど、この程度なら問題ないだろう。そう判断した少年は、焦ることも慌てることもなく、平然と夜道を歩き出した。建物もまばらで、閑散とした道路だ。街灯も少なく、点在する家々に灯っている明かりが、気休め程度に足元を照らしている。溝にはまらなければ、それでいいか、と少年は気怠そうにトボトボと夜道を進む。すると、三つ先の遠く離れた街灯の下に、人が立っていることに気が付いた。こんな暗い夜道で、しかも雨が降ってきているにも関わらず、その人物は傘もささずに佇んでいる。

 少年が近づくにつれ、その人物の姿が露わになっていった。全身真っ白い服を着ていて、両手を体の後ろで組んでいる。まるで、誰かを待っているようであった。はっきりとは分からないけど、髪の長さと体格から、女性だと思った。少年は、更に近づく。そして、すれ違いざまにチラリと視線を向けた。立ち尽くしている人物は、俯いていて、髪の毛が雨で濡れて、顔に張り付いている。しかも、大きなマスクをしているから、顔が見えなかった。

 関わり合う気が更々なかった少年は、視線を前方に戻し、少し歩調を速めた。

「・・・ねえ?」

 女性の声が、背後から聞こえた。やはり、女性であった。突然、呼び止められ、少年は億劫そうに顔をしかめて振り返った。

「何ですか?」

「わたし・・・きれい?」

 呟くように、女性はか細い声を漏らした。しばらく、茫然と女性の姿を眺めていた少年は、面倒臭そうに鼻から息を吐いた。

「まあ、きれいなんじゃないっすかね?」

 少年には、俯いている女性の顔が見えなかったので、適当に答えた。すると、女性が微かに笑った気がした。マスクをしていたから、明確には分からなかったけれど、そんな雰囲気を感じた。女性は、ゆっくりと、左手を前に出して、雨で張り付いた髪を、左耳に掛けた。そして、左耳に掛かっているマスクの紐を外して、マスクを取った。

「これでも! きれい!?」

 声色が豹変し、怒りに満ちた女性の怒声が響く。マスクが濡れた道路に落ちて、くたびれていく。女性の顔が露わになった。

―――女性の口が耳元まで裂けていた。

 女性は、大きな口を広げて、右手に持っていたナイフを振りかぶった。

「ああ、まあ、きれいなんじゃないっすかね? わりと」

 少年は、眉一つ動かさず、小指を耳の穴に入れながら、平然と言う。女性の動きがピタリと止まった。女性は、自分の耳を疑い、目をぱちくりさせている。

「ば、馬鹿にしてるの? こんなに口が裂けている顔が綺麗な訳ないじゃない? もっと、驚きなさいよ! 悲鳴を上げなさいよ! 恐怖で顔を引きつらせなさいよ!」

 大声をまき散らした後、女性は荒々しく呼吸を繰り返す。

「は? 何? 俺をビビらせたかったのか? 綺麗かどうか聞かれたから、答えたんじゃねえかよ? 面倒くせえ!」

 少年は苛立ちを露わにして、眉根を寄せた。少年の威圧感に、女性は後退りをした。そして、体の前で手を組んで、モジモジし始めた。

「え? じゃ、じゃあ、綺麗って言ってくれたのは、本当なの?」

 女性は、様子を伺うように、上目遣いで少年を見つめた。

「だから、そうだって。あ、でも、突然、ナイフで人を切りつけようとする腐った根性の奴の心は、醜いんだろうなあ?」

 少年の言葉に、女性は反射的にナイフを投げ捨てた。

「え? 何? やらないの? 売られた喧嘩は、買うぜ? ちなみに、俺超強いから、覚悟しろよ?」

 少年はニヤリと笑みを浮かべ、女性に歩み寄る。女性は、慌てて体の前で手を振った。

「違う! 違うの! やらない! 喧嘩なんかしない! ごめんなさい! 本当に、ごめんなさい! 許して!」

 完全に戦意喪失している女性は、ただひたすらに許しを請う。

「あ? そうなの? つまんねえな。ま、いいか。じゃあ、気を付けて帰れよ? この辺、物騒らしいからな。ナイフを持った女が出るらしいぜ?」

「い、意地悪言わないでよお」

 女性は泣き出しそうな顔で、何度も頭を下げる。少年は、ケラケラと笑いながら、女性に背を向けて歩き出した。

「じゃあな、風邪ひくなよ。『綺麗なお姉さん』」

 少年は、肩口で手をヒラヒラと振り、暗い夜道を進んでいく。気が付けば雨の粒が大きくなっていた。意味不明な足止めをくらい、無視していれば、無駄に濡れずに済んだのに、と後悔の念が生まれていた。今更、走ったとしても結果は変わらないので、諦めてのんびり歩くことにした。少年は、しばらく歩いた所で、突然立ち止まった。そして、大きく溜息を吐く。

「何だよ? 着いてくんじゃねえよ? お前はストーカーかよ?」

 勢い良く少年が振り返ると、先ほどの女性が驚いた表情を浮かべていた。

「ス、ストーカーなんかじゃないわ! ただ、貴方のことが気になって、追いかけてきただけなの!」

「それをストーカーと人は呼ぶぞ?」

 あからさまに狼狽えている女性に、少年はかける言葉が見当たらない。すると、女性は髪を手櫛でといで、身なりを整えた。体の前で両手を合わせ、背筋を伸ばし、深々とお辞儀をした。

「私は、匙祈子と言います。貴方のお名前を教えて下さい」

「・・・嫌だ」

「え? ど、どうして? 名前教えてよお!」

「嫌だ。個人情報だ。さっさと、帰れ」

 少年は、プイッと顔を背け、スタスタと離れていく。

「待って! ちょっと! 待ってよお! 置いてかないでよお!」

 それでも、女性は、少年の後をついてくる。次第に、少年の歩調は早まり、走り出すまでに時間は、かからなかった。

「何でついてくんだよ!?」

「待ってよ! 逃げないで! ねえ! 少しお話ししましょ? ねえってばあ!」

 畜生! 少年は、吐き捨てる。全力で逃げているのに、一向に振りきれない。あいつは、陸上選手か何かなのか? 少年は、納得がいかなかった。ムキになって、更に足の回転を速めた。しかし、一定の距離を保ったまま匙祈子は、離れることなくついてくる。

 少年は、とうとう観念したかのように、立ち止まって、ゼイゼイと呼吸をする。膝に手を置いて、体を曲げて、苦しそうに顔を歪める少年。

「あ! お喋りしてくれる気になったの? 嬉しい」

 当たり前のようについてきた匙祈子を少年は恨めしそうに見上げる。そして、諦めたかのように、その場に座り込んだ。懸命に走っていて気が付かなかったけれど、いつの間にか雨は上がり、空には星が輝いていた。

 少年は、面倒臭そうに、乱暴に銀色の髪を掻きむしった。

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