「おお! 間に合ったじゃん! 感心感心!」

 チャイムギリギリで、教室に滑り込んだ僕は、なんとか遅刻は免れた。息も切れ切れで、自分の席にへたり込んだ。頭の上から降ってきた声に、顔を上げると、明方さんが笑っていた。

「お陰様で」

「ところで、さっき、お客さんが来てたよ。『まだ来てません』って言ったら、『じゃあ、また放課後に来ます』だって」

 お客さん? いったい誰だろう? 約束もしていないし、僕を訪ねてくる人の心当たりがまるでない。誰が来たのか、明方さんに尋ねようとした時に、物凄い勢いで顔を急接近させてきた。僕は逃げるように、上体を引く。

「ねえ、ねえ、いつの間に、あんな美人さんと知り合いになったの?」

「は? 美人さん?」

 僕は、首を傾げて、天井を眺めた。やはり、誰一人思い浮かばない。

「二年の藍羽(あいばね)雫(しずく)さんだよ。あれ? 知り合いじゃないの? じゃあ、どうして、ミス桜桃が染宮君を訪ねて来るのよ?」

 まるで尋問のように詰め寄ってく明方さんに、僕は両手を出して、壁を作った。そして、彼女の両肩を掴んで押し返す。

「知らないよ。面識もなければ、話したことすらないんだから。こっちが聞きたいよ。藍羽先輩が一人で来たの?」

「あ! そう言えば、もう一人いたような・・・藍羽先輩の綺麗な顔に釘付けで、覚えてないや」

 ハハハと、明方さんが笑って誤魔化したところで、教室の前方の扉から、担任教師が入室し、明方さんが慌てて自席へと戻って行った。教卓の前に着いた担任教師が、挨拶をしている。

 それにしても、藍羽先輩が僕に何の用事だろう? 接点がまるでないのだけれど。確かに、存在は知っている。そもそも、この学校で知らない生徒は、いないのではないのか。入学早々から、周囲の男子達が、騒ぎ立てていた。アイドルやタレント並み、いやそれ以上に可愛い先輩がいると。色めきだっていた。今でも、先輩を目撃した生徒を中心に騒然とするくらいだ。まさに、明方さんがいうように、ミス桜桃だと皆が口にする。我が校に、ミスコン制度は、ないのだけれど。そんな先輩が、僕に会いに来た? 何の冗談だろう。と、思いながらも心臓は正直で、ドキドキが止まらない。そう言えば、もう一人いたとか・・・その人が少し気の毒だ。

 色々な事を想像してしまい、授業が身に入らない。何か迷惑をかけたのだろうか? まさか、告白とか・・・そんな訳ないか。僕は授業が終わる度に、そわそわして、教室の扉をチラチラと確認してしまう。藍羽先輩が、僕を訪ねてきたという噂は、クラス中に広がっていた為、休憩時間の度にクラスメイト達がからかいに来た。紹介しろと言われても、面識すらない僕ができる訳がない。しかし、結局、藍羽先輩は、現れなかった。冷やかしていたクラスメイト達から、落胆の溜息が漏れている。そして、冷たい視線を浴びせかけられた。いやいや、知らないよ。僕のせいなのか?

 終業のチャイムが鳴って、クラスメイト達が、部活動やら帰宅やら各々散っていく。周囲からの憐みの声を掛けられながら、僕は教室を後にした。廊下を歩き、階段を下り、下駄箱が見えてきた頃に、前方が騒がしいことに気が付いた。視線を向けると、二人の女性が立っている。そのうちの一人を見て、僕の心臓は、無遠慮に飛び跳ねた。藍羽先輩がいた。

 藍羽先輩が僕に気づくと、視線を合わせ、小さくお辞儀をする。やはり、僕を待っていたようだ。藍羽先輩の隣には、見知らぬ女性がいた。

「あなたが、染宮時君ですよね?」

 藍羽先輩の前で立ち止まると、彼女の柔らかい声が、僕の耳に届く。耳障りの良い声だった。

「あ、はい。染宮です。あの、今朝、僕を訪ねてくれたとか」

「ええ、少し相談・・・あの、お時間大丈夫ですか? もし良ければ、場所を変えたいのですが」

 周囲からの好奇な目が耐えられなくなったようで、僕は小さく顎を引いて、彼女達の後をついていく。野次馬からのヤジは、聞こえないふりをした。先行する二人を見ていると、二年生の教室へと入って行った。少し、躊躇ったけど、僕も続いた。二年生の教室には、誰もいなかった。教室の後ろ、ロッカーの前の少し開けた場所で、藍羽先輩は立ち止まった。二年生の教室に入るのは初めてだったけど、一年の教室と代り映えしない。僕が教室を見回していると、藍羽先輩が話した。

「突然、ごめんなさいね。私は、二年の藍羽雫です。こちらが」

「あ、元町(もとまち)陽衣子(ひいこ)と言います。私も二年です。宜しくお願いします」

 藍羽先輩からのバトンを受けた、元町先輩が戸惑いを見せる。この人が、明方さんに忘れられていた人か、とは絶対に言うまい。おとなしそうで、気が弱そうな女性だ。何をお願いされるのだろう?

「あの、染宮君に相談したいことがあって」

 藍羽先輩に視線を戻し、首を傾けた。

「相談?」

「ええ、染宮君の御実家は、お寺さんなんだよね? 玄常寺(げんじょうじ)というお寺さんに出入りしているところを見たって子がいたんだけど?」

「ああ、僕の実家では、ありませんよ。関係者ではありますけど。家の事情で、玄常寺に住み込みで働いているんです。学校もそこから、通ってます」

「そうなんですか・・・」

 気のせいか、落胆したような雰囲気を見せた藍羽先輩は、隣にいる元町先輩と見配せをする。すると、元町先輩は、小さく頷いた。

「あの実は、相談があるのは、陽衣子の方で、私はただの付き添いなんです。彼女の話だけでも聞いてもらえないかな?」

 藍羽先輩が、元町先輩の背中に手を回した。教室に降り注ぐ西日に照らされて、藍羽先輩の腰まで伸びた艶やかな黒髪が、輝いているように見えた。相談相手が、藍羽先輩ではなかったことで、少しガッカリした。だけど、そんな態度を見せる訳にもいかないので、僕はゆっくりと微笑んだ。

「全然、構いませんよ。僕にできることなら、力になりますよ」

 僕の声に、俯いていた元町先輩が、顔を上げる。不安そうに体の前で手を組み、逡巡するように、もじもじしていた。教室内に沈黙が落ちて、グラウンドを使用しているスポーツマンの声が聞こえてきた。僕は黙って、元町さんが、口を開くのを待っている。

「あ、あの・・・変なことを言うみたいですけど・・・」

 ようやく、元町さんが話し始めた。僕は眉を上げて頷く。

「私の家が・・・じゃなかった。私の部屋が変なんです」

「変?」

 変だけでは、さっぱり分からない。頬をかいて、話の続きを待った。

「なんか、変な声が聞こえるんです。うめき声のような、苦しんでいるような。他の部屋からは、何も聞こえないみたいで、両親も何も聞こえないって。私の部屋だけ、聞こえるんです。私だけ、聞こえるんです」

 元町先輩が握っている手に、力がこもっているのが見て取れた。怯えているように話す元町先輩の姿に、不安や恐怖心が滲み出ている。冗談や勘違いでは、なさそうだ。勘違いの線は、まだ否定できないけれど。

「藍羽先輩は、元町先輩の部屋に行ったことは、ありますか?」

「ええ、何度もあるよ。でも、私には・・・」

 藍羽先輩は、申し訳なさそうに、遠慮がちに元町先輩をチラリと見た。目が合った元町先輩が、気まずそうに俯く。

 なるほど、藍羽先輩には、聞こえなかったのか。

「それで、元町先輩は、藍羽先輩に相談したってことですね?」

 僕の問いに、俯いている元町先輩は、小さく頭を左右に振った。

「そうじゃない。私が、陽衣子に尋ねたの。なんだか、最近様子がおかしかったから。日に日に顔色も悪くなっていくし、目の下のクマも濃くなっていくし、やつれていくし・・・心配で心配で」

 藍羽先輩は、元町先輩の背中を優しく撫でている。すると、元町先輩が両手で顔を覆い隠した。とうとう、泣き出してしまったようだ。

「私、怖くて怖くて。両親に言っても『気のせいだとか、勘違いだとか、疲れているんだとか』言われて、まともに取り合ってくれないし・・・私、どうしたらいいか、分からなくて・・・雫ちゃんに相談したら、迷惑かけちゃうんじゃないかって・・・怖くて、私の頭が変になったかもしれないって思って、誰にも言えなくて・・・」

 嗚咽交じりに、絶え絶えに声を振り絞る元町先輩。涙が溢れて止まらないのだろう。顔を覆う両手の甲の部分から、涙が零れ落ちる。元町先輩の必死の訴えに、胸が苦しくなって、もらい泣きしそうになった。僕は顔を背けて、気づかれないように、鼻を啜った。

 僕の能力じゃ力になって上げられないかもしれない。それでも、放っておくことは、できない。なんとかしてあげたい。体に不調をきたすほど、影響が出ているのだから。食事も喉を通らず、怖くて夜も眠れなかったのだろう。

 僕に何ができるんだ? 自問自答を繰り返す。

―――ただ、見ることしかできない僕に。

『もののけもの』の世界に飛び込んで、ただ霊や妖怪を見ることしかできない。僕は所詮お世話係なのだから。でも、現場を調査して、現状を専門家に伝えて、対処してもらうことはできる。僕も少しは、役に立ちたい。

 素人に毛が生えた程度だからと言って、甘えてばかりもいられない。僕にできることを懸命にやろう。

「あの、もし良かったら、僕に元町さんの部屋を見せてもらっても良いですか?」

「た、助けてくれるんですか?」

 勢い良く濡れた顔を上げた元町先輩の瞳に、なんとも頼りない僕の顔が映っている。僕はその勢いに、気圧されたように、軽く後退った。

「僕が助けられるかは、分かりませんが、僕の周りにはそういったことを専門に取り扱うエキスパートが沢山いますから、なんとかなると思いますよ」

 自分で言っていて、情けなくなってきた。結局は、他力本願だ。でも、第一に考えるのは、僕の自尊心ではなく、問題解決だ。引きつりそうになる顔を無理やり笑みに変える。僕は、深呼吸をして、気持ちを落ち着かせた。相談者に不安を与えてはならない。

 今晩、元町家に訪れる約束をして、二人とはその場で別れた。まだ、何も解決していないけれど、背後から元町さんの泣き声が響いて、僕の背中を押した。先ほどまでの不安や恐怖の涙ではない。光が見えたことによる安堵感と胸の内を語ったことで、多少は気持ちが楽になったのだろう。僕はグッと奥歯を噛み締めた。不純な感情が芽生えたので戒めた。

 まさか、藍羽先輩の連絡先をゲットできるとは、思わなかった。今晩の為に、元町先輩と僕のスマホを近づけ、フルフル振っていると、『念の為に、私も』と、藍羽先輩もスマホを近づけてきたのだ。無意識に上がる口角を必死でこらえていた。元町先輩と霊的現象? との問題で、まさかの戦利品を手に入れた。まだ、勝っていないけれど、むしろ戦ってもいない。まさに、漁夫の利だ。僕は、スマホを眺め、ニヤニヤしていることに気が付いて、スマホをポケットに入れ、顔を叩いた。

 元町先輩の切実な願いを前に、僕は何を考えているんだ! 深呼吸を繰り返す。一度、気持ちを落ち着かせよう。

 今夜の日付が変わる頃に、元町家の前で集合する。最も変な声が聞こえるのが、深夜だそうだ。そこから、明け方までの間。そして、いつの間にか、声は聞こえなくなる。一度、勇気を振り絞って、部屋の隅々や窓の外を見たことがあるそうだが、何もなかったみたいだ。両親が在宅しているので、物音を立てずに、元町家内の侵入捜査を行わなければならない。藍羽先輩も何度か元町家に泊まりに行ったことがあるそうだが、一度も不可解な出来事に遭遇していないそうだ。

 今夜の捜索に、藍羽先輩も同行するみたいで、親友のことが心配で、居ても立ってもいられないようだ。友達想いなんだと、感心した。

今夜も藍羽先輩に会える。初めて、間近で彼女を見たけれど、見惚れるとは、まさにこのことだと痛感した。決して、元町先輩が容姿的に不自由している訳ではない。しかしながら、藍羽先輩が圧倒的過ぎるのだ。透き通るような白い肌。艶やかな長い黒髪。くっきりとした大きな瞳。プックリと膨らんだ唇。そして、メロンを二つ入れたような胸の膨らみ。藍羽先輩と対峙すると、目のやり場に困る。艶めかしいという表現がピッタリだ。僕は、スマホを取り出し、画面を眺める。

「何、ニヤニヤしてんだよ!? 気持ち悪い!」

 誰も居ないと油断していた。僕は慌ててスマホをしまい、顔を上げると、銀将君が腕組みして廊下に立っていた。日がだいぶ傾き、廊下はもう薄暗い。背の高い銀将君を見上げた。

「銀将君こそ、こんな時間まで何やってんの? 部活入ってなかったよね?」

「ああ、連れ等とバスケして遊んでたんだよ」

 銀将君が歩き出したので、僕も並走する。

「で? 何、ニヤニヤしてたんだよ? 何か、良いことでもあったのか?」

 くそ、誤魔化せなかったか。銀将君の方へと顔を向けると、彼はニヤニヤしていた。なんか、腹立つ。

今回の一件は、僕の上司であり主人に当たる歪屋響介さんに相談するつもりでいたけれど、その前にもう一人の専門家に相談してもいいだろう。僕は、今回の案件を銀将君に話した。もしかしたら、銀将君が同行してくれるかもしれない。まさに百人力だ。

「そうか、でも、現場を見てみないことには、何も分かんねえな。最近この辺一帯で不穏な空気流れてるから、気を付けて行ってこいよ」

 僕は、笑顔で返事をしたものの、期待が外れて肩を落とした。さすがに、同行してもらう訳にはいかないか。銀将君は、忙しいだろうし、こんな不確実な案件に彼を引っ張り出すのも厚かましい話だ。そこまで、期待はしていなかったけれど、当てが外れると、急に不安になってくる。しかし、そんなことも言っていられない。同級生だからと言って、甘え過ぎるのは良くない。

「悪いな。俺も今、ちょっと立て込んでてな。一緒に行ってやれねえんだ」

 思わず飛び上がりそうになった。悟られる程、不安が滲み出ていたのか。僕は、体の前で手を振って、なんとか体裁を整える。大丈夫です。お使いくらい一人でできます。

「心配だったらよ。鍵助(かぎすけ)の奴を貸してやるよ。こき使ってやってくれ」

 反射的に銀将君の顔を見ると、彼はいつものように、屈託のない笑顔を浮かべていた。ここまで、気を使わせてしまい、申し訳ないやら、情けないやら。

「でも、鍵助さんに悪いんじゃ」

「ああ、平気平気。あいつも喜んでついて行くんじゃねえかな?」

 鍵助さんは、銀将さんのお供について行く訳ではないらしい。喜んでついてくるとは、よっぽど暇なのだろうか? 銀将君は忙しいのに? どうにも腑に落ちないけれど、協力してくれるなら、ありがたく頂戴しよう。でも、やはり疑問は残る。

「どういうこと?」

「二年の藍羽って、確かあいつだろ?」

 銀将君は、顎を親指と人差し指で挟み、少し考えた後、閃いたように人差し指を立てた。ニカリと笑い、真っ白な歯を見せる。

「うん! やっぱり、あいつだ! 鍵助の阿呆は、巨乳が大好きだからな!」

 キャンセルの方向でお願いします。

  • Twitterで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る