第5話 人間vs蟲 その4


「―――うぎっ!」

「!?」


 右腕を抉られる。

 切り裂かれるというよりは、もっていかれたという感じ。二の腕の一部が深くまで消失した。


「う、ぅううう、う」


 あまりの痛みに声が勝手に漏れる。泣きそうだ、いや実際もう泪がこぼれている。


 落ち着け、私は一つの精密機械だろ、一部の故障ぐらいがなんだ。機能不全を確認しろ。

 上腕二等筋が三センチほど抉られている。出血は多くない。動脈や神経も無事だ。

きつく止血すれば問題ない。


「大丈夫か、小娘!」


 冬也が駆け寄ってくる。いや、ダメだ。私のことなんか気にしている場合じゃない。敵に背中を見せてはダメだ。

 冬也は、あの遠距離なら攻撃は届かないと思っているのだろう。でもそれはさっきまでの話だ。今は状況が違っているのだ。


 ビシュッ、と一閃。

 壁に切り傷ができる。


 超音波の利用には色々な方法がある。

 周波数、つまり振動の回数が多くなればなるほど直線に進むようになる。

 音は、当たり前だけど、空気中を秒速340メートル、マッハ1、つまり音速で進む。そのときに振動によって真空、気圧が極端に低い場所を作る。そこに向かって衝撃波が発生する。


 いままでただ放出していた音波に志向性を持たせてビームとして発射したのだ。


 微細なコントロールを必要とする超遠距離切断。

 普通は超音波の進行を揃えて、検査に利用する超音波ビームだ。それを高出力で行えば見えない刃となる。


 音速、不可視の攻撃を躱すなんて不可能。まさしく恐るべき攻撃。

 幸いなことに狙いは甘いらしく、また効果範囲も狭いらしい。が、もし一発でも急

所に喰らえばイチコロだ。


「っつ………!」


 SRAAAASH!

 冬也の背中に一文字の裂傷が奔る!

 射線から逃れるために私たちは更なる後退を余儀なくされる。


 もうすぐ通路は終わってしまう。唯一の勝機だった百メートルが食い潰される。

 連続で放射されるビームに押されて、近付くことも出来ない。圧倒的な実力差。これが現実だ。都合の良い逆転なんかありはしない。


 とうとう私たちは通路の一番奥、催事場のホールの扉の前まで追い詰められる。

 ドーム状半球型の天井の広い会場で、窓は一つもない。代わりに煌々と巨大なシャンデリアが真ん中に掛かっている。今はなんのイベントも行われて無いようで、置かれているものは一つもない。


「ズズズ、ズズズ、ズズズズズズ―――」


 これを勝機と見た黒塊はガサガサと私に向けて疾走してくる。


「うううぅ」


 私は恐怖で竦む。なにが精密機械だ。こんなところで終わりか?

 もう一度死ぬのか?

 死そのものが具現化したような黒い塊が一気に迫ってくる。当然のように私は殺されるだろう。

 あと一秒半後には臓物を周囲にばら撒いて押し花みたいなみっともない姿を晒すだろう。

 どだい不可能だったのだ。あの人知を超えた怪物に挑んで、勝てるはずが無かった

のだ。

 後ろ向きに尻餅をつく。

 なんて、無様。


「――――――!」


 私の前が突然暗くなる。いや、違う。

 冬也が私の前に立ちふさがったのだ。

 私と違ってぼろぼろの身体で、しかし私と違って一つの揺らぎのない心で。


 刹那、視線が交錯する。

 其処に込められたメッセージを、私は確かに受け取る。


「ッしゃらあああああ!」


 およそ女の子とは思えない声を上げて、自分を鼓舞する。勢い良く立ち上がり、催事場の扉を開け、中に転がり込む。

 唯一の勝機たる通路での攻防は、何とか上手く行った。

 あとは仕上げをするだけだ。

 素早く、でも泥臭い動作で立ち上がると、入り口に眼を向ける。


 神速で押し寄せる黒塊の前に立ちふさがった冬也は、手の二振りの銀閃を交差させて迎撃する。

 薙ぎ払われる巨木じみた脚。それを下から振り払うように刃をかち上げる。


 KRAAAAASH!

 響く金属音!

 黒塊は、残る五本の脚を沈めると、猛烈に半回転する。まるで足裏が爆発したみたいな推進力!

 その勢いに任せて、鉤爪の付いた脚を壁にかけ取り付き、一気に冬也の後ろに回りこむ!


 虚を突かれた冬也は、それでも混乱することなく後ろを振り向く。

 だけど、それは失敗だった。振り向く動作に合わせて黒塊は冬也の死角へと回り込む!


 一瞬の攻防。

 先程の橋の攻防では互角。今の眼の見えない蟲とボロボロの冬也の身体状況も互角。差が出たのは地の利だ。

 皮肉にも、自分達が選んだこのフィールドが、敗北を招いてしまった―――。


「バカメ―――!」


 人間では想像も出来ない、壁を神速で走るという行為に反応できた冬也は賞賛されるべきだろう。が、それだけではまだ足りない。

 怪物の身体が捩れ、悪魔の一撃が振り下ろされる。


「っつ―――」


 鉤爪が冬也の太ももの辺りを深く裂く!

 鮮血がほとばしり、冬也は糸の切れた人形のように成すすべなく崩れ落ちる。

 両足を傷つけられた冬也はもはや無力と考えたのか、黒塊は速度を落とすことなく私に近付いてくる。


 冬也が稼いでくれた時間はほんの一瞬。

 その一瞬で出来たことといえば、このホールの反対側まで移動しただけだ。

 たった数秒で、あの怪物とただの矮小な人間が相対せる用意などできはしない。


 だけど、これで充分。

 ここが、私たちの必勝の地だ。

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