第5話 人間vs蟲 その2


 このJRと私鉄と大型バスターミナルが連なる筆内駅の構内に建てられた駅ビル、正式名称『フューズショッピングモール』は、四階建てだ。

 一階はバスターミナルに出る駐車場。二階は駅に出口が向けられた生鮮食品売り場。三階は衣服、化粧品、生活用品など。

 そして今居る四階が催事場、つまりは色々なイベントを行うホール。普段は閉まってて、一般人立ち入り禁止。

 エスカレーターから伸びる長い通路の両横にレストランが並び、どん詰まりに今私が居るホールがある。


 この、およそ百メートルの通路が私の唯一の勝機。

 ここを通過されれば、間違いなく私は死ぬ。

 あの化け物に挑むのだ。このくらいの覚悟が無ければ。


 大きく深呼吸する。

 一つのイメージ。

 自分は一つの目的を成す精密機械。

 数千の部品から出来ていながら、出来ることは一つの行為を間違いなくする、という機能だけ。

 今私は一つの精密機械。恐怖とか焦燥とかで間違えることはない。だって機械なのだから。成すべき行動は一つ。


 目を瞑り、深呼吸を繰り返す私の隣に、冬也が立つ。

「ふん、ここまで来て怖気づいたか。なら今からでも尻尾を巻いて逃げることだな。なに、俺はそれを笑ったりはしないが」

「バカ言わないで。あんたこそ、そんなボロボロで大見得切って。やせ我慢がカッコイイ時代はとっくに終わってるつーの」


 仲良く罵り合う。

 私の口が悪いのはいつも通りだが、冬也は私を逃がすかリラックスさせるためにこういう軽口を叩いているのだろう。

 まぁ、コイツの場合、単に性格が悪いだけかもしれないけど。


 生き残る。

 それが唯一にして至上の目的。

 私が逃げず残った理由。

 冬也を助ける。

 冬也を勝たせる。


 本来はあの顔色の悪いおっちゃんを説得して引いてもらうのがベストなんだろうし、私が冬也だけに肩入れする理由も無いけど、それは多分無理な相談だ。

 話し合おうなんてしたらきっと一瞬後にはボロ雑巾だ。そんな愉快なのは想像上だけで充分。


 なら、私を助けてくれて協力を渋々ながら納得してくれた冬也と共闘して、あのおっちゃんを退けるのがベターだろう。

 冬也はあのおっちゃんを殺す気満々だけど、それもさせない。

 だって、私はこんな異常な状況でもどこまでも一般人で、赤の他人といえど目の前で死なれるのは無理だとさっき悟ったばかりだからだ。

 私の希望通りいくことを願う。


 とっくに冬也はどこからとも無く大型の片刃ナイフを両手に装備している。白銀のナイフ。彼のダークスーツに、良く映えている。映画のワンシーンでもこんなにきまってはいないだろう。


「―――――――」

「…………………」


 睨み合う白衣の男とダークスーツの青年。

 今は二人だが、この後すぐに二匹になるのであろう。

 気が爆ぜる、とはこういうことか。二人の間には、目に見えない気迫がぶつかり合い、空気が歪む錯覚すら覚える。

 集中した意識がまるで物質化して、ぶつかり合うイメージ。


 私は自他共に認める文化系なので、格闘技とかスポーツの試合とか見に行ったことはないが、その会場はこんな感じか―――否。そんなもんじゃない。

 これは安全をある程度約束された、『格闘技』というルールある緊張感とはかけ離た、これから命を削りあうという緊張感だ。

 野生の動物なら持っているであろう、本能で体得する意識。それが、ぶつかり合う。


 すでに私たちに言葉はない。

 語り合って緊張をほぐすなど愚かな行為をしては捕食されるのは目に見えている。


「――――ズ」

 白衣の男が腰を落とす。

 人間の声帯では出せない音が喉から鳴る。

 男の体がみるみる変態していく。

 レトロウィルスのファージ変換に似たメカニズムで、今ある『人間の』身体が崩壊する。それを補って新たな細胞が作られる。


 進化。

 二十世紀の大天才が提唱した、生物の悲願。

 ぶちぶちと、筋肉を引き千切って現れる外骨格。内臓が簡略化される。耳まで裂ける口、そこに追加される大顎。脳は高速化に適した圧縮脳へと成る。

 凄い。

 もしここに、生物学者がいたなら昏倒して一生研究室から出てこれなくなるだろう。


「――――ふっ!」


 疾走する黒身痩躯。どんなに猛スピードの変化であろうとも、変態には時間がかかる。もはやその隙を見逃すほどの余裕もない。

 百メートルの距離など彼には一瞬、距離をみるみる詰め、必勝の一撃を―――


 出来なかった。

 ギィン、と響く金属音。

 敵も然るもの。その程度の隙は承知のことで、いまだ変態していない腕には刃が握られている。

 蟲の超感覚で攻撃の軌道を読み、先程の戦いで冬也が落としたナイフで防御したのだ。


「マヌケめ!」


 突きを繰り出した無様な姿勢を勝機と見て蟲が哂う。変態の成った右半身の二本の脚から黒い稲妻の如き連撃が繰り出される!


「……っち」


 かろうじてもう一本のナイフでそれを防ぐ冬也。何とかバランスを崩しつつ後退する。

 その間にも変態は進み、冬也の着地にはもう完全に終わっていた。

 明らかに動きが重い。さっきの閃光みたいな連続攻撃が見る影もない。冬也の消耗は想像以上みたいだ。


これでは猶予はない。

 黒塊と再び化した男と、冬也が二度目の交錯をする。橋のときの焼き回しだ。

 だが、あのときでさえ辛うじて互角。今は必死に喰らいついているがじりじりと後退せざるを得ない。

 もともと、運動性能では昆虫に敵う生物は存在しない。構造自体がそう出来ているのだ。寧ろ、冬也の凌ぎは驚嘆に値する。


 骨の軋む音が聞こえるほどの攻防。

 この舞台を用意したのは私だ。それはある作戦のため。私たちが勝つにはこの方法しかない。

 最初にこの作戦を話したとき冬也は「そんなこと、上手くいくのか?」とか訝しがりつつも最後には協力してくれた。その彼を裏切るわけにはいかない。


「冬也、伏せて!」

 力の限り投擲する!

 今の私に出来る、精一杯の援護だ。

 因みに私のソフトボール投げの記録は五メートル。つまりはむちゃくちゃ接近して投げたわけだ。

 冬也が居なければあっという間にひき潰される位置。このために冬也の回復具合を確認したのだ。


 しかし、高速処理を可能にする圧縮脳と神経系を有する蟲には私の投擲など到底当たるわけもない。銃弾だって当たるかどうか。

「ふん」

 あっさりと躱され―――

 ガシャン

 その、足元に落ちた。


 途端に広がる強烈な刺激臭。私が投げたのは薬瓶―――このショッピングモールにある

薬局から拝借してきた強力な塩素系の薬品だ。

 いかに強烈な匂いでもすぐに影響があるわけではない。そう、人間なら。


「ズ、ズズズズ、ズ―――」


 相手は人の数倍数十倍の嗅覚を有する蟲。

 驚愕と刺激で一瞬だが黒塊の動きが止まる。

 しかし、その一瞬が度し難い隙となる。


「喰らえもう一発!」


 立て続けにもう一投げ。今度は酸素系の洗剤だ。

 今度は躱さず、脚で切り裂く。

 しかし、中身の飛沫が黒塊へと飛び散る!


「グ、アッ!」


 少量だが目に入ったようだ。蟲には瞼がないから当たりさえすればこっちのものだ。失明はないが刺激で一瞬は何も見えないだろう。

 すぐに私はその場を離れる。


「小癪ナ―――!」


 私が一秒前に居た場所が薙ぎ払われる。危なかった、後一瞬でも躊躇していたら命は無かった。

 でも、なかなかいい感じだ。上手くやれてるじゃん、私。

 精神が高揚する。まるで本当に一つの機械になったかのよう。次々と次にやるべき行動が整理され容易く実行に移せる。その感覚が愉しい。


 あれ、おかしいな。私って絶叫マシーンとか苦手なのに。自分の命を天秤にかける

みたいなスリルで愉快になるなんて。

 冬也と並んで退く。敵の行動は分かっている。周囲が見えないなら、周囲ごと破壊

する行動に出る―――


「―――清漣雑音―――!」

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