第4話 進化 その1

 巨大な蟲となった男は考える。

 自分と互角に戦い、必殺の一撃を喰らった瀕死の身体で見事に逃走して見せた奇妙な青年の事を。

 自分は最早、あらゆる生物を超越した存在だ。自分の前に立ち、生き残ることができる人間など皆無なはずだ。


 蟲そのものの、強固で柔軟な外骨格による精密機械のようで強力な動き。紫外線まで感知する複眼からの多数情報を瞬時に処理する圧縮脳。自分でも信じられない反射神経と瞬発力。

そして、究極の外的排除能力『清漣雑音』。

 何もかもが、自分が望んだ通りのチカラだ。

 そう、あの赤い月の日に、巨大な瞳から授かったこの姿を使えば、あらゆる望みが叶う。


 そのはずだった。

 しかし、あの青年は、自分と互角に立ち会って見せた。その身体能力には、素直に

驚嘆する。

 不可解だ。

 彼は闘いの中でも『変態』をしなかった。事情を―――『宴』のルールを知るものならば、自分のチカラを使わなければ即刻死につながることは分かるはず。


 そこで、蟲はある回答にたどり着く。

 無から出現するナイフや盾。骨を砕かれても立ち上がった事実。自分と力負けしない強靭な肉体。眼くらましに使った銀の霧。

 そして、自分の『清漣雑音』により裂けた衣服の隙間から見えた極彩色の紋様。

 あれは刺青ではなかったのだろう。

 そう、そう考えれば全てに説明がつく。


 あの青年は、巻き込んだ普通人を抱えたままで逃走した。そこまで遠くまでは行っ

ていないだろう。

 その上、あの青年とその普通人は大きな傷を負っている。この触角の嗅覚からは逃

げられない。

 ゆっくりと追い詰め、そして食いつぶせばいい。

 弱肉強食の掟にしたがって―――



◆◆◆



 ……暗闇に飲み込まれる。

 底なし沼に落ちるようだ。

 落ちたこともないしそんなもの物理的に在りえないが、感覚を例えるとそんな感じ。


 死ぬ。

 循環血流量が足りず、血圧を維持できない。結果、脳へ酸素が運ばれず、細胞が自壊を始める。脳幹が破壊されれば、私は完全に死ぬ。

 積み上げてきたたった十六年間が、思い出が失われ、これから積み上げるはずの未来が消失する。


「―――聞け、小娘」


 すごい近くで声がする。これは、あの銀髪君のものか。


「死ぬな」


 いやいや、だから無茶を言うなって。


「俺が、こんな事を懇願するのは今回で最初で最後だ―――だから、死ぬな」


 なんだよそれ。全部自分の都合じゃん。なんで命令口調よ。


「俺はイヤなんだ。死んだものは生き返らない。死んだものからは聞きただすことは出来ない。俺には分からない。他人の気持ちが分からないんだ。どうして自分の身を投げ売り、他人を助けようとするのか。理解できないんだ。もう、理解できないまま死なれるのは、イヤなんだ」


 彼に何があったのかは知らない。でも、きっと大事なものを目の前から急に失われたのだろう。

 少しだけ共感する。

 赤い雨の日を思い出す。

 いつだって大切なものほどあっさりと壊れる。いつだって大切なものほど、無くなって初めて大切さが分かる。そういうもんだ。

 あっさりと壊れた大切なもの。なくして初めて、骨身にしみた大切さ。


 でも、ここから逆転するのは無理。

どれだけ彼の願いを叶えたかろうと、無理なもんは無理だ。


「―――俺にこの『進化の頂』とやらを与えたやつが言っていた」


 唐突な話題変換。私の知らない単語が出てくる。


「多少の誤差はあるが、『進化』が完了するまで概ね一週間かかるらしい。俺は二日でほぼ完了し、三日でこれ以上の変化は期待できないと見切りをつけた。だが、もしかしたら今もこの身体には、その『進化』の残滓が残っているかもしれない。俺はそれに賭ける」


 瞼のすぐ前でゴリゴリと何かを削ぎ落とすような音がし、顔に熱い液体が大量にかかる。

 口の中に、無理やりに何かを押し込まれる。


「あの瞳は言っていた。生物の進化は須らく生きるためである、と。だから賭ける。俺の血肉を喰らって生きるために進化しろ」


 熱いスープを嚥下する。スポンジに水が浸透するように、水に落とした絵の具が拡散するように、その液体は私の奥深くに入り込んでくる。


 脳の奥、最も大切なところで、ドクン! と鈍く響く音がした。

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