第3話 清漣雑音 その2
学校が終わり、京子と別れて数時間。
私は、踵を返して、性懲りも無くこの場所へ来ていた。
昼間、あの人と出会った高架下。
古いコンクリート特有のすえた匂いがする。昼間はあまり気にならなかったのは、周囲が暗くなって視覚以外の情報に過敏になったからだろう。
無秩序な落書きや散乱したゴミ、日が射さないために水溜りやコケが其処此処にある。
私は、あの青年の何がそんなに気になっているのだろうか。自ら分析してみる。
きっと私は、自分が理解できない事柄が許せないのだろう。こう表現すると、いかにも私が科学の信望者だと思われるだろうがそうではない。
オカルトは大好きだしUFOや宇宙人は本当に居ると思っているし、超能力は限定的に存在すると思う。
つまり、自分のスッキリする落とし所に持っていけないと気持ち悪いのだ。
だから、解らないなりに某かの説明を求めているのだ。
一応周囲をくまなく散策してみる。当然何も無い。
よしんば彼が何か超常的な存在だとしても、ここには偶然通りかかっただけで、場所そのものに手がかりはないだろう。
一応、陸橋の上も確認し、何もないことを確認する。
高架下へ降りる階段まで戻って一息つく。
「何やってんだか………」
そろそろ帰らなければ、明日に響いてしまう。まったく、私が本も読まないでこんなことをしているのは本当に珍しいことだ。
私は踵を返し、階段を登る。
キィィイイイン――――
耳障りな、金属を擦り合わせたような高音が耳朶を打つ。
その、かすかな音が気になり、何が音源かと調べることにする。
階段を降り、高架下の通路を目指す。既に日も暮れているからだろうか、人通りは全く無い。
私が近付くにつれ音は激しくなる。
今日は月明かりも少なく、暗い夜だった。そのため、かなり接近してようやくその姿と、何が行われているのかを確認できた。
このとき、「駅員さんとかに見つかったら怒られるなぁ、制服だし」と思い、柱の陰からそっと覗いたのが功を奏した。正面から行っていたら、あの激しい交錯に巻き込まれ命は無かっただろう。
そこで、ありえないものを眼にする。
「なんだよ、アレ―――」
橋の柵の間からその驚くべき光景を伺う。
昨夜に夢に見た、そして今日逢っただけの銀髪の青年。彼が、異貌の化け物と対峙している。
いや、違う。
異貌の化け物ではない。あれはさっきまで確かに人間だったのだ。
信じられないことに、私の目の前で急速に『変態』したのだ。
人間などの哺乳類でも胎生期に、両生類は成体になってからも、急速な構造の変化をする。だがそれにしたって、数日、短くとも数時間をかけて行うものだ。
それを一瞬、しかも全く遺伝子構造が違う生物に変わるなど、聞いたことも無い。
更に、蟲の機能を持ちつつ人間の意識を保っているらしい。
信じられない。
しかも、もっと理解できない事に、あの青年とその在り得ないものは、殺し合いをしているのだ。
巨躯に立ち向かう銀閃。ひと振りの刃と黒身痩躯。夢で見た、あの人だ。
映画でしか見たこともないような物々しい凶器で武装した彼は、その武装を霞ませる凶悪なモノと争っている。
KRAAAAASH!
黒い塊と青年がぶつかり合い、少し離れたかと思うと化け物の腕が稲妻のように青年を狙う!
だけど銀髪の青年は、それを正面からいなしていく!
鼓動がやけに早い。
凍りついた理性が告げる。
これ以上はダメだ。ここにいたら死ぬ。巻き込まれたらタダじゃ済まない。
あの青年も普通じゃない。
あんな巨大な蟲が襲い掛かってきて、動揺も驚愕もしてはいないし、何よりその化け物と互角に組している。
今の攻防も、自分には一瞬過ぎてまるで理解できなかった。それを平然とやってのけるなど、彼も何かしら人の枠をはみ出しているのではないか。
もともと眼が悪い私には視認できない速度の動き。いや、きっと私じゃなくてもそ
うだろう。
冗談みたいなシチュエーションに冗談を通り越した現実感の無い動き。あまりの理
解できなさに、脳が上手く働いてくれない。
あれらは人ではない。見た瞬間に悟る。そんなこと、幼稚園児でもわかるだろう。
だってあんな動き。そもそも人間はあんな風に動ける生物じゃない。
これ以上ここにいては見つかるかもしれない。だが、動けば見つかってしまうかもしれない。ならば現状維持、ここに隠れ続けることが正解だろうか?
───それに何より、私は目が離せなかったのだ。
これ以上直視するな、関わるなという体の警告を無視し、心はいつまでもこの光景
を見ていたいと感じている。
生物の可能性を突き詰めたかのような捕食のし合いに、強く惹き付けられたのだ―――。
「?」
両者の動きが止まる。
間合いを開け、牽制するようにじりじりと円を描く。
殺し合いは終わったのか。そう、安堵が半分と残念が半分のため息をした瞬間、背中に氷塊を落とされたような悪寒が走る。
黒い塊が、刺突のための体勢から蟲本来の地に伏せる形になる。その体勢から有効
な攻撃はないのだろうが、悪寒は増すばかりだ。
「………!」
心臓が収縮したまま戻らないような痛み。手足は痺れを通り越して痙攣になり、歯の根があわずガクガクと震えだす。
ああ、あの青年は死ぬ。
あの黒い塊が何をするのかは分からないが、それを喰らえばあの人は間違いなくやられる。
そんな直感は初めてだったが、間違いない。
「―――奥の手か。そうだな、ただ蟲が巨大になっただけでは究極の進化とはとても言えないからな」
今まで聞こえなかった銀髪の青年の声がやけにハッキリと届く。
「ズズズ、ズズッ、ズ―――」
黒い塊はゆっくりと翅を広げ、地面と直角になるまで持ち上げる。
六本の強靭な脚は確りと地面を掴み、複眼が鋭く青年を捉える。
「僕ノ願イヲ叶エルタメ、死ネ!!」
ククッ、と蟲の体躯が沈み込む。同時に、黒塊の周囲が歪む!
私には予知できる。あの青年は死ぬ。あの攻撃は、今からでは防ぎようが無い。
「清漣雑音」
蟲の腹部が蠕動する!
同時に、透明な翅が超高速で振動し始める!
―――私の周囲の水溜りが振動をはじめ、次第に激しく泡立つ。常温で気化しているのだ!
私は目を疑う。
この振動―――電磁波でも気圧でもない。これは、加湿器と同じ現象!
空気が爆ぜる!
比喩ではなく、本当に周囲の大気が爆発した!
「……っ!?」
青年が驚きに眼を見開いたときにはもう遅い。
文字通り、その攻撃は『音速』なのだから。
ギャィィィィリャァァァァイイイィィィィン!!
あまりに強烈な音の暴走。
聞き取れない超音波が鼓膜から耳小骨を震わせ、三半規管を攪拌する。
あまりの圧力に、私は吹き飛ばされる。大型スピーカーの正面でもここまでの振動は感じないだろう。きっと、ジェットエンジンの近くにいたらこんな感じだ。
こんなに離れたところでこの威力。数メートルしか離れていなかったあの青年は一溜りもないだろう。
―――蝉や鈴虫などの『鳴く昆虫』は自然界に数多く存在する。
多くは求愛行動のためだが、それを極限まで突き詰めるとどうなるか?
昆虫や節足動物は、他の動物には無い強靭な筋肉を持つ。
もし、蟲が人間以上の大きさを持って極限までエネルギーを放出したとすれば、それは容易く他の生物を超越する。
そのエネルギーで放出された音波、つまり空気の振動は超絶な破壊力を生む。
周囲の街灯や硝子が粉微塵に砕ける!
人間が聞こえる音の周波数、つまり振動の回数は一秒におおよそ二十回から二十万
回といわれる。それを超えるものを一般に超音波という。
黒塊の放つ音波は、それを遥かに超える回数で振動している。
血飛沫が舞い、破壊音が続く!
銀髪の青年は、成す術もなく全身を蹂躙される。
「ぐ、あああああああ! がああああっ!!」
その大音波で青年の悲鳴は私までは届かない。しかし、彼が死に瀕していることは分かる。
アレだけの超音波。効果範囲内ではあらゆる分子が振動し、真空が無秩序に発生し衝撃波を撒き散らし、硬質のものは無理やりに共振させられ微塵に破壊される。
それだけではない。人間の体内には水が多く存在する。音波は周波数が高いほど体内に浸透しにくい性質を持つが、出力があれほど大きければ血管や細胞内に浸透する。
するとどうなるか。
キャビテーション現象、というものがある。
空気の存在しない液体の中でも大きなエネルギーがかかると、そこに空洞―――真空の泡が発生する。更にエネルギーが加わると、その泡が限界を向かえ破裂する。そのときに衝撃波が発生するのだ。
微小な衝撃波だが、これが血管内で起きると、血管をボロボロにして、血球を破壊
して血管を詰まらせる。
毛細血管はズタズタになり、全身に血がいかず、じきに死に至る。
あの蟲は、蝉と同じように腹腔内をほぼ気管とし、共鳴室という器官を成してる。そこに偏在する音を出す発音筋と発音膜により発音し、共鳴室で響かせ音を大きくする。
更に、翅を震わせているところを見ると、松虫や鈴虫のように翅にある太い脈を高速でこすり合わせることで高周波数の音波を発生させているのだろう。
恐ろしい。
正しく究極に進化した生物。夢の如き、外敵を排除するチカラ。
「ぐああ、ああああああ!!」
もういくらの猶予も無い。
悪い予感の通り、あの青年はもう数秒で死ぬだろう。
だからどうしたというんだ。夢で見た人にたまたま似ていただけで私とは何の接点も無い。今すぐに逃げ出せばいいだけの話だ。
だけど。
―――真空波で切り刻まれる身体。
だけど。
―――粉砕される骨格。
だけど。
―――紫に滲む内出血が体中いたるところに現れ始める。
だけど、助けたいんだからしょうがないっ!
「う、わああああああああぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁああああ!」
私は、自分でも訳も分からないうちに、飛び出していた!
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