二九、不穏
夜明け前。
誰より早く目を覚ましたハシモトは、真っ先に屋上へと向かい、日の出のときを待っていた。
空はまだ薄暗かった。
東に幽かな蒼が滲んできたところだった。カツヤマの地平を三六〇度囲う山々の漆黒が、かろうじて窺えるばかりである。
ちょっと前まで、朝なんて大嫌いだったなぁ。
独り目覚めた朝の寂寥が。
独り無為にしてきた夜の儚さが、胸を過ぎった。
フクイにやって来るまで、本当に自分は独りだったのだと思い知らされる。
他人に阿ることはあっても、触れ合おうとしてきたことはなかった。
裏切られ、貶められたとしても、抗うことなくただへらへらと笑って毎日をやり過ごしてきた。
「……でも、今は違う」
波打つ闇の向こうに、光の気配を感じる。
山々の漆黒が際立ち、その輪郭が白く浮かび上がってくる。
ハシモトは重機関銃から身をのり出した。
すると、稜線の際で光の粒が散った。
次の瞬間、幾筋もの光が闇に道を築いた。
それはたちまち空に融けて、銀へ青へと色を変えた。
今日が始まったのだ。
あの頃より、ワントーン明るい今日が。
「んんっ……!」
ハシモトは伸びをする。
今日こそアサクラを説得してやると、朝陽に踵を返そうとした。
その時だった。
「あ」
グラウンドを出ていく背中が見えたのだ。
真っ赤に刻まれた『ソースカツ丼』の文字は、屋上からでもはっきりと見てとれた。
アサクラさん、どこへ行くんだろう。
ふいに、不安が鎌首をもたげた。
このまま何も言わず見送ってしまったら、もう二度と戻ってこないような気がした。
ハシモトは屋上のへりを掴み叫んだ。
「アサク――」
しかしその声は、たたき開けられた鉄扉の音に遮られた。
ハシモトは跳ね上がって、後ろを振り仰いだ。
「さがれッ!」
十数人の兵士が雪崩れ込んできた。兵士は武装していた。その手にはスナイパーライフルが握られていた。
「え?」
何が起きたのか、理解できなかった。
後退った太ももに重機関銃が触れた。鋼鉄の冷たさが、たちまち全身に沁みた。
「……」
ところが兵士の多くは、ハシモトには目も暮れなかった。速やかに屋上の縁へ移動し、照準器の調整を始めたのだ。
「
最初に叫んだ兵士だけが、唖然とするハシモトを睨みつけていた。
やがて兵士は、鼻と鼻が触れ合うほどの距離にまで、ぐんと近付いてきた。舌打ちをすると、肩を掴んでその身体を無理矢理押しのけた。
「襲撃だ。新入り、お前は後方支援に徹しろ」
「しゅ、襲撃?」
「〈クラブラザーズ〉だ! とにかく退けッ!」
今度こそハシモトは突き飛ばされ、たたらを踏んだ。
襲撃?
頭のなかを疑問符が駆け巡っていた。
――
屋上の鉄扉が開け放たれると、校内に
慌しく動きまわる兵士の影が、幽かに浮かび上がってきた。
反響し、充満し、窒息しかけた怒号の中、マスナガは立ちどまる。
誰かが言った「敵襲だ!」の一言を確かめるべく、ベニヤ板の隙間から外を覗いた。
しかしグラウンド側の景色は、突然の喧騒など嘘のように静まり返っていた。
すぐさま東――すなわち校門側へと回りこみ、改めて外の様子に目をやった。
山を背にした無数の古民家の屋根が連なっていた。
その間を蜘蛛の巣のように貫く狭隘な道に、ようやく敵と思わしき姿を見つけた。
らしくもなく、マスナガは息を呑んだ。
「なんだ、あれは」
まるで動く壁のようだった。
屋根と屋根の間、無数に延びる道と同じだけ、その動く壁はあった。
パァ、ン……。
その時、頭上からくぐもった銃声が響いた。
たちまち、動く壁の一部が崩れた。
マスナガはメガネの機能を活かし、視野をズームアップした。
すると、崩れ落ちたのが頬にカニ刺青を刻んだ、モヒカンヘアーチンピラだとわかった。
動く壁を形作っているのは、まぎれもないチンピラの大軍だったのだ。
「ヒエェェェェ……アアァァァァ……」
奴らは足許に砂埃を巻きあげながら、まっすぐにこちらへ向かってきていた。
その規模は軽く見積もっても――数百はくだらない。
「……なぜ」
思わずマスナガは呟いた。
あれだけの規模となると、偵察を目的としたものでないのは明らかだった。
ここに潜伏者がいると確信した上で、奴らは大軍を差し向けてきたのだ。
だが、どうやってこの場所を嗅ぎつけた?
マスナガは、柄にもなくしわの寄った眉間を揉みほぐした。
すると、ふいに先日のアサクラの語りが思い出された。
あの男――モリヤマが〈フクイ解放戦線〉を裏切り〈クラブラザーズ〉に寝返ったという話だ。
まさか、今回も裏切者がいるのか?
マスナガは暗澹とした不安を押しのけ、懐の拳銃の感触を確かめた。
そして、強いて己に言い聞かせた。
気を揉んだところでどうにもならない。
自分は〈フクイ解放戦線〉について、まだ何も知らないのだから、と。
「んん……」
それでも不快な感触はまとわりついてきた。
何かが喉許に引っかかっているような――。
「おい、なにボサっとしてんだ!」
突然、肩を掴まれ、マスナガは正気に返った。
ふり向くと、そこに黄色バンダナの少年がいた。
「さがれ! ここにいたら危ねぇ!」
マスナガは肩を押された。
その瞬間、少年の姿がアサクラと重なって見えた。
昨夜の光景が、昨夜の決意がマスナガの胸に火を灯した。
「いや、俺も戦わせてくれ」
「はぁ?」
「銃の扱いには、多少心得がある」
そう言って、マスナガは拳銃を抜いた。
バンダナはマスナガと拳銃とを見比べた。
やがて唸り声とともに頭をかきむしり始めた。
「ああぁ! おれ、頭わりぃんだよ! 下っ端だし! こういうのどうすりゃいいか分かんねぇ!」
「難しく考えるな。どのみち、〈フクイ解放戦線〉には志願するつもりだった」
知性の欠片もない眼差しが、マスナガを見上げた。
「マジか?」
「マジだ」
「わかった」
バンダナは吹っ切れた笑みを浮かべた。
「ところで、メガネは暗視機能とかねぇのか?」
「ない」
「じゃあ、これやる。俺のサブだけど。たぶん臭くねぇから安心しろ」
「ありがとう」
早速、マスナガは受けとった暗視ゴーグルを装着した。やや臭うが、機能は問題なさそうだった。
「それじゃ行くぜ。付いて来い!」
「了解した」
バンダナを追って、マスナガは駆け出した。
ところが、十と数えぬ間に、その足は止まってしまった。
「つッ!」
突如、激しい頭痛に襲われたのだ。
『フクイに奉仕せよ』
メガネの洗脳電波が、県知事システムの意思をまき散らした。
「黙れ……ッ」
マスナガは、すぐさまこめかみを殴り黙らせた。
しかし、頭痛はまだ続いた。
脳の表面をパリパリと引き剥がすような不快な痛みだった。
それが記憶を刺激したのだろうか。
脳裏に、ある光景が去来した。
『頼む! すぐ帰ってくるからぁ!』
ほんの数十分ほど前の記憶だった。
『餌あげないといけねぇんだよ! サトちゃんには、まだオレが必要なんだ!』
鼻息荒くハツに懇願していたのは、アサクラだった。
『しつこいね。出てくところを誰かに見られちゃまずいんだよ』
ハツと揉めていたのだった。
「あ」
その時、喉に引っかかっていたものが声になって洩れだした。
……そうだ。
あの時は、気にも留めなかった。
〈オオノ〉へ向かう必要がなくなったとはいえ、アサクラはサトちゃんを溺愛していたから。
だが、今こうして思い返してみると、アサクラの焦りようは尋常ではなかった。
まるで、すぐにでも校舎を出ていきたい理由が他にあったかのように。
……そういえば。
パチンコ店で襲撃を受けたときも、アサクラはいなかった――。
「いや……」
そこまで思い至って、しかしマスナガは不穏な裏切りのにおいをふり払った。
あの時、そして今。
何故〈クラブラザーズ〉がやって来たのかは、アサクラを内通者と仮定すれば、確かに辻褄が合う。
しかし、何か違う気がした。
もっと重要な何かを見落としているような気がしてならなかった。
『いいの――こんな時に』
ふいに、チンピラの声が思い出された。
背中に悪寒がはしった。
何かに手が届きそうだった。
ところが、その答えを掴みとる寸前、またしてもバンダナの叫びが思考を断ち切った。
「おい、どうした! 早く付いて来い!」
少年はぶんぶん腕を回し、マスナガを急き立てた。
そこに、チンピラの鬨の声が聞こえてきた。
敵はもうすぐ側にまで来ているのだ。
マスナガは掴みかけた答えを、今度こそ手離すしかなかった。
自分が自分として取るべき行動は、いつも一つしかなかった。
仲間を疑うことでも、謎に迫ることでもない。
戦うこと、それだけだった。
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