二八、友
「アタシはここで待ってる。気が済んだら戻ってきな」
ケツを蹴られたハシモトは、真夜中の屋上にまろび出た。
「ちょっと、ハツさん!」
抗議の声を上げると、鉄扉がそれを遮った。
ハシモトは唇を尖らせ、鉄扉に手を伸ばしたが、すぐに思い直して深いため息をこぼした。
そして、夜空を振り仰いだ。
「あ」
とたんに痛みも、苛立ちも忘れた。
一目見た瞬間から、もう夜空の虜だった。
丸くふかい紺桔梗が、雲を孕んで風と揺れていた。まるで、寝静まる街を覆う天蓋のように。
空の中心を縫うのは白銀の月で。
静けさに眠る地上の景色を、波打つシーツにも似て白っぽく浮かび上がらせていた。
「……すごい」
そこに、ハシモトは感嘆の色を差した。
草花や蔦に触れれば、それらの先に実をつけた星々がリンと音をたてたような気がした。
「まあ、すげぇよな」
「ああ」
重機関銃の傍らに、アサクラとマスナガが待っていた。
ハシモトはふたりに向かって微笑むと、やおら菜園のまえに屈みこんだ。
草花の中に手を入れ、ひと房掬い上げてみる。重く湿った油揚げの実は、一面だけがきつね色に揚がっていた。
「フクイでは、油揚げをたくさん食べるんですよね」
いつの間にか、マスナガが隣に屈みこんでいる。
「食べる。さっきの食事も油揚げだったろう」
「それは、ここで実を育ててるからじゃないんですか?」
「それもあるだろうが、普段からよく食べる」
「そうだぞ」
と、アサクラが実を一つもいで齧った。
しょっぺぇなと言いつつ、うまそうに呑みこんでしまうあたりが、いかにもという感じだ。
「味噌汁にはほぼほぼ油揚げが入ってるし、おでんに油揚げが入ってなけりゃ県民はキレる」
「キレるんですか!」
ハシモトは声をあげて笑った。油揚げの入っていないおでんを前にして、目くじら立てるアサクラを容易に想像できたからだ。
「マスナガさんも怒りますか?」
「不満には思う。味噌汁はまだ許せるが、おでんに油揚げを入れない奴は、はっきり言って料理のセンスがない」
「そこまで言いますか」
「断言する」
「ぼくもそうなっていくんでしょうか」
「〈オオノ〉にも油揚げがありゃあな」
その時、アサクラが一段も二段も声を低くして言った。
ハシモトはすぐには向き合わず、満天の星のなかに、〈オオノ〉の姿をさがした。
月の傍らに、それはあった。
黒い光を放つ星のような影が。
いつか三人が目指してきた場所が。
しかし、今は違うのだと改めて思い知らされた。
意を決し、ハシモトは切り出した。
「やっぱり、アサクラさんはここに残るんですか」
一瞥があった。
これ見よがしに溜息をこぼしてから、アサクラは身をひるがえした。重機関銃にもたれかかって答えた。
「残る。戦う。もう決めた」
〈オオノ〉へは行かない。
はっきりとそう宣言した。
「マスナガ、こいつを頼むぜ」
アサクラの中では、こちらの答えも決まっているようだった。
マスナガは何も答えず瞑目した。
「待ってください。ぼくはまだ何も言ってませんよ」
「うるせぇ。お前らは〈オオノ〉へ行け」
「勝手に、ぼくの行動を決めないでください」
「ずっとオレに付いてきたくせに、エラくなったもんだな」
アサクラは冷笑した。ただでさえ鋭い目を眇めながら。
ハシモトはその気迫に、真っ向からむき合った。
「確かに、ぼくはずっとアサクラさんに付いて来ました。何も知らなくて、どうすればいいのか分からない事ばかりだったから。でも今は、違います」
「なにが違うんだ。油揚げのことだってろくに知らない奴が、もうフクイを解った気になってやがるのか?」
「知らないこともまだまだあります。でも、解ってきたことだってあるんです」
「へぇ、なにが解ってきたんだ。言ってみろ」
「ぼくが、フクイを好きになってきたってことです」
アサクラが片眉をつりあげた。
ややあって嘲るように吹きだした。
「……可笑しいですか?」
ムッとして返すと、アサクラは嘲笑をひっこめ挑むように睨みを利かせた。
「当たり前だろ。食いたいメシ決めるんじゃねぇんだぞ。生きるか死ぬかの話をしてんだよ」
「好きなものや好きな人を守るために戦うのって、そんなに変ですか?」
ハシモトは折れなかった。
アサクラのこめかみに青筋が浮かんだ。
「戦うってぇのは、きれいごとじゃねぇんだよ! そんなもんで命は守れねぇんだよ! お前だって、もう何度も危ねぇ目に遭ってんだろうがッ!」
「じゃあ、あんたはどうして戦うんだ!」
「……ッ」
思いがけず張りあげられた声に、アサクラが怯んだ。
ハシモトは怒気を放ったまま詰め寄った。
「誰かに命令された? 強制された? 違う。あんたは、あんたの意志で戦うことを選んだんだ」
相手の目を、真正面から覗きこんだ。
傷つき、怯えた子どものような、その目を。
「ぼくだってそうだ。誰かに命令されたり、強制されたりしたわけじゃない。自分自身の意志で決めた。戦おうって、決めたんだ」
ハシモトはアサクラの両肩に手を置いた。
「フクイを守りたいから。フクイで生きる人たちの明日を守りたいから。それに、死地へ赴こうとする友達を見捨てることなんかできないから。どんなに危険だって解ってても、自分だけ安全なところでぬくぬく生き延びるなんて嫌なんだ。そんなの、そんなの……」
自分で自分を殺すようなものじゃないか、と。
ハシモトは突然泣きだし、アサクラに縋りついて項垂れた。
アサクラは両肩を掴んだ手を払おうとして、けれど触れることのできぬまま、相手の姿を苦しげに見下ろした。
「……オレはもう誰も失いたくねぇんだ」
「それがお前の本音か」
その時、ずっと黙っていたマスナガが、ふいに口を開いた。泣き崩れたハシモトの気持ちを代弁するかのように。
「……そうさ。わりぃかよ」
アサクラは認めた。悪を演じることに疲れたようだった。
すると、今度はマスナガが歩み寄ってきた。
ふたりの肩に、それぞれ手を置くと、おもむろにかぶりを振った。
「悪くない。だが、俺もアサクラの意見には反対だ」
「なんだ、結局お前も味方してくれねぇのか」
「味方だから反対するんだ。友を失いたくない気持ちは、俺たち三人、全員同じだ」
アサクラの瞳が揺れた。
それを隠すように空を仰いで、偽悪的な笑いを吐きだした。
「ハッ、ふたりして友達か。そんなガラかよ、オレたち?」
「そんなガラですよ! 友達ですよ!」
嗚咽を洩らすばかりだったハシモトが叫んだ。
いきおい上げた顔から、びろんと鼻水が伸びた。『れんずなしめがね』のTシャツに、それは短い橋を架けていた。
「うわ、きたねぇ!」
アサクラは、たまらずその頭を押しやった。
「これ、サバエで買った限定品だぞ!」
「知りませんよ! 洗えばいいじゃないですか!」
「ここの水、糠水だろうが!」
「ミネラルウォーターなら、まだ余ってるが」
「そういう問題じゃねぇ!」
「んなこと話すために、ここ来たのかい?」
くだらない口論を、しわがれ声が断ち切った。
三人は同時に、声のほうへふり向いた。
鉄扉の前にハツが立っていた。腰に手をあて、顔をしかめながら。
「気が済むまでとは言ったが、叫んでもいいとは言ってないよ」
そして、開けっ放しの鉄扉を親指でさし示した。
「バカ騒ぎはここまでにしときな。中の連中にどやされたくなきゃあね」
だとよ、とアサクラはふたりに肩をすくめてみせた。
一拍を置いた後、マスナガが頷いた。
ハシモトは頷いたのか、俯いたのか、わずかに顎を引いた。
「とりあえず、一晩考えようぜ」
今度はアサクラがふたりの肩に手を置いた。
「そしたら考えが変わるかもしれねぇ。お前らも……オレも」
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