二七、選択せよ
「ぼくたちは〈クラブラザーズ〉から逃げてきました」
「みたいだね」
「ぼくは、フクイへ来たばかりなんです。だから、こっちのことはよく分からなくて。でも、なんとかするしかなくて戦ってきました」
「立派なもんだ」
「とんでもないです。そんなことができたのは多分、なんとかなるって希望があったからですから。ぼくたちにはゴールがあった。三人一緒に〈オオノ〉へたどり着くって、ゴールが……」
サトちゃんが見つかり、あとは傷が治るのを待つだけだった。
ゴールまでの道筋は、もう
しかしここに来て、アサクラは別の道を選んだ。
「……アサクラさんは〈フクイ解放戦線〉で戦いたいそうです」
「だと思った」
「それが、とても辛いです。一緒に〈オオノ〉へ行くんだって思っていたので。でも、アサクラさんの気持ちもわかるんです」
「だから、あんたは遠慮して、あいつを責めないのかい?」
「責める? そんな権利なんてぼくにはないですよ」
吹けば飛びそうな笑みを、ハシモトは浮かべた。
ハツは目を眇めた。
そんなことはない、とハシモトの言葉をきっぱり切り捨てた。
「あんたは責めたいと思ってるんだよ、本当は。でも、あいつを傷付けて、自分も傷付きたくないだけなんだ。権利なんてそれっぽい言葉で、逃げてる自分を正当化しようとしてるのさ」
「そんな……ッ! 責めたいだなんて、逃げてるだなんて、そんなこと……あ」
ハシモトは腰を浮かせたが、その怒りが、頬を伝った熱い感触が、まぎれもない嘘の証左だった。
「あ……っ」
膝から力がぬけ落ちて、たまらず顔を覆った。
自分の醜さを誰にも見られたくなかった。
前を見えないようにして、自分自身、その事実に気付かないようにした。
涙はとめどなく流れた。
ハツがその肩にそっと手を置いた。
「あいつは約束を破ったんだろ? なら責められるのは当然じゃないか。責めたいって気持ちが湧いてくるのなんて当たり前じゃないか。あんたは、それだけあいつに期待を寄せてきた。信じてきたんだ」
「でも、アサクラさんはきっと苦しんで選んだんです。無責任に選んだんじゃないんです」
ハシモトは涙を拭い、ほとんど相手を睨みつけるようにした。
ハツはその眼差しを、真っ向から受けとめてくれた。
「それでも、あんたの気持ちを否定することなんてできるわけがない。だからあんたは、自分の気持ちと向き合わなくちゃいけない。そして選択しなくちゃいけないよ」
「向き合って、選択?」
ハシモトは虚を衝かれたように、口をひらいた。
「あんたが今どうしたいか、選ぶのさ。あいつが、あんたたちを裏切ってでも戦うことを選んだようにね」
「ぼくが選ぶ?」
「当たり前じゃないか。誰かの人生は、べつの誰かの人生と繋がってる。だから幸せに笑うこともあれば、しがらみに悩むこともある。でも、いつだって最後に歩みを進めるのは、そいつ自身。つまり、あんたの人生を歩めるのは、あんただけなんだ。あいつを悲しませないように逃げるのも、あいつの迷惑を無視して一緒に戦うのも、あんたが決めることだ」
戦う。
その響きに、ハシモトはこめかみを殴られたような衝撃を味わった。
アサクラは自分の手の届かないところへ行ってしまう。
そうとばかり思っていた。
アサクラやマスナガの決めたことが、ずっと自分の進むべき道だったから。
けれど、違うのだ。
どんな場面にも選択肢というものは無数にある。
これまでアサクラやマスナガの決めたことに、抗う選択肢もあった。
にもかかわらず、ハシモトはここにいるのだ。
「ぼくの進みたい道は、ぼくが選んでいい……?」
「当たり前だ。逃げたけりゃ逃げりゃいいけどね。べつに恥ずかしいことじゃないんだから。でも、戦いたけりゃ戦ったっていいんだ。誰が嫌がろうと、あんたを止めることができるのは、あんた以外のどこにもいないんだから」
衝撃が再三ハシモトを殴りつけた。
それは頭の芯に響いて、記憶の扉をノックした。
『お前を踏みださせることができんのは、お前だけだ』
いつかアサクラの言っていた言葉が、記憶の中からこぼれ出た。
胸の奥から力が湧いてきた。
だが、それは同時に恐怖をも呼び起こした。
自分を励ましてくれるのも、またアサクラだったから。
「ぼくは、選べるでしょうか」
「選ばなくちゃいけないよ」
そう言ったハツの声は厳しくも優しさを伴っていた。
「後悔しないために。後悔は長い間、ともすれば永遠に自分の背中について回る。他人を許すのだって難しいが、ときに自分を許すのはもっと難しいんだ」
「……後悔」
そうだ。ずっと後悔してきた。
フクイへやって来て、必死になって、やっと後悔をひき離した。
でも、今のぼくは必死じゃない。
必死にならなければ、また後悔に追いつかれてしまう。
「そんなの、嫌です」
「じゃあ、自分と向き合うことだ」
きっぱりとハツは言ってくれた。
『足跡を数えろ。歩んできたことを誇れ。そうすれば、必ずまた前に進める』
かつてアサクラも、そうやって自分と向き合ってくれた。
「……わかりました」
ハシモトは頷いた。
瞑目し、この足で歩んできた過去に思いを馳せた。
ボルガライス店のスタッフやコシノ・ヒカリ。
サトちゃん、どこの馬の骨とも知れぬ自分たちに懇意にしてくれた酒屋爺。
〈クラブラザーズ〉に人生を狂わされたマスナガ。
そして、いつも目の前を歩いていたアサクラ――。
沢山、感じたことや決断したことがあった。
かつての自分からは想像もつかない無茶をしてきた。
思い返してみれば、危なっかしくてヒヤヒヤさせられる体験ばかりだった。
そのどれもが、前に向きなおる力を与えてくれた。
この道を歩んできたのは、他の誰でもない自分自身だから。
じゃあ、ぼくは逃げるのか、戦うのか?
一体、どっちの道を選ぶ?
どっちの道を選んだなら、全力になれるだろうか?
「……」
今、この場で答えを出すのは簡単なことではなかった。
そう易々と答えが出せるのなら、こんなにも悩んではいない。
それでも、闇雲に結果を追い求めようとするより、ふと立ち止まり振り返ってみたほうが、少しだけ答えに近付いたような気はした。
瞼をひらくと、目の前にハツの眼差しが待ってくれていた。
「どうだい、心境の変化はあったかい?」
「すこしだけ」
「そうかい。ま、決めるのはあんただが、あいつらと話し合ってみるのもいいだろうさ。今日はきっと星がきれいだ」
ふいに不可解なことを言って、ハツが黄昏にまどろむ空を仰いだ。
「星、ですか?」
「夜中にここへ来ると、よく見えるんだ。今晩は貸切にしといてやるよ」
「え、良いんですか?」
「構わないよ」
「でも、どうして、そこまでしてくれるんです?」
その問いに、ハツはすぐには答えなかった。ハシモトの目を覗きこみ、ゆっくり二度瞬くと、ようやく言った。
「あんたのことはよく知らないけどね、あんたを助けることがアサクラを助けることになるって、そう思ったからさ」
「アサクラさんを?」
「アタシも後悔してんのさ、あいつが言ってた……シバのこと。あの場に、もっと早く駆け付けられてたらって、思わずにいられないんだよ」
「それは……」
ハツさんの責任じゃない。そう言いたかった。
けれど、言えなかった。
不思議と言葉がつっかえて出てきてくれなかった。
「ま、そんなことはいい。そろそろ戻ろうか」
ハツも慰みなど望んでいないのかもしれなかった。
すっくと立ちあがれば、もう歩きだしていた。
「……」
あるいは、それも彼女なりのメッセージだったのだろうか。
あんたが悩むべきことは、アタシのことじゃない。
有無を言わせぬ背中は、そう語りかけてくるようにも感じられた。
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