二六、茹でガニの赤色、出汁の赤色

 わずかに開かれた窓から射しこむ光と、ガスコンロから吐き出される炎が、音楽室の明かりである。

 窓際には無数の人影がひしめき、一様に、ぐつぐつと熱湯の煮立つ鍋のほうへ目を光らせている。

 そこに佇むものたちこそ、間もなく始まる儀式の主役だからだ。


 ハシモト、アサクラ、マスナガの三人である。


 彼らは、胸の前にカニの玩具を抱えていた。薄暗い室内では判別が難しいが、その色は錆に近しかった。


 すなわち、茹で上げられる前のカニに同じ。


 その精巧な作りは、本物のカニと見分けがつかないほどで、高温に晒されれば色まで変わるのだった。真っ赤に染まり、茹でガニの様相を呈するのである。


「これで、あんたたちが〈クラブラザーズ〉の手先かどうか一目でわかるってわけだ」


 ベートーヴェンの肖像画の下、ハツの双眸がコンロの明かりを残虐に照り返した。


 これより始まる儀式は、カニ茹での儀式。

 その名の通り、精巧なカニ玩具を茹でることで〈クラブラザーズ〉への背信を誓わせる、謂わば踏み絵であった。


「さあ、始めな」


 ハツが無慈悲な儀式の始まりを告げた。


 とはいえ、〈クラブラザーズ〉との接点など微塵もない、ハシモトとアサクラにとっては、ただの滑稽な儀式である。


 ふたりは躊躇う素振りも見せず、熱湯にカニ玩具を沈めた。

 すると、そこに懐中電灯を手にした兵士がやってきて、中身を照らした。錆色のカニ玩具が赤く染まっていく様をまざまざと見せつけられた。当然、ふたりは、この無意味な行為に虚無感を募らせただけだった。


 問題は、最後のひとり。


「……」


 マスナガだ。

 メガネを移植され自我を蝕まれつつある男は、カニを抱いていても、やはり眉ひとつ動かしはしない。


 だが、内心なにを感じているかは、ハシモトたちにも判断がつかなかった。


 マスナガが〈クラブラザーズ〉を裏切り、銃を手に戦ってきたのは事実でも、このカニ茹での儀式は、細胞の一つひとつにまで刻み込まれた組織の教えに訴えかけるものなのだ。

 心がすでに〈クラブラザーズ〉から離れていても、反射的にカニ茹でを躊躇する可能性は十分に考えられた。


 鍋からカニ玩具が引き揚げられ、いよいよマスナガの番がやってくる。

 ハシモトたちは固唾を呑んで成り行きを見守った。


 マスナガが鍋に歩み寄り、煮立つ熱湯を見下ろした。

 腹を空かした魔物のように、ぐつぐつ音をたてていた。

 そこにカニ玩具を抱えた腕が伸ばされた。

 やるのか、もう落とすのか――と窓際の影が囁いた。

 次の瞬間、カニ玩具が落下した。


 ちゃぽん。


 一瞬の出来事に、兵士が慌てて中を照らした。

 カニが赤く染まっていく。

 マスナガは目を逸らさない。

 背信の苦しみに悶えるどころか、むしろ虚ろな深みを増していくようだ。いっそ超然とした印象すら覚えた。まるで、リクルートスーツを着た現代の仏だった。


「……すごい」

「ぴくりとも動きやしねぇぞ」

「あいつ本当に〈クラブラザーズ〉の人間だったのか?」


 音楽室にわだかまる闇の中、次々と感嘆の呟きが湧きたった。

 鍋の中で弾ける気泡の音も、今や喝采のようだった。

 やがて、ハツが手を打ち鳴らした。


「いいだろう」


 それが音楽室の張りつめた空気を、たちまち弛緩させた。


「お疲れぇ」


 そこここで一挙に懐中電灯がともされた。


「何事もなくてよかったなぁ」


 先程までの張りつめた緊張はどこへやら、皆、その場に腰を下ろし談笑を始めた。

 すると、給仕らしき人物がやって来て、各々の前に油揚げの載った皿を置いていった。

 マスナガの許に油揚げを運んだのは、給仕ではなく黄色いバンダナを巻いた十五、六歳の少年兵だった。


「これ、一緒に食おうぜ!」


 油揚げの載った皿を地べたに置くと、バンダナ少年はマスナガの肩を上から押さえ込んで、さっさと座らせてしまった。


「あんたすげぇな。まさかカニ茹での儀式を、ああも容易く成功させちまうなんて」


 バンダナは相手の返事も待たず、尊崇の宿った目をぐっとマスナガに寄せた。


「前に同じことやって、泡吹いて倒れた奴がいたんだよ。だから本物なんだなって! そりゃあもう感動した――」


 一方、アサクラも何人かの兵に囲まれていた。


「連中の手先じゃないとわかって安心したぜ」

「なかなかいい身体つきしてんな」

「それより、すげぇ格好だ」

「お、おう。オレはアサクラってんだ。よろしく頼むぜ」


 やがて、全員に油揚げが行き渡った。

 音楽室は次第に宴会の様相を呈し始めた。


「驚かせて悪かったなぁ」

「……いえ」


 しかしハシモトは、このささやかな歓迎のムードを受け入れることができずにいた。

 もちろん、敵対したかったわけではない。疑いが晴れて、正直ほっとしている。

 けれど儀式が終わり、緊張が解かれたからこそ、あの言葉と直面せずにはいられないのだ。


『オレが一緒に行けるのは、ここまでだ』


 三人で一緒に〈オオノ〉へ行くのだと思っていた。

 誰かの心が変わるなんて、考えたこともなかった。

 アサクラの決断はれっきとした裏切りだった。


 でも……。


 どうして――とは思えなかった。

 約束を反故にされたことに怒りも感じなかった。

 アサクラの過去を聞いてしまったあとでは、彼を責める気持ちなど湧いて来なかった。

 むしろ――。


 ぼくも付いて行きます!


 そんな風に、声を上げられなかった自分に腹が立っていた。


「……あー、まあ、採れたての油揚げうまいから、しっかり食いなよ。それじゃ」


 声をかけてきた兵士は、相手が上の空だとわかると去って行った。

 独りになったハシモトは、そっと輪の中から抜けだした。

 今はアサクラたちと話す気にもなれなかった。


「どこ行くんだい?」


 人気のないところを探していると、またぞろ声をかけられた。

 聞こえなかったフリをしよう。

 そのまま立ち去ろうとすると、今度は肩を掴まれた。


「油揚げは口に合わなかったかい?」


 驚いて振り向けば、そこに立っていたのはハツだった。


「あっ、ハツさん。べ、べつに口に合わないとかではなく……」

「人気の多いところが苦手かい?」

「え、まあ、得意ではないですけど」

「じゃあ来な」

「えっ」


 どこへ?


 訊ねる間もなく手を引かれた。

 廊下の闇の中へ引きずり込まれた。


 ヤバっ……!


 とたんに恐怖が押し寄せてきた。

 教室での尋問が思い出されたのだ。


「あ、あの……!」

「心配しなくていい。何もしやしないさ」


 しかしその言葉どおり、ハツの握る手は優しかった。振り解こうと思えば、いつでも振り解けるほどに。


 そうか。この人は、アサクラさんの古い仲間なんだよな……。


 やや弛んだ手を見下ろして、ハシモトは、アサクラとハツの過ごしてきた歳月を想像した。

 すると、一度は抱いた恐れなど淡雪のように融けていった。


「足許に気を付けなよ」


 ハツはそう言うと、手を離し歩いていった。ハシモトはその背中を見失わないように、慌しく続いた。

 ふたりは窓際の細い明かりを受けながら、佇む人々の傍らを通り過ぎていった。

 その目許に、もはや馴染み深いメガネフレームが埋めこまれているのに気付いて、ハシモトは思わず声をあげた。


「さっきの人、メガネイターじゃ……」

「県知事システムの意向でね、アタシたちは手を組んでるのさ。システムはポンコツだけど、いざって時にメガネイターだけじゃ戦力不足だってことくらいは理解してるんだね」


 ひどい言い草に、ハシモトは苦笑した。

 だが冷静に考えてみれば、恐竜を野放しにして、メガネで県民を洗脳するシステムなど、まともでないのは明らかだった。

 その後もぽつぽつと言葉を交わしつつ、ふたりは薄暗い廊下を進んで行った。


 やがて階段に差しかかった。

 そのてっぺんの踊り場に、古めかしい鉄扉が待ち構えていた。


「着いたよ」


 ハツが手をかけると、扉は重苦しく軋んだ。


「いまごろは、風が気持ちいいんだ」


 そして、闇の中に一筋の切れこみを生じた。赫々かくかくとした光が射しこみ、ハシモトはその眩さに慄いた。


「うっ」


 と同時に、額を撫でつけた風の優しさに陶然とした。

 濃厚な草花の香りが漂い、全身を抱きしめてくれた。


 ハシモトは恐るおそる瞼をもち上げた。

 すると赤い閃光の合間、あわい雲の帯が無数に浮かび上がってきた。

 そこに小さな黒いシミが過ぎった。

 それが鳥の影絵とわかる頃には、夕焼け空の鮮やかな色彩と、屋上に芽吹いた無数の命が、ハシモトに歓迎の手を拡げていた。


「これ……」


 吸いこまれるように、ハシモトは踏みだした。

 一歩ふみ出すたび、背の低い手型の葉がほおを撫でた。

 呼吸と競い合うように風が吹き、支柱に巻きついた蔦は節々に咲いた花々を揺らし笑った。


 ハシモトはぴちゃぴちゃと足音を鳴らしながら進んだ。

 草花の間にった、油揚げの垂らした出汁がたてる音だった。

 味気ない灰色の地面は、夕焼けを反射した出汁によって真紅に彩られていた。


「厚揚げの、実ですか?」

「こっちでは油揚げって呼ぶよ。野生へしこと同じで、昔いろいろあって実が生るようになったんだ」

「すごい。さっき振る舞われてたのも、この?」

「そうさ。市街には隠れ潜んで生活してる市民もいる。だけど、カツヤマはやっぱり恐竜が多いからね、都市部のように生活するのは無理なんだ。ある程度は、こうして自分たちで賄ってかなくちゃならない」


 ハツは仕切りの設けられた草花の間をすすみ、屋上の隅に鎮座した重機関銃の近くに腰を下ろした。


「ん」


 隣をぽんぽんと叩いてみせるので、ハシモトはそこに腰を下ろした。


「あの、よかったんですか?」

「なにが?」

「宴会、みたいな雰囲気でしたけど」

「いいんだよ。アタシもあまり乗り気じゃなかったから」

「……」

「それよりあんた、アサクラとケンカでもしたのかい?」

「いえ……」


 ハシモトはすぐにかぶりを振った。

 ケンカでは、ない。

 そんな簡単なものではなかった。

 ハシモトはふと空を仰ぎ、三人で目指してきた、〈オオノ〉の姿を探した。

 しかし今は角度の所為なのか、どこにも見てとることができなかった。


「話してみな」


 と、ハツは言った。

 そのハスキーボイスを聞くと、不思議とすべてを打ち明ける気になった。

 小さく息を吐いてから、ハシモトは語りだした。

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