十二、へしことプテラノドン

 瞼を透かして光が射しこんでくる。顔をしかめたハシモトは、眠気眼をこすり、薄らと瞼を押し開けた。


「んん……」


 実を言えば、すこし前から目は覚めていた。

 腹が減って、満足に眠ることもままならなかった。


 フクイに来てからというもの、米粒ひとつ口にしていないのだ。腹の中を絶えず炙られているような心地がする。布団もクッションもなく、パチンコ台に寄りかかっていた所為で腰もケツも痛むが、今はふかふかのベッドよりも、胃を満たすもののほうが恋しい。


「メシ持ってきたぞ」


 だからこそ、バリケード代わりのパチンコ台を押しのけ、バケツを掲げて現れたアサクラの姿が、奇怪な神や仏のたぐいに見えたのも無理からぬことだろう。

 身体の向きを変えパチンコ台を元の位置へもどすとき、Tシャツに書かれた文字が見えなければ、跪拝きはいし涙を流していても不思議はなかった。


「運が良かったぜ。隣に酒屋やってる爺さんがいてよ。釣り竿貸してくれたんだ。大漁だぜ、大漁」


 アサクラが近くにやって来てバケツを下ろすと、中でピチピチとなにかが跳ねた。

 期待に唾を呑みこんだハシモトは、頭を突っ込まんばかりに中を覗きこむ。


「えっ……」


 そして、とたんに色を失うのだった。

 そこには泥を融かしたような、ひどく濁った水が張られていたからだ。

 しかも、鼻を刺す強烈な腐敗臭を発しているではないか!


「うわ、くっさぁッ!」


 思わず飛び退いたハシモトは、恐るおそるバケツを指差した。


「なんですか、これぇ……」

「へしこだ」


 乱雑に置かれたパチンコ台の陰から、ぬっとマスナガが現した。

 汚い水に躊躇なく手をつっこむと、中のものを掴みあげた。


「うわあっ!」


 それを見たハシモトは悲鳴をあげ、後退ったいきおいでパチンコ台に頭をぶつけた。

 だが、痛みより恐怖が勝っていた。


「へしこって、いや、それ……」


 ハシモトの知る限り、へしことは、フクイ県ワカサ地方の郷土料理のはずだった。青魚を塩漬けにし、さらにそれを糠漬けにしたものをそう呼ぶのである。

 しかしそれは、


「動いてますよ! 生きてる!」


 まるで、生きた魚のようにピチピチと跳ねているのだ!

 しかも、尾もなければ頭もなく、それどころか半身もない。

 切り身だ。切り身なのだ。

 切り身が糠の融けた水をまき散らしているのだ!


「そんなに不思議か?」


 にもかかわらず、マスナガは表情なく首を傾げると、生きたへしこにかじりついた。

 アサクラも一尾とりだして、さもうまそうにかぶりつく。

 ますます怖気づいたハシモトは、しきりに二の腕をさすり始めた。


「不思議っていうか、気味が悪いですよ! タコの足が動いてるのとはわけが違う! 切り身が動いてるんですよ! しかも、しっかり漬かってる!」


 うるへぇな、とアサクラは顔をしかめる。へしこを呑みこむと、次のへしこを求めて糠水に手を突っ込んだ。


「お前、魚の踊り食いしたことねぇのか?」

「ありますよ。でも、それ調理されてるじゃないですか!」

「調理っていうかなぁ、こういう生き物なんだよ」

「……」

「とにかく食ってみろって。腹減ってんだろ?」


 アサクラは次の獲物を探り当てたらしい。バケツの底をさらい引っこ抜いた手には、へしこが捕らえられていた。

 ん、と差しだされる奇怪な生き物から、ハシモトは思わず顔を背けた。


「うえぇ……」


 やはり、それはピチピチと跳ねている。

 切り身にもかかわらず、跳ねている。

 糠が顔にかかって、くさい。


「これ、本当に食べられるんですね? 身体に異常がでたりしませんね……?」

「アレルギーとかなけりゃな」

「信じますよ……!」


 ハシモトは顔を背けたまま、おずおずとそれを受けとった。

 ぬらりとした感触が手の中で暴れる。切り身だというのに活きがいい。しっかりと握っていなければ逃げていってしまう。


「う、うぅ……きもちわる……ッ!」


 横目に映るうごめく切り身。

 とてもうまそうには見えなかった。

 そもそも食べ物に見えなかった。


 だがしかし、アサクラとマスナガは、うまそうにへしこを頬張っている。

 食べられるのだ。

 食べても問題ないのだ。


「わああああああ!」


 ハシモトは意を決し、生きた切り身にかぶりついた!

 とたんに、凄まじい生臭さと糠の香りが鼻腔をつき抜けた!


「うぅ……!」


 強烈なにおいに、頭がくらくらした。

 意識が飛んでしまいそうだった。

 それでも、へしこに口の中で暴れられると、生物としての本能が刺激された。空腹がそれを後押しした。


「んぎゅ……ッ!」


 ハシモトは犬歯を突きたてた! 動く切り身を噛みちぎった!


 ビチチ!

 痙攣するへしこ。


 だが、それもすぐに動かなくなる。なにが命の源だったのか――どうやら絶命したようだった。

 それに安堵したのも束の間、たちまち口中を塩味の爆撃が襲った!


「うえぇ! しょっぱ! なんですか、これ……!」


 たまらず口の中のものを呑みくだし舌をだすと、アサクラがパチンコのドル箱を差しだしてきた。

 中に液体が揺れていた!

 ハシモトはドル箱をひっつみ、一息に中身を飲み干した。


「ゲホ! ゲホッ! オエッ!」


 そして咽た!

 液体を飲んだ瞬間、喉が焼けるような熱を帯びたのだ!


「こ、これ、酒じゃないですか!」


 ハシモトは涙目になって、アサクラを非難した。

 しかし奇天烈ファッションモンスターには、非難も酒の肴になったようである。謝るどころかゲラゲラと笑いだし、小ぶりなへしこを口中に放り込んだ。


「マスナガさん」


 憤慨したハシモトは、もうひとりに助けを求めたが――。


「うまいぞ」


 こいつもすでに酔っているのか、新たなへしこを差し出してくる始末。

 話の通じる人間など、ここにはいなかった。


「はあ……」


 酔っ払いとのケンカほど無益なものはない。

 怒るのもバカバカしくなったハシモトは、仕方なく残る切り身を口の中へ放り込んだ。


 絶命してしまえば、ただのしょっぱい切り身だった。

 さすがに、これだけでは喉が干からびそうなので、やむなく苦手な酒と一緒に流しこんだ。そして、驚きのあまり目を剥いた。


「ん」


 ふいに、涼やかな風に吹かれた心地がした。

 薄暗い店内に、熟れた果実をみのらせた果樹の森の光景が重なって見えた。

 円やかな甘味が、舌のうえをさらりと流れていく。それはへしこの塩味と融け合って、しかし雑味など露も残さず、旨味だけを抽出して胃の腑へと落ちて行った。


「んん……!」


 その幻想的な体験に、ハシモトは思わずへしこの強烈なにおいを探した。

 だが、どこにも見つけることはできなかった。

 リンゴを切ったときに似た甘い香りが、爽やかに鼻腔を抜けていくばかりだ。

 それすらも、だらだらと舌や鼻腔に留まることはなく、上品な酸味の風にさらわれ消えた。


「……うまい」


 ハシモトの口から、感嘆の呟きがこぼれた。

 もう一度、あの魅惑の森へもどって、風に吹かれたい。ハシモトは心からそう思った。

「獲れたてのへしこと〈コック龍〉が合わされば、向かうところ敵なしよ」


 そこにアサクラが新鮮なへしこを手渡してきた。

 ハシモトはもう恐れなかった。

 躊躇なくへしこにかじりつき、ドル箱の日本酒を呷った。



――



 パチンコ店を出ると、道路の向かいの水路に目が留まる。

 流れているのは糠水で、時折そこに拡がる波紋は、へしこが棲息している証である。

 しかし、かつての水路には清冽な水が流れていた、と突然マスナガは語りだした。


「俺がまだ子どもの頃、メガネイターもいなかった頃の話だ。カツヤマに第二恐竜養殖場が建設されて、それが後の、野生へしこ発生の引き金になった」

「へぇ、なるほど」


 ハシモトは釣り竿をしごきながら、てきとうな相槌を打った。内容はなに一つ理解できなかったが、フクイでは不明な事柄にいちいち意味を求めていては、いくら時間があっても足りない。


「まあ、一言でいえば爆発したわけだ」


 釣り針にへしこ用の餌をとりつけながら、ハシモトは片眉をあげた。


「へぇ、爆発ですか」

「恐竜養殖のために使用していた何らかの化学物質が、それで飛び散った。その時、たまたま近隣の住居で漬けていたへしこと化学反応を起こして、異常増殖、野生化の流れに至ったわけだ」

「意外に単純な経緯なんですね」


 水路に釣り糸を垂らすと、マスナガは沈黙した。へしこに気配を悟られまいとしたわけではないだろう。単に話の接ぎ穂を失ったのだ。


 だが、そもそも。

 マスナガはどうして急に、へしこ誕生の経緯を語り始めたのだろうか?


 ハシモトは少し頭をひねってみたが、すぐ面倒になってやめた。酔いのせいか、集中が長くもたない。


「……実はこの話には裏があって」


 だからなのか、マスナガがふいに続きを語り始めたからなのか、竿が引かれているのに気付くのが遅れた。


「わっ!」


 ハシモトはとっさに竿をひきあげた。

 幸い、釣り針には切り身がかかっていた。

 ほっと胸をなでおろすと、ハシモトはへしこをバケツに放り込んだ。

 どうやって釣り針にかかったかは、あえて考えないことにした。


「それで、マスナガさん、さっきの話……」


 そして話を促そうとして、やめた。

 マスナガの肩越しに、ピンクの何かが垣間見えたのだ。古民家の屋根が連なる薄茶けた風景の中で、それは明らかに異質に映った。


「ねぇマスナガさん、あれなんでしょう?」


 それを指差し、ハシモトは目を凝らした。

 ピンク色のなにかは、風ではためく旗のように、時折、屋根の陰から翻って景色に明るみ差しているようだった。

 やがてマスナガもそれを認めたらしく首を傾げた。


「見に行ってみるか」

「大丈夫ですかね?」


 ハシモトは背中のショットガンを指でなぞった。恐竜がでたら躊躇なくぶっ放せ、とアサクラから借り受けたものだった。

 マスナガが拳銃をとりだして答えた。


「ヤバそうだったら、適当な家に入れてもらおう。恐竜は建物を壊さない。屋根の下に入ってしまえば安全だ」

「じゃあ、ちょっとだけ……」


 その言葉にいくらか安堵して、ハシモトはあのピンク色の正体を確かめに向かうことになった。


「……」


 市街地は静まり返っていた。

 聞こえてくるのは自分たちの足跡と息遣い、あとは鳥の囀りくらいで風すらも吹いてはこなかった。


 だが、ここはカツヤマ市。

 恐竜養殖場をはらむ土地である以上、どこから恐竜が現れても不思議はなかった。そもそもここは、あのカツヤマ橋から数百メートルと離れていなかった。


 ハシモトは常に銃口をあげ、数歩すすむ度に立ち止まって、あたりを注視した。マスナガも油断なく背後に目をやって、糠水を跳ねるへしこの音にさえ、いちいちストップをかけた。

 そんな遅々とした歩みにもかかわらず、例の場所にはすぐたどり着くことができた。


「マスナガさん、あれ」


 道の一郭に、瓦や木っ端の散乱した場所を見つけたのだ。

 ピンクの物体はその真上、古民家の屋根に埋まっていた。

 それを認めた瞬間、ハシモトたちは銃口を跳ね上げていた。


「ッ!」

「ガグ、ァ……」


 その正体は、恐竜だったからだ。


「え、えっと……」


 しかしハシモトもマスナガも、引金に指をかけたまま弾を放とうとはしなかった。


「グア、グァ……」


 ぐったりと項垂れ、みじかいリズムで肌を上下させる、その姿を憐れに思ったからではない。

 その鋭くながいクチバシ、屋根に広がった翼が、あの日食を見て以来、自分たちの追い求めてきたものに相違なかったからだ。


「プテラノドン、ですよね……?」

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