十一、パイナップルキス
巨体から放たれた、凄まじい大音声。
ハシモトは、毛穴の一つひとつにまでその音が突き刺さるのを感じた。
さながら四方八方に飛び散る刃。
静寂は無論のこと、恐竜たちの意識を覆った純白さえ、それは切り裂いたのだった。
「グアァ……」
「や、やべぇぞ……」
ティラノサウルスの尾が地を払い、アサクラが半歩退いた。
ハシモトは折れそうになる膝を伸ばすので精一杯だった。後退ることさえままならない。
パァン!
そこに銃声が轟いて、ふたりは跳びあがった。
驚きのあまり背後を振り仰げば、マスナガが天に向けて銃を構えていた。
マスナガは、やおら銃を顔の前にまで下ろすと、泰然たる態度で硝煙を吹いて消した。そして、その仮面じみた顔つきで、ふたりに頷きかけたのである。
「ビビってる暇はない。進むぞ」
ガラス玉じみた瞳に、煌めく一点の光があった。
マスナガの歩んでこなかった「もしも」が
それが恐怖に翳ったふたりの道を照らしだした。
自分たちは、なぜここまで来たのか?
自問がカッと燃えあがり、足許に沁みる恐れを蒸発させた。
「クソが。いまさら戻れやしねぇか」
「休みたいですけど、まだ死にたくはないですね……!」
ハシモトは次のフラッシュバンを手に取った。
それを合図に、三人はふたたび駆けだした!
ギガノトサウルスの殺気が、ぞわりと空気を歪ませた!
「ゴオオオォォォオオオォオオオオォォオオッガ!」
踏みだした一歩が地鳴りとなり、その震撼は橋の隅々にまで拡がって、今度こそ恐竜たちの意識を呼び起こした!
「――――――――――――――――――――ッ!」
咆哮が怒りの坩堝と轟きわたる!
未来にいどむ三人の前後から、絶望の化身が叫喚をともない押し寄せる!
「もういい! 投げろハシモト!」
ハシモトは音の嵐の中から、その声を拾いあげた。
ギガノトサウルスとの距離はおよそ三十メートル。
まだ少し離れてはいるが、有効範囲内。
地を蹴る足は止めぬまま、フラッシュバンを振りかぶる! 放物線を描き、円筒が飛ぶ!
「ゴオオオンッ!」
その時、ギガノトサウルスが急制動! 片足を踏みしめ、橋上に蜘蛛の巣状の亀裂を刻んだ! さらに、その足を軸に回転することで、尻尾を真横に振り抜いた!
「なっ……」
ハシモトは凝然と立ち尽くした。
恐竜の尾が、フラッシュバンを天高く打ち上げたのだ。
「バカ! 伏せろ!」
ハシモトの首根っこを、マスナガが掴んだ。ほとんど頭突きの勢いで互いの耳を重ね、もう一方のハシモトの耳も手のひらで押さえつけた。
「うおあ……ッ!」
押し倒されたハシモトは、一瞬、鼓膜を刺した鋭い音にのけ反ったものの、地面に鼻づらを打ち付けた痛みで、かろうじて意識を繋いだ。
「――ッ!」
激しい耳鳴りの中、マスナガがなにかを叫ぶ。
忌々しげに頭を振ったギガノトサウルスが、こちらへ向きなおるのが見えた。
「ファアアアッゴ……」
その目が、はっきりと三人の姿を認めた。
ふたたび巨体を揺らし迫りくる!
「止まるな、走れ!」
マスナガが叫んだ。
ハシモトは流れる鼻血を拭いもせず、転がるように駆けだした。
三本目のフラッシュバンを手に取ると、
「投げるな!」
耳鳴りを破ってアサクラの声がした。
「また尻尾で弾かれたら終わりだ! 伏せてる間に食い殺されるぞ!」
ハシモトは慄然とし、覚束ない足を気力で速めた。
しかしギガノトサウルスが向かってくるのは正面だ!
「ゴオオオオオオオオオオオオオオオオオッガ!」
怪物の巨大なあぎとが開かれる!
「跳べえええええええ!」
アサクラが叫ぶ!
三人は二手に分かれ、真横へ跳ぶ!
「うおおおおああああああああッ!」
超重量からもたらされる風圧が、あたり構わず吹きつけた! 直前までハシモトたちのいた空間を無数の牙がひき裂いた!
力なくごろごろと、歩道を転がる三人。
それを、怪物が間近から睥睨する。牙の隙間から濁った蒸気が吐きだされ、それは嗤ったように見えた。
しかし矮小な人間たちは、無敵の恐竜と最接近したこの一瞬、恐れに縮み上がることなく、むしろ反撃の牙を剥いた。
パン! パン! パン!
刹那、三発の銃声が鳴り響いた!
一発が爪にはじかれ、一発が鱗から血をしぶかせ、そして一発が琥珀色の眼を真紅に染めあげる!
「ギエラアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアッ!」
耳を聾する絶叫が、マスナガの拳銃から立ちのぼる硝煙を吹いて飛ばした!
ドム!
間髪入れず、反対側でショットガンが吼える!
無数の弾が、眼球を惨たらしく抉る!
「ギョラアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアッス!」
だが、それも断末魔の叫びとはならない。
怪物は倒れることなく、憤怒と激痛に暴れくるい、尾でアーチを破壊し、ティラノサウルスの胴体まで強か打ちつけて橋の下へ叩き落したのだ。
「ふたりとも無事ですかッ……!」
間一髪、その破壊の嵐から三人は逃れていたが、その時、ふいに怪物の動きがぴたりと止んだ。巨大な鼻先が上下した。
「ギガノトサウルスの嗅覚は鋭敏らしい」
メガネフレームを瞬かせマスナガが言った。
血まみれの相貌が、ゆっくりと三人へ向き直る。
「ま、まだ追いかけてくるんですか……?」
「みたいだな!」
「ゴオオオオオオオオオオオオオオオオオッガ!」
三人同時、踵を返して駆けだせば、またぞろ怪物も動きだす!
大きく左右にふらつき、アーチの支柱を粉砕しながら、死の巨影が迫りくる!
「やべぇぞ! お前ら、こっち来い!」
歩道にいたハシモトたちは、アサクラの一声で、橋のど真ん中にまでとび出す!
支柱がまたひとつ打ち砕かれ、瓦礫が歩道に降り注ぐ!
跳ねた瓦礫がハシモトの肩を打つ!
「うが……ァ!」
アサクラとマスナガが、ハシモトを抜き去った。
またひとつ支柱がへし折れ、ギガノトサウルスの叫びが背を叩いた。
肩を押さえ、体勢を立て直すハシモト。
「はぁ……! はぁ……!」
しかし、遅れまでは取り戻せない。
焦りが足許を狂わせる。
足と足が絡み、あわやハシモトはつまずきかける。
その影を、巨大な影がすっぽりと覆う。
やばい、逃げられない……!
首筋に恐竜の熱い吐息がかかり、胸の真ん中にすとんと諦念が落ちてきた。
焦りや恐怖より悔しさが勝った。
思わず、固く目をつむった。
「「ハシモトおおおおおおおおおおッ!」」
その時、暗闇の中に、自分を呼ぶ声が響いた。
瞼を叩きあげると、ほんの少し離れた場所に仲間たちが見えた。
感情表現に乏しいマスナガまでもが、顔をしかめハシモトを見ていた。
「ハシモトおおぉおぉぉおおぉぉぉおおおおおぉぉお!」
血が燃えあがった。
萎えかけた足に激しく熱が滾った。
爪先がカンと地を叩いた。
「ああ、ああああぁぁあああぁああああぁぁぁぁああああッ!」
ゴールテープを切る陸上選手よろしく、ハシモトは胸を張った。
背中を牙がかすめた。
「ッ!」
ハシモトは地面を転がった。
もはや駆けだそうとはしなかった。
背後へと向きなおり、腰に手をやったのだ。
「おい、なにしてんだ! 走れッ!」
無謀な行動を、アサクラが咎めた。
ハシモトは構わず、ピンを抜いた。
そして、たたらを踏んだギガノトサウルスへ向け、手中のそれを投じた。
大きく弧を描いて飛んだ、それは
小さなパイナップルのような――
爆発物を使ってみたいという不純な動機から、こっそり忍ばせていた代物だった。
コンッ。
しかしそれは、ギガノトサウルスの背に当たると、斜めに跳ね上がった。
宙に紅蓮の華が咲いた。
その花弁がギガノトサウルスの背中にキスをした。
「ゴア、ァ?」
「ちくしょうがッ!」
アサクラとマスナガがとび出した。
恐竜目がけそれぞれの銃をぶっ放した。
パン! パン! パン! ドム!
巨体が仰け反った。
「ギエラアアアアアアアアアアアアアアアアアアアア!」
潰れた瞳が、怒りに血を噴いた。
地団太が、橋全体を揺らした。
鼻先がぴくりと震え、見えざる視線が三人を貫いた。
……バキ!
その時、怪物の真横で何かが砕けた。
カツヤマ橋アーチの支柱だった。
またぞろバキ、と音がした。
支柱の表面に巨大な亀裂がはしった。それはピシピシと悲鳴をあげながら、縦横無尽に伝っていった。
「ゴア……?」
怒りに囚われたギガノトサウルスも異変に気付いた。
だが、その時にはすでに、
グン、ギギギギギ――!
アーチの影はゆがみ、傾き始めていた。
「走ってぇ!」
ハシモトは声を張りあげ、仲間たちの背中を叩いた。
それがアサクラとマスナガの意識を殴りつけた。
ふたりはハシモトを一瞥し、すぐさま踵を返した。
互いが、互いの脇腹に手をまわし、三人は走った!
「ギイイイイエオオオオォォォ……ッ」
その背中から、この世の終焉のごとき破砕音と断末魔が押し寄せる!
それはたちまちアーチの残骸に、橋の石塊に、大質量のもたらす衝撃波に変わった!
「うおおおおぉあああぁぁあああああぁ!」
三人は力の限り地をけって高く跳んだ!
粉塵の荒波が三つの影を呑みこんだ。
なおも粉塵はもうもうと膨れあがり、破滅の残響を夜に染みわたらせていった。
やがて、そのあとに姿を現したのは、捻じれて折れ曲がったアーチ、四分の一が崩落した橋、橋上に飛散した様々な血肉だった。
叫ぶものはひとつとしてなかった。
弱々しく吹く風だけに、かすかな笑い声が混じっただけだ。
むくりと身を起こしたのは、奇妙な身なりの男だった。
「……どうやら、オレたち生き残ったみてぇだな」
その隣で、またひとり男が立ちあがり、リクルートスーツの汚れを払った。
最後のひとりは、もはや疲れ果てた様子で、その場にへたりこんでいた。
「お前、ときどき無茶やらかすよな」
アサクラはハシモトを見下ろした。呆れて肩をすくめながら。
「さっきの手榴弾、アーチの支柱を狙って投げたんだろ?」
「あの恐竜、何本か支柱を壊してたので。きっと弱ってるだろうと思って。それより、あの、立たせてくれません? 腰抜けちゃって」
「あんだけハデにやっといてそれかよ。お前、キレるとなにしでかすかわからねぇタイプだ、なっ、と」
ほとんど抱えあげられるように、ハシモトは立ちあがる。
「かも、しれないですね。会社もキレてとび出してきましたし」
そこにマスナガがやって来て、肩をぽんと叩かれた。
「まあ、ハシモトの性格はともかく、あそこでギガノトサウルスを撃退できてよかった。あのまま鬼ごっこを続けていれば、きっと今ごろ、あいつの腹の中で眠るハメになっただろうし」
「だなぁ!」
アサクラが肩に腕を回して、ぐいと顔を寄せてくる。
「ありがとよ、ハシモト」
「助かった」
「えへへ……」
ハシモトははにかんで頭を掻いた。
膝が笑ったままで、まだ上手く歩きだせないその身体を、ふたりが支えてくれた。
そして、三人は前に向きなおった。
市街地を貫く大通りが延びていた。
「また上り坂ですね」
その頂には、ちょこんと月がのっていた。金の明かりが隣に浮遊する影を、くっきりと浮かび上がらせていた。
天空城〈オオノ〉。
あれが彼らの目指す楽園だった。
「まあ、ゆっくり行こうぜ」
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