二、死ぬか、メガネを埋めこむか?
「収容所……?」
ハシモトは半歩退き、ポケットからスマホを取りだした。
信じられなかった。信じたくなかった。
アサクラは狂っている。
なにせ、こんな身なりの男だ。
頭がおかしいから、戯言を言っているだけなのだ。
スマホを耳に当て、実家の母親に連絡を試みた。
しかし。
『おかけになった電話番号は――』
「ウソだろ……」
繋がらない。
ディスプレイを見ると、電波表示は圏外になっていた。
「――新幹線の線路が開通するところだった。そんな時に抗争が起きた。工事は中断だ。しかもな、近くにフクイティタンまで棲みだして……」
憮然としたハシモトの傍らで、腐敗したファッションセンスの男は、ぶつぶつと意味不明な呟きを垂れ流していた。
それが、いやに癇に障った。
「あああああああああああ!」
ハシモトは狂乱し、アサクラに掴みかかる!
と同時、構内が震撼した!
「あああ! あっあ、じ、地震……!」
ハシモトは我に返り、頭を抱えた!
揺れはすぐにおさまったが、
「うぎゃあああああああああああああああああああ!」
次いで外から、けたたましい悲鳴が轟く!
西口のガラス扉に血の塊が叩きつけられた!
「うわああああああああああ!」
ハシモトは、たまらずアサクラの身体にしがみついた!
「落ち着け。外をよく見てみろ」
悔しいが、冷静なものが近くにいると、すこし心が落ち着いてくる。
相手を押しのけるようにサッと身を退けた。
言われたとおり外に目をやって、瞠目した。
「な、なんですか、あれ……!」
街の中に、巨大な生き物の脚があったのだ。まるで、バオバブの木のようなずんぐりとした脚が。
全容を窺い知れないほどの。
途轍もなく、大きな生き物の、脚が。
「今度こそ、あれが駅前のモニュメントですか……?」
「モニュメントじゃねぇ。フクイティタンだ」
「フクイティタン……」
「ブラキオサウルスみてぇな首の長い恐竜だ」
頭にバチバチと電気が爆ぜた。
腹の底から笑いがこみ上げてきた。
「ハハ! なるほど、やっぱりモニュメントですね!」
「てめぇ、人の話聞いてんのか! あんなモニュメントあるわけねぇだろ! ホンモノだよ! 生きてんだ!」
「じゃあ、ガラス扉の赤いのはなんです!」
「血だろ」
「なんで!」
「通行人が踏みつぶされたからだ。見てわかるだろ」
わかるわけがない。
笑いは引いたが、眩暈がしてきた。
まず目の前の男が狂っているのに、外の状況はそれ以上に狂っているのだ。
このままじゃ頭がおかしくなる……。
ハシモトは危機感を覚え、頭を抱えた。
この状況を受け入れるのは、とても無理だ。このままでは心が壊れる。なにか方法はないか。稚拙な理論でいい。自分を納得させる方便は、ないだろうか――?
「あっ……」
追い詰められた末、ハシモトはある考えに至った。
正常をプラス、非常をマイナスと仮定することだ。
マイナスとマイナスは、かけ合わされてプラスになる。
ゆえに、アサクラもこの状況も、いたって正常な状態とすることができた。
「あれも、恐竜なんですね……」
「そうだ。モニュメントなんてねぇ。恐竜はいる。常識だ」
「常識……」
「今はわからねぇ事ばっかだろうけどな。いずれ慣れる」
「なるほど……いや、やっぱり慣れたくなんてないです!」
やはり、狂った仮説で納得するのは無理がある。
ハシモトはいきおい踵を返した。
「電車が出てるかもしれない。ホームに戻ります!」
その肩をアサクラが掴んで引きとめた!
「待て、ハシモト! さっき言ったろ」
「放してください、ぼくは帰るんです!」
「忘れたのか、オレの言ったこと!」
「うるさい! あんたの話を聞いてると吐き気がしてくる!」
「オレの息が臭うってことか!」
そうじゃない。
「とにかくぼくは帰るんだ! 邪魔するな!」
「おい! 落ち着けって、おい……」
アサクラをふり払うと、ハシモトはその場に崩れ落ちていた。目の前の柱に手をつけば、涙が溢れだしてくる。
そこに掲示された時刻表を見てしまったからだ。
電車は、どれもフクイの外には繋がっていないのだ。
「こんな、こんなの……」
震えるハシモトを、アサクラが助け起こした。
感情のやり場がないハシモトは、その襟首を掴んだ。
ジージャンの謎のトゲトゲが痛い。
相手の腕を掴みなおしてから、ハシモトは呟く。
「おかしいですよ……」
「ああ、おかしいさ。それがフクイなんだ。お前はたまたまフクイを見つけた気でいたかもしれねぇが、実際は、フクイのほうがネットを利用してお前を誘導してたんだからな」
ハシモトは耳を疑い、縋るようにアサクラを見上げた。
「どういう、ことです……?」
「スマホとか使うだろ」
「ええ」
「つまり、クッキーとか、なんかあれだよ」
「お菓子ですか?」
「違う。なんか、とにかく、あれだよ」
「なんで、ぼくなんですか!」
「知らねぇ」
アサクラは顔を背けた。
ハシモトは無理矢理その目を覗きこむ。
「なんで、なんでなんですか! 教えてください!」
「知らねぇっつてんだろ!」
突き飛ばされた。ショックだった。小学生以来、人に突き飛ばされたことなんてなかったから。
臀部に触れた地面が冷たい。
惨めだ。
ハシモトは嗚咽した。
「う、うぐっ……ぼくが、ぼくが何をしたって言うんですか……。普通に、ふつうにね、サラリーマンやってただけですよ?」
「……そうか」
「上司の機嫌を損ねないように、うまく立ち回ってきた。事務のババアの小言にだって嫌な顔ひとつしたことないんだ」
「そうか」
「飲みに誘われたら、絶対に断らなかったし。皆勤でしたよ。お酌して、飲めないのに無理やりお酒流し込んで。トイレ行って吐いたり……。なのに、その仕打ちが、ほげッ!」
突然、アサクラの蹴りが長々しい愚痴を遮った。
「うえ……ッ!」
ハシモトは顎を押さえ呻いた。視界がぐにゃりと歪んで、吐き気がこみ上げてきた。
何度もえずき胸をさすり、ハシモトは相手を恨めしく見上げた。
「な、何するんですか……!」
「お前がウジウジしてるからだ! お前はもうここで生きていくしかねぇんだよ! 弱音吐いてる奴は真っ先に死ぬぞ!」
「死んだっていい! こんなわけの分からないところで生き続けるくらいなら!」
そう言葉にしてから、ハシモトは自棄になっているのに気付いた。
死にたくないから怯えているのに、死にたいはずなどなかった。
だが、その言葉に衝撃を受けたのは、ハシモトよりも、むしろアサクラのほうなのかもしれなかった。
「……」
その瞳が、ひび割れたガラス玉のように見開かれていたのだ。
ハシモトは、ごくりと唾を呑みくだした。
次の瞬間、震えをもよおすほどの冷たい眼差しがハシモトを射抜いた。
「……ならお前、あんな風になりてぇか?」
そして、券売機前でモップ清掃にいそしむ駅員を指差したのである。
「え」
謎めいたアクションに、ハシモトは当惑した。
何を言いたいのか理解できなかった。
あのメガネをかけた駅員に、なにかおかしなところがあるだろうか。慣れた手つきでモップを前後に動かしている、それだけのことでは?
「えっと……」
「メガネかけるのかって言ってんだッ!」
今度は突然、怒鳴られ、ハシモトはますます混乱した。
改めてアサクラに対する恐怖を更新した。
やはり、狂気になにをかけても狂気には違いないのだった。
「あの、ぼく、視力は悪くないですけど……」
「そうじゃねぇ」
「じゃあ、なんですか」
「よく見てみろ」
アサクラは、またぞろ例の駅員に顎をしゃくってみせた。
釈然としないまま、ハシモトは従った。
だが、やはりただの駅員だ。
先程よりは、券売機前から少し遠のいたかもしれない。
要するに、清掃に勤しむ真面目な駅員のままだ。
ハシモトは観念して訊ねた。
「あの、どういうことですか?」
「目を見てみろ」
アサクラはシリアスだった。
口答えすれば何をされるかわからない、気迫があった。
仕方なく駅員を観察し続けるしかなかった。
メガネをかけている。
やはり、それだけ――のように思われたが。
「ん……?」
ふと違和感を覚えた。
ややあって、驚きに胸を衝かれた。
「あっ、立体感がない……!」
正体は、目の縁を覆ったフレームにあった。遠目からには判りづらいが、やけにのっぺりとしているのだ。まるで肌に直接描かれたマジックの線のように。
「あのメガネフレームは、皮膚に埋めこまれてるからな」
「埋めこまれてるだって!」
「ああ。お前はどうやってインターネット使う?」
インターネット?
突然の問いに、ハシモトは面食らった。
「えっと、パソコンとかスマホですけど」
「外ではそれが普通だ。だがな、フクイでインターネットを楽しもうと思ったらメガネがいる。脳と直接リンクしててな、文字を打つ必要もない便利な代物だ」
ハシモトは圏外のスマホと、駅員のメガネを交互に見比べ首を傾げた。
「それって良いことじゃ……? 見た目は不気味ですけど」
アサクラはぶんぶんと首をふり、鼻にしわを寄せた。
「メガネは、常に情報を発信しつづけてる。人間の意識では知覚できねぇが、無意識に命令を刷りこみ続けてんだ。サブリミナル効果みてぇに」
「ちょっとよくわからないんですけど。要するに、メガネが人間を洗脳してるってことですか?」
「大正解。メガネを移植した人間は、いずれ自我を失って、フクイに奉仕するだけの存在になる」
薄ら寒いものに衝き動かされながら、ハシモトは今一度、駅員を観察した。
その目はひどく虚ろだった。まるで、人形のように。
「あの人も、洗脳されてるんですか……?」
「大正解。オレたちは、連中をメガネイターと呼ぶぜ」
「メガネイター……!」
何とも、おぞましい名前だ。
また胸が悪くなってきた。
「死んだほうがマシだって言うなら、メガネを移植して心ゆくまでネットサーフィンするがいいぜ。ゆっくり自分が壊れていって、いずれメガネイターになれる」
「嫌ですよ、そんなの……」
「じゃあ、もう死にたいなんて言うな」
ぴしゃりと言われ、ハシモトは怯んだ。
意外に力強い眼差しに耐えきれず、外に目をやった。
ガラス扉の血は、駅員メガネイターによってきれいさっぱり拭われていたが、依然として恐竜の脚が佇んだままだった。
怖い……。
このフクイという土地は、何もかも解らないことばかりだ。
だが、解らないことばかりということを、ようやく解り始めてきた。
これまで生きてきた世界と決別を余儀なくされたことも。
ハシモトは両親の顔を思い浮かべ、友人との数少ない会話を反芻し、果ては上司や事務のババアすらも恋しく想った。
やがて、観念して頷いた。
その淋しく縮こまった肩に、アサクラが手を置いた。
「よし、じゃあ行こうぜ」
「え、行くってどこへ?」
「フクイのこと、ちょっとは調べたんだろ。なら、うまそうなメシのひとつやふたつ出てきただろうが」
アサクラは恐竜の脚がそびえる街に目をやった。
「任せとけ。オレがうまいメシ食わせてやるぜ!」
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