魔都フクイ

笹野にゃん吉

第一部 都会人収容所

一、アサクラとの出会い

 改札を出ると、恐竜が座していた。

 みどりの窓口横に設けられたベンチの上。白衣を身にまとった恐竜が、投げだした後足の間に前足を垂らし、虚空を見据えていたのだ。

 ハシモトは臆することなく、そこにスマホをかざした。


 よくできたオブジェだ、と。


 わざわざ思い出話を語る相手などいないし、SNSに載せる予定もないが、遠路はるばるやって来た記念だ。とりあえず一枚写真に収めた。


「……あ」


 その時、みどりの窓口から男が出てきて、ハシモトに疎ましげな一瞥を投げた。

 男が去ると、ガラス張りの自動ドアが閉まった。

 そこに、中腰でスマホを構えたマヌケな姿が映し出された。

 チェック柄のシャツにジーパンという無難な装いからして、冴えない自分を象徴しているようだった。


 大学生活に慣れ、私服選びが面倒になった新入生にも見えなくはないが、学生らしい溌溂さはそこになく。

 どちらかと言えば、まだ学生気分の抜けていない新社会人といった風情が漂っている。

 それは実際正しかった。


 ぼくは、なにをしてるんだろうな……。


 突然、憂鬱に胸を撫でられたハシモトは、平日の小ぢんまりとした駅構内を眺め渡した。

 昼も近いせいかスーツ姿は認められないものの、働きに出るものは少なくないのだろう、行き交う人々の目つきは、いっそ異様なほど殺気立っていた。


『もういいよ、ハシモトくん。これからはね、少し考えて行動して。ね? 今日はね、もう帰りなよ。ね?』


 ふいに、上司の言葉が耳の奥に蘇る。

 同僚にミスをなすり付けられ、平身低頭していた末の、一言だった。

 無論、上司は本当に帰っていいと言ったのではない。日本社会における「帰れ」の叱責は、そのほとんどが「帰って頭を冷やせ」の意を含んではいない。


 しかし毎朝満員電車に揺られ、地道で退屈な業務に耐え、無能な連中に仕事を押しつけられて。

 鬱憤を募らせてきたハシモトの堪忍袋の緒は、ついにその一言ではじけ飛んでしまった。


 デスクを蹴って会社をとび出し、これと言った考えもないまま北陸新幹線に飛び乗り、ひたすら食事のうまそうな場所を探し、カナザワから〈サンダー鳥〉を乗り継いで、とうとうここ――フクイ県へとやって来てしまったのである。


「……はあ」


 来てしまったものは仕方がないとはいえ、そうと割り切れるほど、ハシモトは楽観的な人間ではない。

 白衣恐竜のとなりに腰かけ、その横顔を見やる眼差しは、まるで縋る藁でも探すようで――。


「すごい」


 図らずもそれが、憂鬱に溺れかけたハシモトを救った。

 間近から見て気付く、その精巧な作りに、心を奪われたのだ。

 あんぐりと口を開いた、そのだらしない表情に反して、白衣恐竜の造形には凄まじい迫力があった。


 まず目につく、長さ形の異なる牙。

 その絶妙な先端の欠損や摩耗が、実際に獲物を捕らえ喰っていたことを彷彿とさせる。やや黄を帯びた色も、彼の生きてきた年月が透けて見えるようだ。表面は唾液に濡れそぼったように滑らかで、ピンクの舌は、今にも動きだしそうな鮮やかさがある。


 柔らかな色彩に満ちた瞳は美麗。琥珀をそのまま埋めこんだかのよう。ともすれば、極限まで細められた瞳孔は、中に封じこめられた太古の爪痕にも見えてくる。


 何より驚嘆すべきは、その鱗だ。一枚一枚が無機質には感じられず、むしろ瑞々しいのである。〝作られた〟のではなく、大いなる何かに〝産み落とされた〟命の風情が、そこにはあった。


「これがフクイの本気かぁ……!」


 興奮のあまり熱っぽい声がもれだした。

 フクイ県といえば、恐竜の化石が多く発掘されることで有名である。

 フクイの名を冠する恐竜は三種類もいて、カツヤマ市には恐竜ミュージアム、駅前には動く恐竜のモニュメントまであるらしい。


 しかし何気なく設けられたオブジェに、ここまでの拘りと愛情を注ぎこむとは。

 フクイの矜持には舌を巻かざるを得ない。

 新幹線のシートに半ば埋まりながら、だらだらフクイについて調べていた自分が恥ずかしく思えてくる。さほどでもなかった興味は、俄然、湧いてきた。


「せっかく来たんだ」


 楽しんでいこう、とハシモトは膝を叩いた。

 うんと伸びをして、


「ん、なんだ」


 辺りに漂う、生臭さに気付いた。

 どこか獣臭さも混じった嫌なにおいだった。

 思わず顔をしかめ、辺りを見回すも駅構内だ。元凶と思わしきものは見当たらない。

 正面に立ち食いそば屋ならあるが、そこから香ってくるのはむしろ食欲をそそる匂いで――。


 じゃあ、どこから?


 首を傾げたとき、ふいに肌を刺すような視線を感じた。

 恐るおそるふり返ると、そこに琥珀色の瞳があった。


「ゲリャ」

「え?」


 白衣恐竜の目がくるりと瞬き、鱗がさざ波のように波打った。長い牙の間から垂れた唾液が糸をひき、べちゃと床を汚した。


「……」


 ハシモトは恐竜の顔と唾液を見比べた。

 脳にバチバチと電流が跳ねて、引きつった笑みが浮かぶ。

 やおらベンチから立ちあがれば、わけもわからず二度頷いていた。


「なるほど」


 恐竜がくりっと首を傾げた。

 このロボットは意思疎通までできるのか、と誰かが感心する一方で、ハシモトの総身は粟立ち、ケツはがっちりと締まった。


 後退る踵が床にこすれた。

 キュ、と甲高く鳴った。


 その瞬間、


「ゲリャアアアアアアアアアアア!」


 恐竜がベンチを蹴って跳ねあがり、ハシモトへと襲いかかった!


「おわァ!」

「ギャオオオッス!」


 胸を蹴られ、倒れるハシモト!

 その痛みに呻く間もなく、真上から圧し掛かってきた恐竜が、頭の倍ほども顎をひらいた!


「うわああああああああああああ!」


 情けない悲鳴を上げつつも、身体はとっさに動く!

 上顎と下顎をつかみ、牙を止めたのだ!


「うう……ゥ!」


 しかし、ぬらりとした唾液の感触に手がすべる!

 無数の牙がぐっと眼前に迫り、長い舌が鼻先を舐めた!


「わ、わあああああああああああ!」

「ゲゲ、リャオオオッス!」


 なんとか遠ざけようと肘を伸ばすが、それもすぐ押し戻される。

 顎も徐々に閉じていく。

 万力のような力に、ぎりぎりと体力を奪われる。


 握りこんだ指は、力の拮抗で内出血を起こした。赤紫の斑点が、ぽつぽつと浮かび上がってくる。

 指先の感覚が麻痺する。

 牙が近づき、わずかに額を掻く。


 なぜ恐竜が実在する?

 なぜ恐竜に襲われている?


 それらを考える余裕など微塵もなかった。

 氷嚢を呑んだように胃の腑が凍え、目の前は涙に歪んでいった。

 たまらず目を瞑ると、闇の中につまらない人生の、つまらない場面が走馬灯のごとく過ぎっては消えていき――。


「ゲリャ……ッ!」


 ふっと身体が軽くなったかと思うと、宙に投げだされていた。


「うあ!」


 地面に肩を打ちつけた痛みで思わず牙を放した。同時に鼻先に触れた舌の感触、額のかすかな痛みも消え、地面のうえをごろごろと転がった。


「いっつ……ッ」


 恐るおそる目を開けると、天井が見えた。

 涙のせいか、固く目を閉じたせいか、その視野はやや霞んでいた。

 距離感は曖昧で、周囲のものも判然としない中、目の前から恐竜が消えた事実は、はっきりと理解できた。


「……生きてる」


 目の前にかざした手のひらを血潮が廻っていた。

 悪夢でも見ていた気分だ。

 が、残念ながら夢ではなさそうで。

 指先は痺れたまま、恐竜の唾液はむっと香って。額に触れれば、かすれた血がついた。


 きっと、まだ近くにいる。

 慌てて辺りを見回すと、案の定、すぐ側で白衣を着た恐竜が唸っていた。


「ひぃ……、ん?」

「ゲゲ、グ……!」


 ところがその目は、こちらを見ていない。

 すぐ近くに、モップだろうか、武器を構えた人影が見えた。

 その人物の殺気は、ハシモトの毛先までびりびりと震わせるようだった。

 ひとりと一匹の睨み合いを、ハシモトは固唾をのんで見守った。


「ゲゲッ……!」


 やがて身を翻したのは、恐竜のほうだった。

 その背中は西口に消えていった。


「……ふぅ」


 モップの人物から殺気が消え失せる。

 ハシモトもまた胸を撫でおろし、半身を起こした。

 緊張が解けたからなのか、ようやく目のピントも合ってくる。

 シャツをめくり、蹴られた腹をさすり、腋を覗きこんだ。あちこちに手をやり、大きな怪我がないのを確かめていると、そこに声がかかった。


「おい、大丈夫か?」


 恐竜を撃退した人物だろう。

 礼を言おうと顔をあげたハシモトは、その姿を目にするなり、


「ありがとうござ、え、だっさ……」


 却って礼を失した。

 ついつい率直な感想が口をついて出た。

 とっさに両手で口を塞いだものの、時すでに遅しだ。

 目つきの悪いその男は、なおさら眼差し険しくハシモトを見下ろした。


「ダサい? このファッションが?」

「いえ、その……」

「ダサくねぇだろ、フクイのファッション。わからねぇのか、オレのパッション?」


 早く謝らなければ。謎のラップ調は、相手が必死で怒りを抑えこんでいる証かもしれない。

 だが、相手の得意げな態度をハシモトは恐れ、謝罪の機会を失した。


「目こすってよく見てみろよ」

「よく見てみろもなにも……」


 見たくない。


 なんと言ってもこの男、真っ青なジージャンに、レモンじみた真っ黄色の三分丈スウェットパンツという出で立ちである。


 袖はなぜか片方だけ破れているし、襟からは謎めいたシルバーのトゲトゲが生えている。そこここに打たれた鋲は、汚れや錆の所為なのか、フジツボのように汚らしい色をしている。


 ジージャンの間から覗くTシャツも、わずかに口を開けた地獄の釜といった様相で、白地に赤くプリントされた文字は『れんずなしめがね』だ。


 極めつけは、無理やり腰に巻きつけられたベルトで、バックルがカニのデザインときている。

 しかも真っ赤だ。茹でガニなのである。


 およそ正気の人間のする恰好ではなかった。


 まさか……!


 急に不安になったハシモトは、慌てて周囲を見回した。

 幸い、ここまでセンスの腐りきった人物は他にいなかった。

 精々が、コスプレでもしているのか、ショットガンを負った男が東口に消えていくのを見たくらいだ。


「よかった……」


 おかしな安堵に胸を撫でおろすハシモトを、男は不躾に観察した。


「ところでお前、その恰好……パッとしねぇな。外の人間か?」


 思わず、凄むように片眉をつり上げるハシモト。

 こいつにだけは、ファッションについてとやかく言われたくなかった。

 とはいえ、彼が曲がりなりにも命の恩人であることには違いない。

 ハシモトは眉間を揉みほぐし、怒りの矛をおさめる。

 そこに男が、人を貶すような笑みを浮かべて言う。


「まあ、訊くまでもねぇか。恐竜見たくらいでビビってんだから」


 いちいち癇に障る態度が、またぞろ怒りを刺激した。

 ん、と男は手を差し伸べてきたが、このビジュアルの所為か不潔な印象もあって、助けを借りようという気にならない。


 とはいえ、恐竜が去ったいまも膝は笑ったままだ。とても一人で立ちあがれそうにはない。

 相手の姿だけでも見ないようにしながら、ハシモトは不承不承その手をかりることにする。


「んっ、しょ! ……ありがとう、ございます」

「いいってことよ。それよりお前、名前は?」

「ハシモトです」

「そうか。オレはアサクラだ。よろしくな!」


 馴れ馴れしく肩を叩かれ、ハシモトは総毛だつ。

 訊ねるべきことだけ訊ね、あとはこの場を去ろう、と心に決める。

 嫌悪感のあまりこの男を突き飛ばしてしまう前に。


「あの、さっきのあれは何ですか?」


 やんわりと相手の手をふり払い訊ねると、アサクラは呆れたように眉を二度上下させた。


「さっきも言ったじゃねぇか。恐竜だ。適応能力の低いやつは、フクイじゃ生きていけねぇぞ」

「要は、あれが例の駅前のモニュメントですね?」


 ハシモトは、もはや苛立ちを隠そうともせず返した。

 恐竜の実在などあり得ない。

 この期に及んで、まだそう思い込もうとする自分がいた。


「モニュメント? ちげぇよ。んなもん、ねぇ」


 アサクラは、ますます呆れた様子で肩をすくめる。


「ハシモト、お前ネットの情報とか鵜呑みにしちまうタイプだろ?」

「なんですか、藪から棒に」

「うまいメシの情報にでもつられて来たんだろ?」

「うっ……」


 図星だった。

 バツ悪く睨みつけてはみたが、悪あがきにもならない。こんな恰好でうろついているような男が、その程度で怯むはずもない。


「やっぱりな」


 代わりに憐れむような眼差しを向けられ、虫唾がはしった。

 とうとう我慢の限界を超えた。

 踵をめぐらせるハシモトだったが。


「残念だが、もう帰れねぇぜ」


 予想外の一言に、つと足を止めた。


「フクイはな、都会の生活に倦んだ連中を閉じ込めちまう、タチの悪い収容所だからよ」

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