24

明け方。

川辺に薄紫に棚引く靄は、朝霧ではない。次第に一処に集まり、濃くなり、人の形を成す。そして現れたのは左側頭部から捻れた角を生やす少女だった。



「おはよう。早いんだな」

「…そちらこそ」

まだ少し覚醒しきらない頭でフェディットはガフに言葉を返した。ガフは既にテントも畳んで、朝の支度を終えていた。

「湯を沸かしてある。使って良いぞ」

「ありがとう」

顔を洗ってから、炒豆茶を淹れる。湯の礼にとガフの分も用意した。ガフは受け取ったカップを覗き込んで複雑な表情を作ってみせた。

「…独特な匂いだ」

「身体に良いよ。飲んでみるといい」

不審気に鼻を動かしながら恐る恐る口を付ける。

「香ばしくて悪くないでしょう」

「……まあ、飲めなくは、ない」

「その内病み付きになる」

ガフはまた少し眉を顰めた。成分的には依存性はない。健全なお茶だ。

「明け方、奴が出た」

「ん?」

一息吐いてから吐き捨てるように言ったガフにフェディットは目だけを向けた。

「気配を察して追ったんだが、逃げられてしまった」

そうガフは忌々しそうに顔を顰めた。

「それは…エイラくん?」

「どうだろうな。少女の姿もとっていたし、紫煙にも変じた」

フェディットは押し黙る。一体彼の身に何が起きているのか、想像が働かない。

「だが欠片を得た。これで追える」

ガフが掲げて見せたのは小さな瓶。中にはうっすらと紫の靄が片寄っていた。

「それは?」

「奴の一部だ。これは本体に戻ろうとしている」

つまり、瓶内の靄の濃い方向へ進めば本体に会えるという寸法だ。

「知識を預かっていて良かった。異邦人とは言え、流石は彼の子孫だな」

フェディットにはその言葉の意味はさっぱり解らなかったが、深く訊こうとも思えなかった。


「居た」

小瓶を片手に竜を駆っていたセルビアは、遥か遠くに人陰を認めエイラと断定した。同時に車内のガフもアィーアツブスの気配を感知し窓から身を乗り出す。

距離はかなりあるが遮蔽物もない平原だ。向こうも此方に気付き逃げようとし、──竜車を見て、動きを止めた。そして音速で飛ぶ竜はすぐにその距離をゼロにした。

「エイラ!大丈夫?」

セルビアが声を掛けながら近くに降り立つ。エイラに逃げる気配はなく、「セルビアさん…」と小さく洩らした。見た限りエイラに異常はない。格好も別れた時のままだ。

「エイラくん、お迎えだよ。あの場で待っているかと思ったのに、随分と移動したねぇ」

「…先生も…無事で、良かったです」

ほっとした様子のエイラにフェディットの胸は少し痛む。

「君の決断のお陰だ」

「ありがとう」も「すまない」も違う気がして続けられない。

「いえ…」

エイラはそう呟くと俯いたまま上目遣いにフェディットの背後を盗み見た。見たことがない女性が立っている。否。よく知った、悪魔・・がそこに居る。

「今朝は言葉も交わせませんでしたが。久し振りですねアィーアツブス」

「どうして貴女が…」

自らを抱き締めるようにしてエイラは怯えを示している。ソレが何か解っているのに敬いの念が生じないのはエイラにとって不思議だった。

「貴方が契約を破ろうとするから、叩き起こされたんです。迷惑なので戻って頂きます」

ガフは腰に手を当てて頬を膨らませる。

「い、意味が解りません。何であれ嫌です。私、還りたいので!」

フェディットが眉を顰める。先程からあった違和感の正体に気が付いた。

「仲間たちも皆私になってしまった・・・・・・・・・・。ならもうこの地に未練はないです。故郷に還りたい。…還りたい」

その台詞は、エイラのものではない筈だ。

「エイラくんは…ご両親に会いたいと言っていたろう」

「……それはもう、いいんです。昨日会いました」

「昨日?」

セルビアが目を見開く。そんな訳がない。ここはターミナルからも離れている。エイラはどう見てもひとりで、移動手段も徒歩の筈だ。

「………」

エイラは答えず、徐々にその身体は靄に包まれ始めた。

「エイラ?」

セルビアの呼び掛けにも反応せず、ガフを睨み付けたままくうに溶けて延びていく。フェディットは言葉も無くその様を見ていた。

「エイラ、待って!」

セルビアの手が、虚しく空を切る。エイラは霧散した。

それを大人しく見守っていたガフは伸びをして言う。

「まあ、逃がしませんけどね」

セルビアの持つ小瓶を指差して微笑んだ。

「それと同じです。この辺りは今閉じた空間と化していますので、貴方たちも気を付けて下さいね」

アィーアツブスの力の破片は本来物理的干渉を受けない。それを閉じ込めておけているのは瓶の内側にガフがある種の結界を張っているからだ。その結界が今、瓶の外側…彼らが立つこの空間にも張られている。そしてその結界からはアィーアツブスのみならずガフを含む全ての者が出られない。

やがて散った筈の紫霧は集束し、再びエイラの形になった。

「二度も逃がす訳ないでしょう」

特別大きな予備動作もなく、ガフはそう言いながらエイラ目掛けて槍を放った。驚いたのはフェディットとセルビアだ。セルビアは慌ててエイラに向かって駆け出した。が、投槍のスピードに敵う筈もない。

「エイラ!!」

エイラは腕を顔の前で交差させ、迫り来る槍から顔を背けて目を瞑る。動きに合わせて紫の靄が槍を弾いた。

「そういえば依代憑きの貴方と戦うのは初めてですね。折角なので楽しめると良いのですが」

まるで舌舐めずりでもしているかの様だ。

いつの間にか、弾かれた筈の槍は再びガフの手中に在る。そもそもその槍は何処から取り出したのか。

ワクワクしていると言っても過言ではないガフに対して、エイラは完全に怯えている。セルビアはエイラを背に庇いガフに立ち向かう。

「ご心配なく。心臓と頭は狙いません」

「武力行使がそもそもだめだよ、こういうのは話し合いで双方ちゃんと納得してかなきゃ。無理矢理言うこと聞かせたツケが今来てるんでしょ」

ムッとするガフの肩をフェディットがポンポンと叩く。

「まずは話し合おう。ね?」

「…話…は、随分してなかったか?」

楽しみに水を差され、ガフは詰まらなそうに武装を解いた。

セルビアの背後でエイラはホッと肩の力を少し抜いたものの、近くに立つセルビアにしか聞き取れない程の声量で呟いた。

「……応じる気はありませんけど」

「エイラ~」

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