18

「貴女は『無形の悪魔』という話をご存じでしょうか」

「はい」

当然だと付け加えたい程知っている。聖霊の逸話の中でも特に有名な話だ。何度も映画化されたり、多くの創作物語のモチーフになっていたりする。形の無い霧のような悪魔を、我らが聖霊は打ち倒した。苦戦を強いられたものの最後には気持ちよく両断してハッピーエンドだ。

「でしたら説明は簡単です。貴女にはその悪魔が憑いています」

「え?」

エイラの左手が、知らず角に伸びる。頭が真っ白になる。

──あれは聖霊により滅ぼされたのでは?いや、それよりも。司教さまのお墨付きで悪魔と断じられてしまった。ならば「帰国せよ」とは。処断するために──?

「あぁいえ、命を奪ったりはしませんよ。貴女には生きていて頂かないと困るのは我々です。話を続けましょう」

角に触れ、思考できない状態のまま、エイラはただ頷きで返した。

「建国の折り、国の礎に捧げるべき存在が求められました。人ならざる寿命をもつエネルギー体。即ち、悪魔です。それもとびきり強大な。しかし、勿論我らが聖霊の治める地には悪魔などおりませんでした。強いものも、弱いものも。そこで聖霊は悪魔狩りに出掛けたのです」

説法用に整えられた話には載っていない、秘された歴史の話だ。奇しくも他国よりも真実に近い形で残されているそれは、国家守護獣の役割と成り立ちを語っている。イェソドの聖霊は守護獣が何の為に必要とされたのか端的に理解していた。そして彼女はある意味誠実だった。ケセドの聖霊のように甘言を用いるでもなく、ホドの聖霊のように絆で縛るでもなく。コクマの聖霊のように契約から逃す術を持っていた訳でもない彼女は、領域外で見つけ出した力ある玄獣に戦いを挑んだ。あなたが負ければその身を頂くと、彼女の知る範囲の事情を話して。

世に十の国あれど、力で下された守護獣は他に居まい。一方的な宣告で無理矢理に従わされ知らぬ土地で生贄にされた。その無念は如何程か。そしてこれを聞いてしまった我々は生きて返しては貰えないのではないか、とフェディットは表情をひきつらせた。

「さて。事の重大さはお分かりでしょうか」

「ええと……私には他国でいう処の国家守護じゅうというものに該当する悪魔が憑いていて、国家安寧のために必要とされている…」

「上々です。貴女が居なくては国が国として成り行きません。お戻りいただけますね?」

エイラはちらとふたりを見遣った。

「ああ、貴女が戻ればおふたりは無事故郷までお返ししますよ。もう二度とお会いすることは出来ませんが」

なるほど。永久的な入国禁止。それで今話した機密は市民に伝わることはない、と。徹底して悪魔を排除してきた国が、一体の悪魔の犠牲の上に成り立っているなど市民には聞かせられまい。

「私…何をすればいいのでしょうか。そんな大役、ふさわしい気がしません。憑いているという悪魔だけ剥がして頂くことは?」

「心配せずとも、貴女はただ生きていてくれれば良いのです。その悪魔は貴女を選んだ。貴女の心臓が定められた鼓動を打ち終わるまで、それは離れることはありません」

「……」

「貴女が敬虔な信徒であることは、それに選ばれた時点で充分わかっています。さあ国に戻ってください」

子を為すつもりのなかった聖霊は守護獣との代理契約の基準を血ではなく信仰とした。志を同じくする者こそ血より深い繋がりがあると。代理契約者として憑かれることは名誉である。そう説かれれば、最早拒む理由など何処にもない。

「…その悪魔、名前は?」

唐突に口を挟んだのはセルビアだった。

「それを知ってどうします」

「名前ひとつ知ったからって、何か出来ると思う?」

囲まれ武器を突き付けられた身で豪胆なものだと感心するが、フェディットは気が気ではない。ここでエイラが帰ると言えば丸く収まる…収めてくれると言っているのに、何をしでかす気でいるのか。

エイラは自分の答えを保留して司教の返答を待っている。司教は溜め息を吐くように一度俯いて、首を振りながらそれに答えた。

「アィーアツブス。そう伝えられています」

「そっか」

頷いて、セルビアはエイラに向き直る。

「アィーアツブス。君は戻りたくないんだろ」

そう呼び掛けられ、エイラはきょとんとセルビアを見返した。自分の中に何かが居る気は…しなくはないが、それが応える気配はない。

「それにはもう正常に思考する機能は残っていないと思いますよ」

守護獣に選ばれる程の玄獣だ。他国の守護獣から察するに、人語を解し人に化け意志疎通が出来るだけの力はあったのだろう。だが今は信心深い人間に寄生しないと存在すら保てない弱々しい存在だ。残っているのは、ずっと抱き続けてきた強い感情だけ。

「それでも、必要なの?」

「それでも、必要です」

どんなに弱体化していようが希薄な存在と成り果てようが、契約は未だ生きている。

「貴殿方の国だって、似たようなものでしょう」

「え、と」

思わずフェディットを振り返る。

「……そうでしょうね」

自国の守護獣について知らないということが既に物語っている。勿論姿形や名前は伝え聞いているが、その実在を感じてはいない。伝説のもの、いてもいなくても変わりはない物語フィクションの存在。その程度の認識だ。オルデモイデに出逢ったことで多少現実味を帯びたものの、それでもそうそう実感はできない。あの時は聞き流したが、オルデモイデが言っていた『あいつ』というのは恐らくはケセドの守護獣のことだろう。ケセドの民は神秘を認識できず守護獣すら力を失って消えかけている、と。

「守護獣が消えると国はどうなるのか。それを真っ先に世界に示してくれるのは貴殿方の国だと思っています。我々はそれを見てから考えましょう。その悪魔を、解放するか否か」

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