17

山を抜け、海を渡る。少しだけイェソド域を横断しなくてはならなかったが、幸い何事もなく通り抜けられた。


ただただ果てしなく続く草原。月は明るく、夜でも周囲を確認できる。辺りに道は敷かれておらず、大きな集落もない。地形もなだらかで、何故此処に街が出来なかったか不思議で仕方がない。

その草原に降り立ち景色を見回した時、エイラは何処か「懐かしい」と感じた。ビルに囲まれて育ったエイラはこんな壮大な風景に覚えはない。街中の自然公園だって、小さな四角い芝生でしかない。懐かしさなど感じる要素はない筈なのに。思わず目が潤むほど、この景色は懐かしい。

「いや凄いね。森の中にだって民家はちらほらあったのに、こんな平原に何もないっていうのは」

「草丈そこそこ高いから、朝になれば意外と何かあるかも知れないよ」

竜に周囲の安全を確認してもらい、小さなテントをふたつ建てる。草を敷いてしまって安定は悪いが、雑魚寝はフェディットにはそろそろ耐えられなかった。


ゆっくりと低空飛行しながら集落を探す。民家でもいい。とにかく原住民と出会わなければ始まらない。フェディットとエイラも車窓の左右を覗き込み、何かないかと眺めている。

何処まで飛んでも草原が広がっている。竜車の落とす影、風に靡く背の高い草、初夏の陽射しに煌めく川。

「川の近くとか、集落があってもいいと思うんだけどね」

一応マルクト内でも人の集まる地域があるのは知っている。大樹の麓と大陸を繋ぐ大橋の周辺だ。西の外海側から回り込んできた今回は大橋よりもまず世界樹を目指して飛んでいる。道中集落があれば寄りたいと目を凝らすが、驚くほど何もない。

「でもなんだか、気持ちがいいですね」

エイラの呟きにフェディットはおやと視線を向けた。窓を覗いている為後ろ姿しか見えないが、恐らくその表情は微笑んでいるのだろう。

「──え?先生、何か言いましたか?」

「ん?いや?」

エイラはキョロキョロと辺りを見渡している。

「あ、また」

フェディットも耳を澄ますが、風と草の音くらいしか聞こえない。

「歌、みたいな……」

「セルビアくんが歌ってるのかな?」

天気もいいし風を切ってこの草原くさはらを往くのは気持ちがいいだろう。速度も控えている今、歌くらい溢れても不思議はない。

「こっち…って、どっち?」

耳を澄ませていたエイラがそう呟くと、竜が鳴いた。

「え!?ちょ!?どうしたの?」

急に方角を変えた竜にセルビアが驚きの声をあげる。制御がきかない。竜の調教と操縦に長けたセルビアにとって、実務中の暴走は初めての経験だった。

「セルビアくん?大丈夫!?」

「え、や、よくわかんない!!行きたいところがあるみたい!?」

セルビアの強い制止を振り切って、竜は草原を突っ切った。



こっちだよ、こっちだよ

もうすこし、あとすこし

おかえりなさい、おかえりなさい



「何此処…集落跡?」

竜が降り立った場所は、人の集まっている場所ではなかった。かつては多くの人が居たのかも知れないが、その痕跡は朽ちて草に埋もれていた。それでも解らない程ではない。町、と呼んでいい程度のものだっただろうという事は。

「なんでこんな場所に」

セルビアの問いに、竜はじぃっとエイラを見詰める事で応えた。つられてエイラに目を遣ると

「エイラ!?大丈夫!?」

「えっ。どうしたんだい」

言葉も発さず、嗚咽もなく、ただ涙を流していた。

ふたりの呼び掛けにも応じない。呆然と目を見開いて泣いている。やがて、我に返ったように涙を拭い口を開いた。

「なんで、こんなに、どうして、私は…」

震える喉が音を押し出すのを、震える心が言葉を見付け出すのを、三人は辛抱強く待った。

「…『嬉しい』んでしょう」

聞こえる。帰還を喜ぶ声が。おかえりなさい、おかえりなさい、おかえりなさい、おかえりなさい。嫌悪すべき悪魔の声に違いない。私はこんな場所に覚えはない。なのにどうしても一言口にしたくて。

「  た」

「いいえ。貴女の帰るべき場所は其処ではありませんよ」

声がしたと思ったら、草の合間から男の姿が浮かび上がってきた。立体映像だ。見れば地面には投影装置が備えられていた。フェディットは咄嗟にさきの襲撃を思い出した。あれはこの男の差し金か。エイラは目を見開いてポカンとしている。

「司教さま…!」

気が付けば周囲を青色の衣を纏った武装集団に包囲されていた。

「これは…」

鬼神のように透けた男をエイラは司教と呼んだ。であれば今自分達を囲んでいる彼らは教会騎士だろう。身の危険を感じ、セルビアはじわりと後退る。いつでも竜に合図を出せるように整える。当たり前だが教会騎士たちも竜を一番警戒しているようだ。

「エイラさん、でしたね」

「は、はいっ」

と返してから、エイラはハッと左半身を隠すように身動いだ。それを見ても司教は目を細め優し気な表情を浮かべている。

「我々は貴女を必要としています。一刻も早く帰国して下さい」

「は、」

今度は、続けることが出来なかった。何故だか「はい」と言い切れない。

「容姿を気にしているのなら、大丈夫ですよ。誰も貴女を悪く言うことはありません」

「……」

とても考えられないが司教さまが仰るのならそうなんだろう。司教さまのお墨付きでこれが悪でないというのならそれは当然帰りたい。筈なのに。何かが断固拒否と訴える。

「失礼。イェソドの大司教さまが認められるということは、貴方はこの変化について深くご存じで?」

「……。こんな果てまで、我が市民のためにご尽力頂きありがとうございます。ここからは我が国の問題ですので、エイラさんの引き渡しと撤退をお願い致します」

口を挟んだフェディットに変わらぬ笑みで司教はそう返した。知っていると言っているも同義だが、公的には黙秘ということらしい。どうしたものかと息を吐く。折角こんな所まできたのだから手ぶらで帰るのだけは避けたい処だ。

「エイラ、帰るの?」

セルビアの問い掛けにもエイラは答えられない。帰りたい。けれど何かが…恐らくはこの地に涙したその何かが嫌だと強く訴えてくる。

返事が出来ずにいると、司教は悼ましそうにエイラに語りかけた。

「可哀想に。それに共鳴してしまっているのですね。では少し話をしましょうか。そのおぞましい、片角について」

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