行きつく先

 僕は生き場所を求めていた。


 僕は小さい頃から引っ込み思案で、言いたいことが口に出せず、ただただ愛想よく笑みを浮かべるだけの人間だった。よく言えば人畜無害な、悪く言えばつまらない、毒にも薬にもならない人間だったと思う。見えない何かが僕の周りを抑え込み、息が詰まる。そんな気分を、これまで常に味わってきた。


 それでも生きねばと、胃から何かがせり上がってきそうになるのをぐっと堪え、今まで何とかやってきた。20代も半ばとなったある日、母が病に伏し、あれよという間に亡くなった。女手ひとつで僕を育ててくれた母。彼女は、見返りのない無償の愛を注いでくれていた、唯一の肉親だ。


 僕を支えていた支柱がいともあっさりと折れ、呆けていた時のことだ。数少ない友人が、金に困っていると声をかけてきた。頼れる肉親がいないのだと、連帯保証人とやらになってほしいとのことだった。

 母を亡くした僕にできることは、世の中に優しくすることだけ。そう思い、二つ返事で書類にサインをした。


 しかし、僕が世の中に優しくしても、世の中は僕に優しくしてはくれない。


 友人はどこかへ消え、あとに残ったのは膨れ上がった借金だけだった。

 母もいない、友人もいない、金もない。僕の周りを抑え込んでいた見えない何かは、いよいよ僕を殺そうとしていた。


 僕は、どこで生きればいい。

 僕は、どうやって生きたらいい。


 ほとんど発狂するように、僕は生まれ故郷を飛び出し、無我夢中で遥か遠方を目指した。僕の生きる場所、この見えない壁の向こう側を求めて。


 気づくと、人気のない山間の駅でひとり立ち尽くしていた。辺りは暗く、無人の駅に一つだけ灯っている電灯以外に光源は見当たらない。すう、と息を吸い込んでみると、木々や葉の匂いに交じって微かに潮の香りがした。


 僕は無人駅の構内で朝まで眠りにつき、翌日を迎えた。空は僕の心のような曇天模様だ。先日僅かに鼻腔についた潮の匂いだけを手掛かりに、僕は海を目指した。一日かけて歩き続けると、白く泡立つ波が見下ろせる崖へと辿り着いた。僕の心中のように乱れ荒れる海を、しばらく呆けて眺めていた。


 生き場所を求め続けて、辿り着いた場所。

 僕は生きるべき所、僕が生きていてもいい所を求めてきた結果が、ここだ。荒れ狂う白波は、『お前に生き場所なぞない』と、まるで僕を嘲笑うかのように見えた。


 深層心理では、僕にもそれが分かっていたのかもしれない。

 実のところ僕は、死に場所を求めていたのか。そう思っていた時だった。


「なぜ夜が暗いか、わかる?」


 世界は天蓋に覆われていると、その向こうにはシャングリラがあると、死に場所を求めていると、あっけらかんと語る彼女と出会った。


 混じりけのない白い肌、緞帳どんちょうのように暗く長い腰まで伸びた髪、修道服を彷彿させる小奇麗かつ清楚なワンピース。どこをどう切り取っても浮世離れした彼女は、この世の者とは思えない幻想的な雰囲気を纏っていた。


「生まれる場所を選べないのなら、せめて死ぬ場所くらいは選びたいわ」


 こんな月の見えない日に死ぬのはやめろと言われた僕は、『着いてきなさい』と言う彼女に言われるがまま、踵を返した。今にも折れてしまいそうな細い背中を眺めながら、僕は彼女に続く。ごつごつとした崖の肌に足元をとられることもなく優雅に歩く彼女は、僕の方へ振り返ることもなく、話を続ける。


「そう思わない?」

「死ぬ場所といっても、いつ死ぬかなんてわからないじゃないか」

「死ぬのよ。すぐにでも、ね」


 声色を変えず、彼女の背中は雄弁に呟いた。


「悪性の腫瘍らしいわ。若い人は進行が速いんですって。あと半年と言われたわ」


 今日は風が強いわね、そんなありふれた日常会話をするみたいに、彼女は言ってのけた。『今は元気なのだけどね』と彼女は付け足すが、不治の病にその身を犯されているとは確かに思えないほど、彼女の足取りは軽い。足を上げる度にちらりと覗かせる引き締まった膝下、揺れる髪の隙間から見える雪原のようなうなじ。健康体そのものに見える。


「死んだらシャングリラに行きたい。だから、できるだけ月の近くで死にたいの。月はこの世界の天蓋に空いた、シャングリラに通じる穴だからね。できれば、雲一つない満月の夜がいいわ。貴方も、死に場所を探しにきたんでしょう?」


 比較的綺麗な舗装された道に出たところで、彼女ははじめてこちらへ振り返り、細く吊り上がった目を更に細めてそう言った。初めて見せる彼女の笑顔に、思わずどきりと心臓が跳ね上がる音がする。それと同時、異次元のような彼女の儚さに、『すぐにでも死ぬ』という言葉が僕の頭にストンと落ちた。


「僕は生き場所を探しにきたんだ」

「あら、私と正反対ね」


 握りこぶしを口元にあてて、くっくっと笑う。どこか映像のように見えてしまうその所作に、僕は思わず見とれていた。


「でも生き場所を求めて行くところではないわよね、あそこは」

「それは」

「自分でもわからない、でしょ」


 僕の心を見透かすように、彼女は更に笑ってみせた。


「悩めばいいじゃない。貴方には時間が沢山あるんだから。悩んだ結果、求めた結果、もし生き場所が見つからなかったのなら――」


 彼女は僕へ背を向けたかと思うと、



「――シャングリラで、待ってるわ」



 意地の悪い、それでなお艶やかな笑顔で、そう言った。

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