シャングリラ紀行

稀山 美波

月と天蓋



「なぜ夜が暗いか、わかる?」


 強風に翻弄された水面は、理性を失った狂人のように見える。

 何度も岸壁にその身を打ち付けては、崖の上に立つ僕を飲み込まんとする。それはまるで、行き場所を求め手を伸ばし続けているように見えた。もがき苦しみ、再び奔流へと引きずられる様に、思わず自分を重ねてしまう。

 足元を掬わんばかりの強風と、暴れまわる波の音。それらが鳴り響く闇夜の中でも、彼女の澄んだ声だけはやけに通った。


「世界は、巨大な天蓋てんがいに覆われているからよ」


 夜よりも深い黒で染まった奔流に目をやることもなく、はるか頭上の月光を仰ぎ見て彼女は言う。

 天蓋。そう繰り返し呟いた僕も、横に立つ彼女と同じように月を見上げた。薄く広がる雲の奥、月の光にはもやがかかっているように見える。数ある星も雲に覆われ、空を照らすのは霞んだ月光のみである。


「そう、天蓋」


 彼女は艶やかな笑みを浮かべながら、『わかるかしら』と言って空から僕へ視線を移した。僕はすぐに彼女から視線を逸らし、再び空を見上げたまま頷いて、肯定する。


「この世界は、暗くて硬い、大きな壁に覆われているのよ。天を覆う大きな蓋、まさに天蓋ね」


 自慢にも自嘲にも聞こえる彼女の持論は、びゅうという風の音で幕を閉じた。

 天を覆う大きな蓋、天蓋。それが世界を覆っているから、夜は閉鎖的な闇に包まれるのだ、と彼女は言う。

 なんだそれはと言う気がなくなるほどに、彼女の持論はすんなりと自分の中で受け入れられた。確かに今、僕たちは大いなる天蓋に閉じ込められている。そう思えるほどに、今日の夜は黒く、深い。


「天蓋の外には、何があると思う?」


 是も非も述べない僕を見て、彼女が何を思ったかはわからない。ただ彼女は僕の反応などお構いなしに続けて質問する。

 天蓋の外、常闇の向こう側。そこには何が待っているのか。自らの心の闇も晴れぬというのに、どこまで続く闇夜の向こうなど、思いつくはずがない。


「シャングリラ」


 僕からの返答がないとみて、彼女は聞きなれない単語をぽつりと呟いた。

 え、と小さく声を零した僕のことなど気にも留めず、彼女の薄い唇は言葉を紡ぎ続ける。


「天蓋の外には、シャングリラがあるのよ」


 シャングリラ。

 僕が機械人形のようにゆっくりとを復唱すると同時、彼女と僕の視線が交差した。夜では一段と映えそうな白い肌、夜の帳に負けるとも劣らない黒い瞳。絶望的なまでに美しいそのコントラストから、僕は目が離せないでいる。


「そう、シャングリラ」


 三回目となるその単語を聞いてもなお、僕は意味を理解できないでいた。

 理解できないのか、理解しようとしていないのか、それはわからない。しかし僕は、彼女の薄い唇から発せられたその言葉の響きに、どこか甘美なものを感じていた。


「桃源郷、という意味よ。ユートピアと言い換えてもいいかもしれない。ただ私は、シャングリラって響きが好きだから、そう呼んでいるわ」


 桃源郷、ユートピア、シャングリラ。

 今の僕には思い描くことすら叶わない場所だ。思い描けない代わりに、僕は何度も頭の中でそれらの単語を反芻してみる。シャングリラ、確かにこれが一番良い響きかもしれない。いや、良い響きというのは語弊がある。天蓋の外にある『それ』に名前をつけるとしたら、シャングリラという言葉が一番しっくりときた、と言うべきだろう。


「あら、センスあるじゃない」


 かいつまんでそう述べると、彼女はその薄い唇を千切れんばかりに吊り上げて、怪しく微笑んだ。やかましい白波と風の音も、彼女の笑みに気を取られ、ぴたりと止む。今夜には似つかわしくない深い静寂が一瞬だけ僕たちの間を駆け抜け、時が止まったような錯覚にさえ陥った。


「月はね、天蓋に空いた小さな穴なの」


 僕も風も波もお構いなしといった具合に、彼女はそう続ける。彼女が再び空を見上げたのを見て、僕も彼女に続く。先ほどまで靄がかかっていた月は、僅かな雲間からその光を覗かせていた。

 確かに、そう見える。一面を覆い尽くす闇――世界を覆う天蓋に、円く空いた穴のように。


「天蓋の外にある、シャングリラ。そこの光を感じることのできる、唯一の穴よ」


 天蓋の外にある世界は、光で包まれた世界だと、彼女は言う。その光が、月という天蓋に空いた小さな穴から漏れているのだと。


 古来から人々は、月に神秘的な何かを感じてやまなかった。きっとそれは、シャングリラから差し込む光に魅入られたことに起因しているのだろう。人も、潮の満ち引きも、神羅万象そのすべてが、シャングリラを求めてもがき、足掻いてきた。


 すとん、と彼女が唱える月に関する説が腑に落ちる音がしたところで、月は再び雲に隠れ、霞んでいった。


「もし行けるのなら、私はシャングリラに行きたいわ」


 霞みゆく月に興味をなくしたように、彼女は改めて僕と対峙する。

 はあ、と小さく溜息をついて『行けるものならね』と念押しして肩をすくめる。


「私は死に場所を求めているの」


 そして、何でもないことを言うように、さらりとそう言ってのけた。


「死んだあとに行くところがあるのなら、シャングリラがいいわ。少しでもシャングリラに近づくために、雲一つない満月の日に死にたいわね。それとできるだけ月に近い、高いところで。そうね、ここみたいな」


 眼下では波が荒れ狂う、崖の上。

 確かにここは、ここら一帯で一番月に近いと言っても過言ではないかもしれない。雲一つない夜に、ここで満月を見上げたならば、きっと吸い込まれてしまうだろう。



「だから貴方。こんな月が霞んだ日に死ぬのはやめなさい。死ぬのなら、満月の日がいいわ」



 月の光が届かぬ曇りの夜。

 月の代わりに僕を吸い込んでしまいそうな瞳で、彼女はそう言った。

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