第23話 決意
アニサが、ためらいがちに、語った話しをまとめると、ようはガラは逃げ出したのだ。タリに気を使って、はっきり逃げたとは、言わなかったが、状況から見れば明らかだろう。
「気がついたら、いなかったのよ・・・」と、アニサは、言葉を濁していたが、蔑みの表情がわずかに顔に張り付くのまでは自制できなかったようだ。
アニサのその含みのある表情が何を意味するかは、当然タリにもわかったはずだ。だが、タリは、一瞬悲嘆の表情を浮かべたが、すぐにどこか諦めたような表情に変わり、「・・・そうですか・・」と、つぶやくだけだった。
タリと一緒に、ガラの寝床兼店にも行ったが、そこにもいなかった。タリは、その間中、どこか心ここにあらずといった様子だった。
ガラはどこに行ってしまったのだろうか。どこか別の場所に避難しているのか。もしかしたら、タリを助けに行こうとした最中に、暴徒に襲われてしまったのか。
「その・・・もしかしたら、途中で行き違いになったのかもしれません。森の家に戻りましょうか?」
静まり返った店内をぼんやりと見つめているタリに話しかける。
「・・・いえ・・・大丈夫です。おそらく、父はもうこの街から逃げていると思います。」
「えっ・・でも・・・タリさんを・・」
タリはこちらを振り返ると、微笑する。それは、大人が、同じ行動を飽きずに繰り返す幼児を見るようなどこか嘲りを含んだ表情だった。
「本当に・・・おかしい人・・・あんな力を持って、あれだけの人を・・・・それなのに、なぜそんな・・吟遊詩人が歌う騎士物語に憧れる世間知らずの貴族の娘のような馬鹿げたことをいつまでも言っているのですか?」
「・・・え・・何を・・」
「父がわたしのために、いつまでも死病が蔓延しているこの街に残っている訳ないじゃないですか。」
「・・・でも、ガラは・・・あなたのために・・家だって・・それに俺を・・・」
タリは、その言葉を聞く否や、クスクスと笑い、ついには堪えきれないといった様子で、大笑いする。
「・・・影人さん・・あなたは本当にいったいどこから来たの?あの頭の固い連中・・・教会がうんざりするくらい言っているあの世・・楽園からでも来たの?」
まだ笑い足りないといった様子のタリは、なおも哄笑し続ける。やがて、何かを思い出したかのように、タリは笑うのを辞めて、怨嗟の表情を浮かべる。
「あの家は・・・父が街で商売を続けるための手段・・要は単なる体のいい娼館ですよ。といっても、娼婦は私だけですけどね。」
タリは、伺うようにじっとこちらの表情の変化を見ている。そして、人が車を運転しているとこを見かけた時のように物珍しそうな顔を浮かべる。
「・・・・やっぱり・・・変な人・・・あの時も今も・・・娼婦だと知っても、たいして表情を変えない。好色、嫌悪、蔑視、救済・・・今まで相手にしてきた男はたいていそういう顔をしたのに。」
「・・・でも・・ガラは、病気になったあなたを助けるために・・・」
「ああ・・あれこそ・・・天罰というやつだったのよ。父は、私が病気になったことは知っていたけれど、死病だとは思っていなかった。私だって、この病気が死病だと知ったのはつい数日前だった。だから、あなたが来るまで、いつものように客の相手をしていた・・・」
そこで、タリは何かを思い出したかのように、顔を歪める。
「ふふ・・それにしても、私を抱いた人たちは今頃どうなっているのかしら・・」
言葉を聞いて、その顔が、表現する感情をようやく理解できた。今まで、見たことがない奇妙な笑顔だった。
「さてと・・・影人さん・・これからどうしましょうか?」
と、上げすぎた口角を下げて、ニッコリと笑う。
「実は・・・昨日の夜から・・ぼんやりと考えていたことがあるんです。私は神の・・・救済の対象になったのかもしれないって。ほら・・・見てください?」
そう言うと、タリは、外衣を脱ぎ捨て、下着姿になり、肌のほとんどを露出する。そして、自分の肌を見回し、両手を広げて、恍惚の表情を浮かべる。
「わかりますよね?消えているんです・・あの忌々しい黒い紋様が・・跡形もなく・・・」
確かに消えている。今目の前で露わになっているタリの肌は、白い・・・いや・・艶かしく、輝いているように見える。
こちらの視線を見咎められたのか、
「・・・はじめて見ました・・あなたのそんな視線は・・」
と、タリは、蠱惑な笑みを浮かべている。まるで、手招きしているように見える。
おかしい・・・なんなんだ。
あの・・・暴徒たちを目の前にした時と、同種の抑えがたい感覚が、全身に沸き立っている。なぜ・・・こんなに、目の前にいるタリに欲情してしまっているのか。以前、寝床をともにした時は、こんな思いを抱かなかったのに。
いや・・・薄々気づいていた。はじめて、人に対して暴力を加えた時から、自分の内に徐々に溜まっていた暗い欲動を。そのはけ口をずっと求めていた。
どうやら、あの暴徒たちを相手にしたことで、いよいよその堤防が決壊してしまったようだ。
この世界に来てから、徐々にあらゆる原始的な感情のタガが外れてきている。最初は、暴力の衝動、そして今は・・・
大丈夫だ。まだ、コントロールできている。
壁にタリを押し付けて、その体を抱きしめながら、脳裏にはそんなフレーズが浮かぶ。
柔らかくて、温かい。そして、酷くはかない。
単なる発散だ。自分がしている行動も、その目的も理解している。だから、平気だ。理性はまだ本能を押さえつけている。
タリの顔を見る。男を小馬鹿にしたようなイタズラっぽい顔を浮かべている。
この生意気な顔をどうにかしてやりたい。自然と、押し付ける力も、抱きしめる力も、強くなっていく。
「あ・・・」
と、タリがわずかに呻く声が聞こえて、顔が、歪む。目をギュッとつむり、痛みに耐えている顔が目に映る。この世界にきて、初めてまともに興奮した。いや、前にいた世界でも、ここまでの興奮をもたらした出来事はなかったかもしれない。
今、俺は、この女を自分の力でいかようにも支配できる。
くそっ・・なぜだ。仮想世界の女の方がはるかに整った顔と完璧な肉体を持っていた。それなのに、なぜ、目の前にいるこの栄養失調気味の女にこんな劣情を抱いてしまっているのか。
生暖かい感触が手に伝わってきた。血がつたっている。先ほど、壁に押し付けた時に、タリのどこかの皮膚を切ってしまったのか。その赤黒い色が脳の電気信号を刺激するキーになったのか、先ほどの暴徒たちの屍が脳裏に浮かぶ。
その瞬間、タリの体を、壁に突き飛ばしていた。打ち付けられた衝撃で、タリはよろめき、床に膝をついてしまう。
「はあ・・はあ・・す、すいません」
とっさに、とってつけたような謝罪の言葉を吐き出すのが精一杯だった。
タリはこちらを見上げながら、微笑する。
「・・・娼婦に謝る男なんて初めて見ました。やっぱり・・あなたは変な人です。」
タリは、立ち上がり、姿勢を正すと、こちらの目を見据える。先ほどの妖しい雰囲気は霧散して、いつものタリに戻っていた。いや・・・単に自分の衝動が収まってきたから、そう見えるだけなのか。
「謝る必要なんてないですよ・・・わたし、嬉しいんです。ようやく、影人さんの考えていることを理解できて。今までの、影人さんは、何を考えているのか正直よくわからないことが多かったけれど・・あまりにも、現実離れした聖人みたいで・・・・そういうのも好きだけど、今の感情むき出しの影人さんの方がわかりやすくて・・・わたしは今の方が好きですよ。」
タリが、ゆっくりと近づいてくる。
「・・・続きをするっていう・・・雰囲気じゃなくなっちゃいましたか?・・でも・・こういうのならいいですよね?」
タリの手が頬に触れる。額と額がくっつき、やがて唇が重なり合う。
「理由はわからない・・・だけど、あなたなんですよね?病気を治してくれたのは・・私のような穢れた女を救済してくれた・・・神が遣わしてくれた人・・・」
何かに陶酔しているかのように、うっとりとした眼差しを向けている。しばらく、そのまま抱き合う。やがて、タリが無言で手を取り、そのまま二階の寝室へと一緒に上がる。その日の残りは、結局二階で過ごすことになった。
誰かが立っていた。
おそらく見知った顔だが、誰かは思い出せない。その名無しの誰かに向かって、ひたすら話しかけていた。自分の正しさを証明しようと、必死に理屈をこねて、説得しようとしている。
だが、相手は、一言も喋らない。いくらこちらが、懸命に話しかけても、無表情で無言のままだ。やがて、場面は変わり、暴徒たちに取り囲まれる。暴徒たちは、誰も彼もが、鬼のような形相で、手に斧や槍を手にして、こちらに襲いかかってくる。
自分の後ろには、震えながら、怯えているタリの姿があった。闘うしかない。そう思い、駆け出そうとした瞬間、タリがボソリとつぶやく。
「・・・嘘ですよね」
そこで、眠りから目覚めた。なんとも薄気味悪い夢だった。視線を横にやると、隣にはタリが寝ていて、手足をこちらに絡みつかせている。起こさないように、ゆっくりそれらをほどいて、上体を起こす。
小さな窓が一つしかない寝室は、太陽が出ている昼間でも、真っ暗だった。だから、今が昼なのか夜なのかすぐにはわからなかった。
その小窓の方に目を見ると、外から光が全く入ってきていなかった。となると、どうやら、今は夜らしい。眠りこけているタリを見て、先ほどの様子を思い出す。
タリは、まるで電脳ドラッグを使用した人間のように、ずっと陶酔していた。その陶酔の対象は他ならぬ自分だ。自分を神の使徒だと本気で信じているようだった。
宗教とは、そんなにも人を熱狂させるのだろうか。正直、恍惚感に浸っているタリを見ながら、当惑すると同時に羨ましくもあった。
自分も、前の世界では、毎日のように種類は違えどそうした恍惚感を味わっていたのに、今はもうその快楽に与ることはできない。
まだ脳に直接作用させるドラッグが開発される前・・・半世紀前の人々の半分以上が何かしらの宗教を信仰していたのも、こういった陶酔感を味わえることが、その理由の一端だったのかもしれない。
それにしても、まるで救世主のように崇められるのは、どうにも居心地が悪い。ましてや、誤解から生じたものなら尚更だ。
確かに・・・タリの病気を治した要因は自分だ。もちろん、神の仕業などではないし、意図したことでもない。単なる科学現象であり、偶発的なものだ。
おそらく自分の体内にいる無数のナノボットが、血液を介して、タリの体に侵入したことが、原因だろう。しかし、なぜ、個々人専用にカスタマイズされているはずの医療用ナノボットが、他人の・・・タリの体の中でも機能したのか。
その仕組みはわからない。そもそも、この技術の基礎となる理論すら、理解できていないのだ。だが、タリが、突如として、超人的な能力に芽生えて、この世界では治療不能な病気からも回復しているのだから、ナノボットと何かしらの因果関係があるのは間違いない。
何が原因にせよ、タリが死地から脱したのは良いことには違いない。だが、これからどうすればよいのか・・・
ガラは逃げ出し、街は死病騒ぎで、その機能をすっかり失ってしまっている。唯一、救いなのはこの世界の今やただ一人の知り合いであり、街で一定の権威を持っているアニサが無事だったことだ。
そして、タリも誤解とはいえ、こちらを信用してくれている。いや、昨日の様子からすると、崇拝していると言ってもよい。
タリが、強化された自分と同等の力を持っているのなら、味方であるのにこしたことはない。万が一対立することにでもなったりしたら、やっかいなことになる。
今のタリの様子だと、そうなることは当面ありえそうにもないが、人の感情ほど当てにならないものはない。
物理現象と同じように、想いが強い分、その反作用は同様に強烈になるに違いない。血を媒介として、タリに及ぼした作用は、他の人にも同様に及ぼすことができるのだろうか。
そのことはずっと気になっていた。もしも、誰彼かまわず、ナノボットを移植できるのだとしたら、それはそれで役に立つのだろうか・・・
いや・・移植された人間が、自分に従うとは限らない。強化された人間は自分一人だからこそ、優位に立つことができる。
とするのならば、移植をする人間は慎重に選んだ方が懸命だろう。
それにしても、血を交換したら、体が変質するなど、はたから見たら化け物、吸血鬼みたいだ。実際のところ、助けられたタリは神の御業だと好意的に考えているが、教会はそうは思わないだろう。異教徒が扱う魔術として、迫害されかねない。
申し訳ない程度に藁が敷かれた硬いベットの上で、ただ天井を見つめていると、脈絡もなく様々な考えが次々と浮かんでは消えていく。
奔流のように思考が渦巻くのは、この数日というもの、ゆっくりと現状を考える時間がなかった反動なのかもしれない。そして、この数日で自分を取り巻く現状は大きく変わってしまった。
この数日でわかったことがある。自分の力は、この世界で、予想以上の力を持つことができる。
この力があれば・・・
あの暗い衝動が、支配欲が、体の中で蠢く。この世界で、一定の権力を持つこと、それは自分の安全を確保するために必要なのかもしれない。
元の世界では、権力がないただの一般人でも暴力に巻き込まれる可能性などほとんどなく日々安全に暮らせた。だが、この荒んだ世界はどうだ。疫病、暴力が吹き荒れて、野蛮な人間が闊歩して、ほとんどの人の命は牛や馬以下だ。
こんな世界で自分の身から危害を逸らすためには、権力を獲得するしかない。結局のところ、今回の死病騒ぎでも、権力者は真っ先に安全な場所へと逃げていた。
あの幸福な世界に戻ることはもうできないのかもしれない。だが、せめて、この世界でも可能な限り、平穏に生きていきたい。
生きてさえいれば・・・
それにしても・・・この力に・・・いや人類の途方も無い進歩と叡智にこんな野蛮な世界に来て、ようやく知ることになろうとは・・・なんと自分は愚かだったのだろう。
あの平凡で不平等が蔓延していると思いこんでいた世界は紛れもなく人類が、とつてもない犠牲の上にようやくに成し遂げた本物の・・・楽園だったのだ。
人の命がたった一人でも・・交通事故であれ、犯罪であれ奪われるだけで、世界中の人々が共感し、悲しむ世界・・・
そんな倫理観の高い人々が、自身の感覚を当然と思い暮らす世界・・・
病気になることが死に直結しない世界・・・
自分の命より、子供の命を守ることが当然だと思えるほど余裕がある世界・・・
明日の食べ物を心配せず、未来のことを考えられる世界・・・
たとえ、貧困になろうとも、国が救済してくれる世界・・・
どんな人間であろうとも、尊重されるべき普遍的権利、人権を持っているという幻想を世界中のどんな国家であろうとも表面上は認めている世界・・・
いったい・・どれほどの月日が・・知恵が・・必要だったのだろうか。こんな野蛮な世界からあの世界に人類を導くには・・・
きっと・・・名もなき英雄たちが・・・真に勇気を持った人々が・・・挫折を繰り返しながらも、叡智を蓄え、一歩一步、進んでいったのだろう。
それを成し遂げたのは、戦場で華々しく闘う勇者でも、神の力でも断じてないだろう。
この無情な世界を変えたいと願った賢者たち・・・神の力ではなく、自らの知恵で世界を観察し、変革しようとした英雄たち、科学者たち・・・が、数百年に渡り前進し、後退し、ようやく勝ち取ったのだろう。
だからこそ・・絶望してしまう。その力の断片を何の苦労もせずに、ただ手に入れた自分、一人の人間に何ができるのだと。
一人の人間が、たとえとつてもない力を有していても、現実の世界は変えられない。変えられるのは物語の中の世界だけだ。
それでも・・・真なる英雄たち、科学者たちは、諦めずに・・・あの世界を・・楽園を現実に成し遂げた・・
ほんの僅かな淡い光が、小窓から差し込んでいる。月明かりではない。星々の光だろうか。
僅かな希望・・・だが、それさえあれば、人は行動できる。きっと、数百年前の英雄たちもそんな気持ちだったのだろう。
元の世界に戻れないのなら・・・この力を使って、この無慈悲な世界を、もといた世界に・・楽園に・・・わずかでも良いから近づける。
きっと、この寿命が尽き果てるまで行動しても・・ほんのわずかしか、進まないだろう。だが・・・それでも・・・人は確かに一度成し遂げたのだ。
小窓越しに夜空を見上げる。星の・・恒星の放つ光がひときわ輝いて見えた気がした。
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