第20話 感情の渦
街の入り口は閑散としていた。街に入ろうとする商人もいなければ、門兵までいない。その光景だけで異常事態が起きているというのがわかる。少なくとも、街の治安機構は既に機能していないようだ。一番重要な入り口の門壁を警備する兵すら確保できていないのだから。
門をくぐり抜けると、街の中も同様に静まり返っていた。通りには、人の影も形もない。音といえば、腹をすかした野犬が吠えている遠吠え、どこからか逃げ出した鶏の呑気な鳴き声くらいだ。
鍛冶、皮なめし、細工、織物、その他の各職人が軒を連ねているあらゆる通りの店は、ことごとく固く閉ざされていた。
大通りから左右に広がるそれらの通りを横切る度に、立ち止まり、道を見るが、一向に人の姿は見えない。
しかし、人の気配がない訳ではない。むしろ、その逆だ。閉ざされた建物からは、人の濃密な息遣いを感じる。そして、こちらの様子を息を潜めて伺っている・・・そんな印象を受ける。
大通りを進み、街の中心に進めば進むほど、そうした気配は薄くなっていった。中央エリアの建物の中には本当に人がいないように思える。
おそらく、このあたりは、富裕層の家が林立するエリアだから、住民たちはいの一番に逃げ出してしまって、もぬけの殻なのだろう。
本来なら、最後まで残るべきはずの役人がいる行政庁舎もすっかり、空っぽだった。たとえではなく、ありとあらゆるものが、なくなっていた。
略奪を受けたのか、それとも家主が大慌てで、目ぼしい荷物を詰め込んだのか、おそらくはその両方だろう。庁舎と富裕層が住んでいた家屋は、いつもの威容な外観と反比例するかのように、ひどい荒れようだった。
そうした中で、例外があるとすれば、大聖堂を含めた教会関係の施設だ。疾病という神の罰を思わせるような死が迫ってきているからなのか、聖なる教会を略奪するような逸脱者はいなかったようだ。
もっとも、その神性を体現するはずの家主たちは、とうに逃げ出してしまったらしい。いつもうやうやしく中央に置かれている貴重な聖遺物や、壁を飾りたてている金細工、それに書物の類は一切合切なくなっていた。
どうやらこの街の聖職者たちは、せいせいするほど、世俗に染まっていたらしい。しかし、逃げ出した聖職者や役人たちを責めることはできない。自分だって、同じ立場ならそうしていただろう。
それに、皮肉にも、そうした人工的な飾り付けが一切なくなり、静まり返った大聖堂の中は、依然とは違う種類の神聖な空気を醸し出していた。
「この街は・・どうなるのでしょう・・父やアニサさんは・・・どうしているのでしょうか?」
街の中に入ってからずっと無言だったタリが、ポツリと漏らした。タリの方を見ると、大聖堂の様変わりした様子を、物憂げに見つめていた。
この大聖堂は街の象徴だ。それがこの有様なのだから、タリがこの街の運命を憂うのも当然かもしれない。
「・・・おそらく・・・修道院にいると思います。」
アニサたちが、まだ修道院にとどまっているのか、正直自信はなかった。だが、街がこの様子では、他に行くあてもない。
大聖堂を出るとき、タリが不意に立ち止まった。そして、今は空洞になった中心の方を向いて、その場に、ひざまずく。目をつぶり、何かを祈っているようだ。
隣で、タリの様子を無言で、見つめる。彼女が、少し羨ましかった。こんな状況でも、信仰心を失わずに、根拠もなく、無心に神を信じられるなんて。
そして、この世界で、何故これほどまでに宗教の存在が重要なのか、あらためて理解できた。死があまりにも身近にありすぎるのだ。だからこそ、救いが・・神が必要なのだ。
大通りを引き返して、壁にへばりつくように密集している貧民街へと向かう。この、街区にアニサたちの修道院はある。この地区の通りに入ると、異臭が鼻孔を刺激した。
その匂いの原因が何なのかはすぐにわかった。通りには、ボロボロになった衣服のまま地面に座り込んだり、横たわっている人々が無数にいた。
通常でも、こういった物乞いはいるが、それにしても数が段違いに多い。それに、物乞いたちは、こちらを視認しても、いつものように何かをねだったりはしてこない。その目には一切の欲望が失われていて、まるでぽっかりと穴が空いているようだ。
生に対する執着がなくなっている、そんなふうに感じてしまう。彼らは、不思議と絶望した表情は浮かべていない。ただ、眠るようにその時が来るのを待っているのだ。
実際、地面に横たわっている人々の多くは体を身じろぎせずに横たわっている。傍目から見れば、死んでいるのか生きているのかも定かではない。
こういう非常事態が起きると、やはり死と絶望の影は、貧者たちをまず襲うものなのだろう。平時でも、生きるのに精一杯で絶望に縁にいる人々が、死病にかかり、世俗での生を諦めてしまうのも無理からぬことかもしれない。
ましてや、彼らは、死の後に、先があること、現世よりマトモな世界があると固く信じているのだから。
通りにいる物乞いたちから視線を出来るだけ反らして、ただ修道院を目指した。貧者たちを見ていても今の自分たちには何もできることはない。むしろ、こちらまで彼らが出す圧倒的な死の瘴気に引き込まれそうになってしまう。
生きる屍たちの群れを抜けて、ようやく修道院の建物が視界に入ってきたときには、思わず胸をなでおろした。
ようやく、アニサやガラ・・・生者に・・・現世で懸命に生きようとしている人々に会える。彼らに会えば、少しはこのどうにも重苦しい空気から抜け出せるだろう。そんな仄かな期待が胸に宿っていた。
幸いにも、修道院の周囲には、多くの人々がいるのが見えた。まだ、修道院は機能しているようだ。これなら、アニサたちがまだここに留まっている可能性は高い。
しかし、近づいてみると、何やら様子がおかしいことに気づく。修道院の周囲にいる人々は、明らかに異様な雰囲気を帯びていた。口々になにかをわめきたて、叫んでいる。
暴徒・・・その言葉が脳裏に宿ると同時に、素早くタリの手を取って、近くの家の壁に張り付き、身を隠す。
「・・・アニサさんたちは・・・まだあの中に・・・」
タリの声は震えていた。無理もないだろう。暴徒たちの数は数十どころか、下手をすれば百人以上いる。今にも、取り囲んでいる修道院になだれ込んでもおかしくないほど、暴徒たちは熱狂の渦にいた。
息を潜めて、修道院の方を再度見る。公開処刑の時と同じくらいの規模の群衆が集まっている。アニサたちは、まだあの中にいるのだろうか。もしかしたら、もうとっくに脱出しているかもしれない。
そう思いたかった。だが、今までのアニサの行動を考えると、病人を見捨てて、逃げ出すとはとても思えなかった。ガラは、どうだろう。あの抜け目のない性格だ。こんな事態になる前に、逃げて出していてもおかしくなさそうだが・・・
しかし、ガラは大分タリのことで取り乱していた。いつものように機転を効かせることができたどうかわからない。
結局のところは、何もわからない。二人がいる可能性も、既に脱出している可能性も、どちらも十分ありえる。
それよりも、問題は、あの暴徒の大群だ。あんな中を突っ切って、修道院の中に行くのは自殺行為に等しい。
暴徒たちの叫び声が耳を突く。その度に、こんな危険な場所から一刻も早く立ち去りたいという思いが強くなる。
あの中にアニサたちが残っていると決まった訳ではないのだ。アニサのことだ。こうなる前に、みんなをまとめて、手際よく脱出しているんじゃないのか。だとすれば、あの暴徒たちに突っ込んでいくなんて、まるっきり無駄な行為じゃないか。
そんな理屈が次第に心の中を占めはじめていた。そして、逃げるように修道院の方角から背を向けようとしようとした時、ポツリとタリがこぼす。
「あの修道院の中には・・・まだ多くの人が・・残っています・・」
「え・・何故・・・そんなことが・・」
「感じるんです。昨日の夜と同じように・・」
「そんな・・・」
言葉に詰まってしまった。タリのこの妙な勘が、それなりに根拠があることを今や知ってしまっている。だから、そんな訳ないじゃないかとタリの言葉を無視して、この場から逃げ出すことができない。
アニサたちを見捨てることを正当化していた都合の良い解釈で、自分を騙すことはできない。
さらにタリは追い打ちをかけるように、
「わたしは・・・あそこに行きます・・きっとアニサさんも・・まだあの中にいるはずだから・・・」と、静かに呟く。
声こそ小さいが、その目には強い意思が宿っていた。とても、説得できそうにはない。そもそも、危険な場所にいる父親を放り出して逃げようなどと、他人が言えることではない。
選択肢は2つしかない。タリを見捨てて、この場から離脱するか、あの暴徒の群れに命を賭けて突っ込むか。
いや・・・選択肢もなにもない。結論は決まっているじゃないか。
この場から、逃げること。それが、どう考えても正しい選択だ。もともとタリは出会ったばかりの他人だ。アニサやガラにしたって似たようなものだ。いや、そもそも長年の友人であろうと、たとえ親であろうと他人のために、命を危険に晒すなどできない。
自分の命の方がはるかに大事だ。わかりきっていることじゃないか。他人のために命を賭ける行動など、現実にはありえない絵空事だ。
現実には起こりえないことだからこそ、珍しいことだからこそ、人はそうした行為に、魅了され、感動する。
物語の話ならば、傍観者の立場ならば、そうした行動を見るのは面白い。だが、現実世界で、ましてや自分の話ならばそうはいかない。
だから、いまタリを見捨てて逃げようと思っているのはごく普通のありふれた、正常な考えなのだ。
だが・・・それなのに・・・なぜ・・・くそ・・・こんなにも・・・激しく不快なほど心が揺れ動いているんだ。
「・・・・影人さん・・・どうしたんですか?」
目の前の少女が、その澄み切った大きな目でこちらを心配そうに覗き込んでくる。その無垢な眼差しがより一層、心をかき乱す。
タリは、しばらくこちらをじっと見た後、何かを悟ったように、つぶやいた。
「・・・逃げても・・・いいんですよ?」
そういうタリの顔は、わずかに口元を緩めて、微笑しているように見えた。
「な、何を言って・・・」
驚きの後に沸騰した感情は怒りだった。心の中で正にタリに言われていたことを考えていたのに、そのことを都合よく棚上げして、侮辱されたように感じたからだ。
そして、その後に心を支配したのは、落胆と羞恥心だ。自分がタリに期待されていなかったことがショックだったし、弱さを見透かされていたのが、恥ずかしかった。最後に去来した想いは、自己憐憫を伴う諦観だった。
それにしても、我ながら人の感情というのは、本当に自分にとって都合のよいものにできている。ほんの数秒で相反する感情が移り変わりながら、そのどれもが自分を正当化するように働く。
宗教的な理由から、あるいは単に人の感情を操作するという技術に対する薄気味悪さから、いまなお施術を受けずに、自然な感情のまま生きている人々は一定数いる。
先進諸国に生まれ、そうした施術を受けるのは当たり前だったから、自然な感情のままで生きている人々の存在は知ってはいたが、身近にはいなかった。
だが、今その状態に強制的に置かれて実感する。こんな荒れ狂う台風のような感情の濁流に身を任せたまま生きていくなど、なんと不安定で野蛮なことなのだろうと。
大嵐の中にいても、なお辛うじて客観的に自分の感情の動きを考えることができるのは、きっと人為的にコントロールしていた時の経験があるからだろう。
こんなうつろぎで当てにならないものに、自分の行動が決められてしまうのは馬鹿げていると、心のどこかで、思っているのだ。
そうだ。こんなものに・・・振り回されるな。
自分の意思で、この不安定なものを・・・感情をコントロールするんだ。今はそれしかない。
急に真っ白なモヤに覆われていた視界が開けた気がした。暴徒の大群、街に蔓延する疫病、それらの圧倒的な現実があまりにも生々しく、容易に死を連想させてしまうから、恐怖にとらわれていた。
それは、目の前に置かれた状況のリスクを過剰に見積もってしまう。恐怖を拝すれば、より正確な状況が見えてくる。
自分のこの身体能力の優位性があれば、あの暴徒の大群を突っ切るのも容易いことではないのか。
全員を撃退する必要はないのだ。彼らも、感情に・・・集団的で一時的な熱狂の渦に囚われているだけだ。
つまるところ、所詮は烏合の衆だ。計画性もなければ、集団をまとめるリーダーなどいやしない。
数人を排除すれば、仮想世界で日々繰り広げられている様々なゴシップや事件を非難する集団のようにあっという間に沈静化するはずだ。
「・・・そんな挑発をしなくても、逃げませんよ。安心してください。」
タリの体が震えているのに、ようやく気づいた。やはり、感情は目を曇らせる。
こんな混乱状態の街の中に、少女が一人取り残されるのを望むはずがないなど、わかりきっているはずなのに。
「ここにいてください。」
「え・・ま、待ってく・・」
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