第19話 覚悟と現実
まただ。例のタリのあの目だ。心を探られているかのようで、妙に落ち着かなくなる。
目的か・・・そんなのは、単にガラの頼みを聞いただけだ。つまるところ、当面の日銭を稼ぐため、要は金のため、自分の生活のため、という何ともつまらない理由だ。
身もふたもない本心を正直に話すべきだろうか。別に隠すような話しでもない。どのみち、今のタリにとってつけたような嘘を吐いても、すぐ見抜かれてしまうような気がする。
「・・・目的も何も・・その仕事、金のためです・・すいません・・」
と、ボソッと、呟く。どうにも後ろめたい気分になってしまう。
こわごわとタリの様子を伺うと、目をきょとんとさせていた。そして、小さな口をこれでもかと開けて、先ほどと同じくらい、いやそれ以上の大笑いをする。
「・・・そう言われるとは思わなかったです。そっか・・金のためか・・」
「・・・そんなに面白いことですか?」
思わず、呆れた口調で言う。
「はい。面白いです。こんなに・・・笑ったのは本当に久しぶりです。」
と、タリは、こちらの気持ちなどお構いなしに、一人何やら楽しんでいる。ただ、こちらの回答にはおおいに満足している様子だった。
先ほどの近寄りがたい雰囲気は雲散霧消して、いつものタリに戻っていた。
「なんだか、眠くなってきちゃいました。」と、両手を屈伸させて、ノビをする。そして、そのまま背中を向けて、ベッドに横になってしまう。
その態度の変わりように、しばし呆然とする。いったい何だったのだろうか。
しばらく座り込んで、タリの様子を見ていたが、やがて寝息が聞こえてきた。これ以上馬鹿みたいに一人座り込んでいてもしょうがない。腑に落ちない気持ちを抱えたまま、ベッドに横たわる。
結局、完全に眠りにつくまでに、それからまた数十分かかった。
ギイっと建て付けの悪い扉が開く音で、目が覚めた。天井の隙間からは、日光がポツリポツリと差し込んでいる。汗やら血やらが大量に染み込んだ服のまま寝たので、体中がむず痒い。とても爽快な朝を迎えたとは言い難いが、それでも体も頭も大分軽くなったように感じる。
隣を見ると、タリの姿はなかった。起き上がり、ちっぽけな平屋の中を見渡すが、室内にもいない。
外へ行ったのか、と思い玄関の方へと移動すると、ちょうどタリが戻ってきた。
手には桶が握られていた。池まで水を汲みに行ったのだろう。
「あっ・・おはようございます。起こしちゃいましたね」
「いえ・・それより、すいません。遅くまで寝ていて・・・それに水汲みまでやらせてしまって・・」
あの池から、少女の力で、水を運んでくるのはかなりの重労働だろう。呑気に寝ていたのが、恥ずかしくなってしまう。
「大丈夫ですよ。日課ですから。それに・・・よく寝たせいか、今朝はやけに体調がいいんですよ。水汲みもいつもより全然疲れませんでしたから。」
最初は心配させないようにそんなことを言っているのかと思ったが、どうやらそういう訳でもなさそうだ。確かに、タリの肌ツヤは健康そのものに見えた。
服も既に新しいものに着替えていた。特徴のない茶褐色の布服だが、こざっぱりとした外観になっている。とても死病を患っているようには見えない。どこにでもいる快活な少女にしか見えない。気にしていた黒斑も、腕や足を服で覆っている状態だと、外からは全く見えない。
タリに、男物の服が余っていないか、と聞くと、幸いなことに、一着だけあった。サイズなどもともとあってないような粗末なものだから、何とでも調整がついた。血でどす黒く染まった服のまま街に戻るという最悪なことにはならずに済みそうだ。
昨日の襲撃の件もあるから、なるべく早い内に、出発した方がいいだろうということで、タリと意見が一致した。
簡単な身支度をして、まだ日が低い内に、家を出る。あたりを見回すと、襲撃者たちの痕跡はほとんどなくなっている。昨夜の内に、あらかた森の生態系の循環に組み込まれたのだろう。感心する一方で、もし森で一夜を過ごしていたら今頃どうなっていたのだろうかと、背筋に寒いものを感じてしまう。
ところどころ残されている彼らの残骸も高い藪で隠されていて、一瞥しただけでは、ここで戦闘があったことなどまるでわからないだろう。
襲撃者の仲間が、後を追ってきたときに、何が起きたか把握するのには、いささか手を焼くだろう。それは、こちらにとってはプラスになる。
横を歩くタリの表情をチラチラと除き見る。昨夜の寝る前と同じ調子で、やけにあっけらかんとしている。恐怖や不安といった感情はその表情からは読み取れなかった。昨夜、自分の死や人を殺したことに怯え慄いていた少女と同一とは思えない。
良い風に考えれば、一度死を覚悟した故の開き直りといったところだろうか。
それにしても・・・昨夜は頭も働いていなかったし、タリの妙な雰囲気に圧倒されて、彼女が話した内容をしっかりと考えることができなかったが・・・
あらためて昨日のタリの言葉を思い返してみると、初めて会ったあのとき、タリはこちらに殺意を抱いていたということか。
誤解とはいえ、あのまま一緒にいたら、下手をすれば殺されかけていたのかもしれないのだから、正直ぞっとする。
貴族に対して、そこまでの恨みを抱くなんて、いったい過去に何があったのだろうか。話しぶりからするに、だいたいの想像はつくが・・・
いずれにせよそんな状態からすれば、タリとの関係は大分改善したのだろうか?
とはいえ、彼女がこちらに抱いている感情は、今も正直よくわかっていない。
まったく・・・人との関係はこれだからやっかいだ。人の感情ほど不安定なものはない。自分の感情さえはっきりと理解するのは難しいし、よほど訓練を積んだ修行僧でもない限り、自然な意思だけで制御するのは困難だ。自分の感情さえこうなのだ。はっきりいって、他人の感情を推察しても、その精度は、人間の裁判官の判決と同じようにあてにならない。
せいぜいがその値がプラスかマイナスかくらいの判断しかできない。マイナス1の場合もあれば、マイナス100の場合もあるだろう。
前の世界では、生身の人との関係を一切断っても、そこそこ快適に暮らしていけたが、ここではそうもいかない。
タリは、こちらの視線に気づくと、頬を緩めて、朗らかな笑みを返してくる。すくなくとも、プラスであるとは思いたい。
森の中を抜けて、街道へ出ると、あたりの景色は文字通り一変していた。思わず、自分の目を文字通りゴシゴシとこすってしまったほどだ。
街道は、いつもは、せいぜい商人の隊商がときおり行き交うくらいにしか人の姿はない。それなのに、今目の前に広がっている光景は、まるで、この場で、大市が開かれたのかとみまごうばかりに、人が溢れている。
いったい何が起きているんだと、誰かをつかまえて、聞くまでもなかった。あちらこちらで、人々ががなり立てているのが、嫌でも耳に入ってくるからだ。
「あの街はもうダメだ」、「死病が広まっている」と情報交換をしている商人たち、僧服をまとった一見すると坊主に見える者や、医者だとうそぶく輩たち、そうした雑多な人々が、各々の目的のもとに、大声を上げている。
後者の者たちは、「死病に効く特効薬」だの、「教会の聖遺物から拝領したあらゆる病気を治す欠片」を持っているなどと叫び、街道を行き交う人々に、これ見よがしにアピールしている。
まさに市と変わらない騒々しさだ。違うのは、人々の表情だろう。恐怖、不安、混乱が入り混じった顔だった。目は落ち窪み、ただ一点のみ、街とは反対側の地平線を睨むように見つめている。人々に治療薬を売りつけているはずのニセ坊主やニセ医者ですら、その表情に不安の影が現れているのがわかるほどだ。
それでも、何かに縋りたい人々は多いのだろう。ダメ元とわかりながらも、路銀をわたして、そういう輩から短い賞味期限つきの希望を買っていた。
生活用品のありとあらゆる者を荷車に詰め込んで、その重さで体を軋ませながらも、懸命に人々は街道を前へ前へと進み、街から遠ざかっていた。
ときおり、馬車とすれ違うこともあったが、それはまれだった。裕福な階級の者たちはもう既に大半が避難しているのだろう。
ここに残っている大勢の者たちにしても、街を離れてもなんとか生きていける見込みが立つ最低限の人脈や財産があるのだから、比較的マシな方なのだろう。
おそらく本当に何も持たざる者たち、日々の食い扶持を稼ぐのにやっとの人々たちは、街から離れることはできないだろう。そしてそういう人々の方が、街の人口の圧倒的多数を占めているはずだ。
目の前で繰り広げられる騒ぎに、陰鬱とした気分になる。いったい街の中はどうなっているのだろうか。
タリは、ぎゅっと唇を噛み締めて、両手で、自分の体を抱きすくめていた。当然、その表情には、暗い影が宿っている。
大丈夫ですよ、と声をかけてやるべきなのだろうが、とてもそんな楽観的なことを言える状況ではない。
「先を・・・急ぎましょう」と、声を震わせずに、平然とした素振りを見せるのが精一杯だった。
街に近づくにつれて、街道を行き交う人の数は減っていった。そして、街の方角に向かうものはこれまでのところ皆無だった。街の方へと向かう影人たちを見て、ときおり怪訝な顔をするものもいたが、大半は、自分たちが逃げるのにいっぱいいっぱいで、他人のことなど目に入っていない様子だった。
幾人にもすれ違う中で、一人だけこちらに近づいてきた者がいた。やけに人相の悪い足を引きずっていた壮年の男〜この世界では老人といっても良い年だろう〜で、こちらをジロリと睨むと、無言で、手をこちらに差し出す。
何かと覗き込むと、その手の中には、幾ばくかの硬貨が握りしめられていた。どうやら、こちらにくれる気らしい。
差し出された硬貨は、パンを2つ買える程度の少額だ。だが、老人の格好からして、どう見ても人に施しをするよりも、自分が施しをうける側のように見える。そんな愛想のかけらもない見すぼらしい老人がなぜ見ず知らずの他人に金を渡すのか、と訝しむ。
受け取るのを躊躇していると、「ありがとうございます。」と、タリが、その老人の手を握りしめて、硬貨を手に取る。老人は、うんうんと一人無言のまま頷き、足をびっこにしながら、離れていく。
「こんなときに、街に戻ろうとしているわたしたちは、よっぽど哀れに見えるのかもしれませんね。今なら教会の前にいるプロの物乞いたちよりも、稼げるかもしれませんね。」
と、タリは、苦笑いを浮かべている。あの老人も前に影人に施しを与えた商人と同じように、自身が神に救済されるという利益のために行ったのだろうか。だが、あの老人の態度からは、そんな計算をしているような感じは受けなかった。
遠くに、街の城壁が見えた。それだけ見れば、いつもと何も変わらぬはずなのに、巨大な黒い暗雲が街全体を覆っているように感じてしまう。
無秩序を常とするこの世界の中で、街は唯一、それなりの秩序と安定が保たれていた場所だった。だから、街から離れて、城壁の外に出るときは、不安でしかったなかったが、今やすっかりそれがあべこべになってしまっていた。
街に戻るのが恐ろしかった。無秩序と混沌、そして死の気配がこんなに遠くからでも否が応でも感じ取れてしまう。
自分だけは、この死から逃れる術を持っている・・・今でもそう思ってはいるが、その確信は、徐々に薄れていた。
自分の体に施されている技術の効果を信じるのは、ある意味、宗教みたいなものだ。そもそも、どう機能しているのか、その原理を知らないのだから、観察や分析をして、理解するのではなく、ただ信じているだけなのだ。
そもそも信じるなどと言っている時点で、既に科学的ではない。それは、神や聖遺物の奇跡を信じる行為と根底の意味では同じことだ。ある意味で、街道で、胡散臭い特効薬や聖遺物を買い漁っていた人々と同じなのだ。
どちらにせよ、平時ならば、信仰を維持するのは容易い。危機にこそ、信仰は試される。周りを取り囲むこの圧倒的な死の気配を前に、影人の信仰は大いに揺らいでいる。
代わりに、心を占めるのは不安だ。一度脳裏にある感情がふと浮かぶと、意思の力だけでは、なかなか消すことはできない。だが、この世界では、人の生来備わっている意思だけでしか感情をコントロールするすべがない。
ふと、自分の腕を見る。一瞬、目の端に、黒いものが、よぎる。はっと息を止めて、目を凝らす。手を震わせながら、その忌まわしい黒いモノに触れる。
触れると、その黒い模様は肌に広がり、手に付着した。全身が脱力して、その場に座りこみそうになる。単なる泥だ。
この世界の事柄について、未だに自分とは関係ない、火の粉は及ばないことだと思っていた。他人、他国の問題について、客観的な意見を言うことは容易い。それは、自分の利害には関わらないからだ。いわば通りすがりの傍観者、旅行者だ。
この街について、いやこの世界について、そうした冷めた見方を今の今までしてきた。自分は、ここにいるべきではない存在で、今いるのは一時的な状況に過ぎない。
結局のところ、どこかで、そう思っていたのだ。そんな甘い幻想が、足元から崩れ落ちている。
この容赦のない過酷な世界は、ありったけの死を内包した風を振りまきながら、安全な観客席にいたはずの自分に迫ってきている。
「大丈夫・・ですか?」
タリが、心配そうにこちらを見つめている。その表情は陰りがあったが、それでも無理やりに作ったわずかな微笑みをたずさえていた。こちらを元気づけようとする気遣いだろう。
恥ずかしさと情けなさが入り混じり、顔が熱くなる。自分の命に危機が迫っていると自覚した途端に、この少女も、この街の運命も頭の中から綺麗サッパリ消え失せていた。
不意に、タリが手を握ってきた。その手はざらついていたが、不思議と人の手に触れているだけで、少しだけ心が暖かくなる。
もはや観客席にはいられない。もといた世界の・・最貧国の名もなき不幸な少女の物語なら、感傷に浸り、「可愛そうだね・・でもしょうがない」の一言で、済ませることができただろう。
そう言えば・・・学生時代に、何かの授業で、そうした貧困国の生活を経験させられたことがあった。仮想世界でのその体験は、現実世界と何も変わらないはずだったが、やはりそれは自分の中では関係のない話だった。
何の因果か、自分は、今やそこの住民になってしまった。いや、貧困国の生活すらユートピアと思える世界の住民になってしまった。
この世界が、何なのかはわからない。もしかしたら・・・いやおそらく・・・
だが、それがわかってどうなる。逃げることができないのなら・・・終わることのない夢ならば、それは現実と変わりがない。
それならば、この世界で生き抜こう。
タリの手を握り返し、その顔を見つめる。
「・・行きましょうか・・・」
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