第18話 加速する変化
心も体も酷く疲れている。言い訳には違いないが、こんな状態で良い案が出るはずもない。
とりあえず何にも考えずに、眠りたかった。今日くらい問題を先送りにしてもいいだろう。
「・・・そう・・ですね・・・私も今日は・・色々あって・・・本当に疲れました・・・」
と、意外にも、タリも問題を棚上げにするということに賛同だった。それどころか、おもむろに立ち上がり、スタスタとさっさと奥の部屋へと歩いて行ってしまう。タリの反応に拍子抜けして、座り込んだままでいると、
「どうしたんですか?ベッドはこっちですよ。」
と、タリは怪訝な顔で、こちらを見る。
「えっ・・は、はい・・・」
今の自分はおそらくなんとも情けない顔を浮かべているだろう。そんなことを思いながら、タリの後をついていく。
奥の部屋には、記憶にあった通り、やはりベッドは一つしかなかった。しかも、どう見ても、一人が寝るのがやっとという小ぶりなサイズだ。どうしたものかと、目が泳ぎ、その場でオロオロと立ちすくんでしまう。
しかし、タリはこちらの動揺などまるで気にもとめていないようで、さっさとベッドの上に寝転ぶ。小柄な体をベッドの端に寄せて、しっかりともう一人分のスペースを確保する。
一緒のベッドで寝てもよいということなのだろうか。
それにしても、本当に疲れていたのだろう。タリは既に、体を横にして、目を閉じている。タリのアッケラカンとした態度を見ると、気を揉んでアタフタしている自分がバカバカしくなってしまう。
少しだけ躊躇したが、タリが開けてくれたベッドの空いたスペースに体を投げ出して、横になる。できる限り身を縮こませるが、それでもやはり大分窮屈だ。ベッドの上で、互いに背を突き合わせる格好になる。先ほどまで一刻も早く休みたいと思っていたのに、いざそうなると頭は覚めたままだ。
ベッドが窮屈でリラックスできないというのもあるが、すぐ隣に少女が寝ているという状況ではどうにも緊張してしまう。
タリはもう寝ているのだろうか。耳を済ませても寝息は聞こえてこないが、何とも言えない。
そのままベッドの上でどれくらいの間、まんじりともせずにいたのだろうか。寝ようとしようとすればするほど、頭は反対に覚醒してしまい、これからのことを考えずにはいられなかった。
この世界のこと・・・何故こんな場所に自分はいるのか・・・そもそも元の世界に戻る方法はあるのだろうか。考えてもどうにもならないことばかりが頭に浮かんでは消える。
あの平和で穏やかな世界に戻れるものなら、それこそ何でもするだろう。だが、その方法はわずかの糸口さえ見えてこなかった。
帰還の方法について、こんなに考えこむのは久しぶりだった。最初の数日、それこそ一ヶ月はそればかり考えていた。だが、いつしかこの野卑な世界で、生き抜くのに精一杯で、元の世界に戻る方法など頭の隅へ押しやられていった。
はっきり言って、心のどこかでは、もう元の世界に帰還することを諦めていた。たった数ヶ月とはいえ、人は目の前に置かれた環境に適応する生き物だ。いまや、この世界が本当のリアルな世界で、元いた世界がそれこそ夢だったのではないかとすら思えてしまう。
唯一、夢でなかった証は、強化された身体能力くらいだ。だが、それ以外は、自分の記憶しかない。人の記憶というものがいかに曖昧で、簡単に操作できるものか知っている身としては、すがるにはあまりにも頼りない。
それは、人の感情ほどに不安定でうつろぎやすい。十分すぎるほど、よくわかっている。自分の感情も記憶も好きなように、実に都合の良いように改変して、つかの間の快楽に浸っていたのだから。
このままこの世界で何もできずに、ただ年月を重ねていくだけかと思うと空恐ろしくなる。野蛮で非文明的な世界で、一人取り残されて、やがて人知れず死んでいくなど・・・
恐怖もあるが、何故自分が・・という悔しさや怒り、そして、悲嘆、様々な感情がごちゃまぜになり、いても立ってもいられないほどの想いに襲われてしまう。
だから・・・考えるな。
そうだ。それよりも、今は、目の前の問題だ。この先、タリをどうするかという問題に集中しろ。
頭の回路を仕切り直すように両手を広げて、こめかみを締め付ける。
タリを連れて、街に戻るしかないだろう。街には父親のガラもいるし、アニサだって、タリとは大分親交があるようだし、事情を話せば、なんとかしてくれるかもしれない。
ガラも娘の身が危ういとわかれば、必死になるだろう。何かしらの方策、例えば・・・新たな隠れ家を手配してくれるかもしれない。
自分は、この件については、あくまで部外者であり、雇われの身なのだ。何かを決める権利も責任もない。雇い主であり、父親であるガラの判断を仰ぐのがスジだろう。
アニサとガラは今頃何をしているのだろうか。ほんの一日しか経っていないのに、随分長い間、街を離れている感覚に襲われる。死病の騒ぎが治まっていればいいのだが・・・
「街に戻るつもりですか?」
突然、タリから声をかけられた。ずっと起きていたのか。それにしても、まるでこちらの心を読んでいるかのような絶妙なタイミングだ。
「・・・起きてたんですね・・・はい。それが一番良い方法だと思います。もちろん、病気のことは気になりますが、なんとか・・・・」
そこで、喉がつっかえてしまった。何かが背中をはっている。タリが、自分の背中に触れているのだと、気付くのに、数秒かかった。
「・・・こっちを向いてください・・」
「えっ・・ど、どうしたんですか?」
「・・・いいから・・顔を見せてください・・・」
ベッドの上で、おそるおそる体を180度ひねって、顔をタリの方へ向ける。目の前には、少女の顔があった。顔も体も近すぎる。わずかな息遣い、体の柔らかい感触も伝わってくるほど、密着していた。
目の前の無表情な顔に浮かぶ大きな目は、ただこちらを見つめている。視線を外して、
「な、なにか気になることでも?」
別に後ろめたいことはないはずなのに、声は上ずり、背中からは冷や汗まで出てくる始末だった。
「・・・わたしの顔、体をよく見てください」
どういう意味だ?とますます汗が出てきたが、すぐにタリが言わんとすることがわかった。黒い斑紋のことをタリは気にしているのだ。街に戻るのであれば、死病の証となるあの斑紋を隠さなければならない。
目立たないところに少々あるだけならば、なんとか隠すこともできるだろうが、もし全身に広がっていたら、それも難しくなる。
タリは既に、肌着をめくっていて、両腕、両足の大部分の肌が露出している。
「・・・わかりました。」
と、努めて平静な声色を使ってはみたが、ややぎこちないのが自分でもわかったほどだ。
夜目が効いてきたとはいえ、光源は天井の隙間から入るわずかな月明かりだけだ。黒い斑紋を見つけるためには、それこそ目を皿にして、肌に顔を近づけないといけない。
人のましてや、赤の他人の男が、少女の肌に触れて、顔を近づける行為が、いかに不自然なことかは言うまでもない。
タリは、この世界の普通の男であれば、間違いなく魅力を感じるには十分な部類の女性だ。そして、今、影人自身も、タリの外見に惹きつけられてしまっている。
ほっそりとした化粧っ気のない顔と、少し痩せぎす気味の体が、天井から漏れる月明かりによって、まだらに照らし出される。
これまで元の世界で見て、触れてきた、女性たちに比べればはるかに、見劣りするというのに、何故こんなに興奮しているのだろうか。
リアルの・・・、AIではなく、生身の女性だからなのか。
そんな訳がない。影人が生まれた時から既に、仮想世界での体感は、現実世界のそれと機能的には、何ら変わらないレベルの水準になっている。
それに、AIだって、人と相対する際に自然な会話が出来るどころか、膨大なデータから、その相手の趣味趣向に応じた完璧な人を演じることができる。
仮想世界でも、現実世界でも人とコミュニティケーションを取ることには、ストレスを感じるが、AIが演じる人とのそれは、常に自然に振る舞えて、ストレスなどない。
仮想世界での体感が不自然だとか言うのは、それは単なる人の主観的な感情、つまるところ思い込みにすぎない。
ある芸術作品を絶賛していたのに、それがAIによって創作されたものだと知ると、途端に貶す人間至上主義者(ヒューマニスト)たちのようなものだ。
だから、きっと今、胸にいだいている感情は、きっとそれだけ影人がこの世界に染まってきた証ということだろう。
不安定で危うい人との触れ合いに、慣れるどころか、楽しむことすら出来るようになったということか。
先ほど押し殺した不安の種がまた胸に広がりはじめる。だが、原因たる目の前のタリの存在が、皮肉にもすぐに原始的な本能を刺激し、芽生えつつある恐怖を抑制する。
自分が抱いている性的な欲望をタリには知られたくなかった。今、この状況で、そんな自分本位の享楽的な感情を抱くことは、無神経で、恥ずべきことのように思えた。
とはいえ、タリに悟られまいと意識すればするほど、呼吸音は荒くなり、手からは汗が滲んでくる。タリの顔の方に一瞬だけ向けて、表情を読み取ろうとする。だが、あいもかわらず、無表情のままだ。
何を考えているのだろう。男にこんなことをされて、何とも思わないのだろうか。本来の目的を忘れかねないほど、意識は進路を大きく逸れてしまっていた。
だが、それもほんの束の間のことだった。皮肉なことに、現実に引き戻すには十分なほど、黒斑の異様な存在感はタリの肌のいたるところにあった。
こんな暗闇の中でよくぞわかるものだというほど、その斑紋は色を放っていた。黒という表現は適切ではないかもしれない。正確な黒色ではないのだろう。この闇の中で、目につくのだから。
幸いと言ってよいのだろうか。どの黒斑も、服で隠せそうな場所にしかなかった。だが、その広がりは、まるで体内で増殖する病原菌が可視化しているように確実にタリの全身を蝕んでいた。
ひととおり、タリの肌を確認して、「・・・これなら、服で隠せそうですよ」
と、努めて気軽な口調で、話しかけた。だが、内心は動揺していた。気のせいかもしれないが、たった数時間前に見た時よりも、黒斑の面積と数は増えているように見えたからだ。
タリは、ゆっくりと体を動かして、ベッドの上に座り、こちらをまじまじと見つめてくる。
「・・・本当に変な人ですね」
っと、顔をクシャクシャにして、本当におかしそうに笑っている。いったい何が起きたのかさっぱりは理解できなかった。なぜ、タリが突然、大笑いしているのか。笑う要素など皆無だというのに。
タリは、こちらが戸惑っている姿もまたおかしそうに見ている。やがて、満足したとばかりに、笑うのを止める。
「すいません。突然笑ったりして・・・ただ、わからないんです。私が死病だと知っているのに、あなたは、赤の他人の私を見捨てずに、まだこの場にいる。何故ですか?」
答えが返ってくるのを期待していなかったのか、タリは、すぐに、堰を切ったように話しを続ける。
「父から、あなたの話しを聞いたとき、どこにでもいる世間知らずの貴族の息子だと思いました。家督を継がないで、呑気に放蕩している人々、そういう人たちを、散々、見てきたから。」
と、タリは吐き捨てるように言い放つ。その目には、明白な憎悪の感情が込められていた。
「最初、会ったときのことを覚えていますか?あの日、わたしはこの病気になって以来、久しぶりに気分が晴れやかになっていたんです。ああいう貴族連中にわたしのような力のない女でも、ささやかな復讐が出来ると思って。
明日には忘れてしまうようなその場限りの女から、死を宣告されたら、どういう顔をするのか・・楽しみでたまらなかった。でも、そうはならなかった・・・」
目線は確かにこちらを見据えているはずなのに、まるではるか彼方の山を見ているかのようにタリと視線は合わなかった。
「それなのに、あなたはまたこの家に来た。私のこの忌まわしい黒い肌を見ても、逃げずに、私を助けて、襲撃者からも命をかけて守ってくれた。そして、いま同じ寝床をともにしている。まるで、吟遊詩人が唄う現実にはありもしない騎士物語みたいじゃないですか?」
タリは再び笑う。だが、それは先ほどとは違い、乾いた皮肉な笑みだった。そして、歪んだ顔を元に戻すと、こちらをじっと見る。今度は、こちらをしっかりと見据えていた。
「・・・何が目的なんですか?」
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