第15話 合理的な信仰

「・・・私、死のうと思ってあんなことしたわけじゃないんです・・・ただ、少しでも良くなろうと思って、血を抜こうとしたんです。悪い血を抜くと良くなるって、誰かが言っていたのを前に聞いたことがあったから・・・でも・・・それまで、そんなことしたことがなかったから・・・ナイフで血を抜いているうちに、だんだんと意識がボンヤリとしてきて・・・それで・・・最初はこのままだとマズイと思って、なんとかしようと思ったんです。でも・・・」

 タリは、一拍置いて、足取りを止める。そして、ゆっくりと、振り返り、真っ直ぐこちらを見つめる。

「・・・もうこのまま目覚めなくてもいいんじゃないかな・・と思えてきたんです。だって・・こんな病気にかかって・・・肌にだって・・・こんな黒い痣が出てきて・・・治る可能性なんて、もうないじゃないですか・・・たとえ、少しの間、生き長らえても、ずっと隠れていなきゃならない。もし誰かに見つかったら、街から追放されてしまう・・・ここと同じような森の中で、一生同じ病気の人たちと暮らすなんて・・・そんなの耐えられない・・それより、いっそこのまま神様の元へ行った方がいいな・・と思ったんです・・・まあ・・・天国に行けるかはわからないですけどね・・・」

 タリの話しぶりは饒舌だった。自分の想いを誰でもいいから、聞いてほしかったのかもしれない。それはいい。話しをただ聞くだけならば、楽だ。だが・・・

 目を逸してほしかった。しかし、タリの真剣な眼差しはずっとこちらを見据えたままだ。何か救いとなる答えを返してほしい・・そんな想いが込められている瞳だった。

 なんと答えればよい。「生きていれば良いことがあるよ」とでも返せばよいのか。 そんな、一世代前の不自然なAIが吐き出す陳腐な慰めの言葉をかけることなんて、とてもできやしない。

  かといって、人の生死について何かを語れる深い考えなど持ち合わせていない。そもそも、死についてマトモに考えたことなどないのだから。

 死など、天文学的な確率とは言えないまでも、滅多に起きない世界でずっと生きてきたのだ。だから、宗教にだって明るくない。

 百歳以上の高齢者だったら、答えられたかもしれない。あの世代は、過去に囚われている人が多いから、未だに宗教を信じている人たちはそれなりにいる。この数十年に起きた人類史上最大と言って良い急激な変化は、既に壮年世代を迎えていた彼らの多くにとっては、受け入れられないことだったのだろう。

 だが、そうした急激な変化が、生まれた時から続いていた自分たちの世代にとってはごく自然の当たり前のこととして受け入れてきた。

 だから、今や、自分と同じ世代で、神を信じている者は、極一部の最貧国に暮らす者か、あるいは、現代文明を拒絶した特殊な共同体に暮らす者たち以外にはいない。

 現時点でも、永遠とはいかないまでも、半世紀前の平均寿命の倍は生きられるのだ。あと百年もすれば〜つまりそれは、自分たちの世代がまだ元気に生きている間ということだ〜寿命はさらに数倍に伸び、それを何回か繰り返せば、事実上永遠に近い生を得ることが可能になるだろう。

 そうした世界で、誰が神を信じるというのだ。神話や各種宗教の経典に記述されている神の行う様々な奇跡など、今やそこらの中学生にだって、簡単にできる。

 そうした神話に登場する、回復の見込みもない疾病を治す癒やしの秘蹟も、飢餓にならないために、穀物の実りを約束してくれる肥沃な大地も、絶え間なく起こる戦乱を回避するための人の欲望の制御も、今や神に祈り、渇望する必要はない。

 その全てを、人類は今や手にしているのだ。一部の・・本当に極一部の例外を除いて、世界から、疾病、飢餓、戦争、その全ては事実上、根絶したのだ。

 むろん、それは、神の力ではなく、人類の力によるものだ。科学技術という・・・影人も含めてその恩恵を受けている人類の大半にとってはもはや原理すらわからないのだから、事実上は魔術と変わらないが・・・人類の数千年の叡智の結晶によって、成し得たのだ。

 そして、近い将来、寿命においても、神〜神話の神々の大半の永遠の意味は千年が精々だが、現代に生きる人の寿命はかなりの確率で千年を超えることになる〜を上回るだろう。

 だから、影人が生きていた世界で、神は歴史の中の存在でしかなかった。人の手で操作する車や紙の本、物質的なお金と同じような歴史上の遺物に過ぎない。

 その本来の機能自体にはとうに価値はなくなり、ただそれらが使われ続けてきた歴史の重み自体に価値があるもの、ありていに言えば、ちょっと豪奢な雰囲気を演出するための、運転手付きの車〜実際には人は運転はしないが〜のようなものでしかない。

 だが、この世界では、神は、確かに存在している。あらゆる人々にとって欠かすことのできないインフラだ。自分たちの目の前で何か予期せぬことや理解できない事象が起きた時、あるいは、人生において重大な何かを決める時、さらに、日々の何気ない生活の取り計らいまで、全ては神の存在が前提となり、決定される。

 それはまるで、影人のいた世界において、ありとあらゆる場所に張り巡らせて、その存在や仕組み自体もはや見えなくなっているほどに、人々の生活に浸透している情報通信技術のようなものだ。

 何か、わからないことや困ったことがあれば、自分以上に自分のありとあらゆる特性を知りつくしているAIが瞬時に最適な答えを返してくれる。そのお告げに従って、人々は人生を歩む。

 この世界では、そうした役割を、神が担っているのだ。

 神など存在しないし、来世などある訳がない。人の魂なども存在しない。人の本質をミクロ単位に突き詰めていけば、そこらに転がっている石と何ら変わらないのだから。

 それらが、真実であることは、十分に理解している。一応、先進諸国で通常の教育を受けて、国民ならば無料で受けることができる最低限の強化措置を身体に施しているのだから、科学的基礎知識は、否が応でも脳内にインプットされている。

 だが、完治する見込みのない病気に苦しみ、ようやくその死を受け入れ始めている少女にその事実を話して何になる。

 いや、そもそも理解すらされないだろう。この世界において、神が存在しないと主張することなど、紙幣は単なる紙〜もっとも、世界の大半の国で紙幣が廃止されて大分たつから、種類によっては、今では一部のマニアには紙以上に価値があるが・・・〜で価値などないと主張するほどに滑稽なことだ。

 この世界の人々の大多数はその名称や細かい教義がなんであれ、人の力の及ばぬ神、その神が人に力を行使することを信じている。

 多くの人々が信じている以上、神が真実いなかろうと、実質的には神は確固たる存在感をもって、社会に、そしてそこに暮らす人々に、影響を及ぼすことになるのだ。

 そして、その力は、まだほんの数ヶ月しか暮らしていない影人の心にも、確実に影響を及ぼしている。実際のところ、影人は、今や次第に神の存在を、いや必要性を信じはじめているのだ。

 この世界では、街を歩けば網膜に飛び込んでくる広告のように人の死を頻繁に目にし、耳にする。そして、人々は、そんな状態を変えようともせずに、当たり前のこととして受け入れている。なぜ正気を保ちながら、こんな生活を送っていられるのか不思議でならなかった。

 幼年期を運良く生き延びても、待っているのは、過酷な労働、そこまでしても、日々生きていくのがやっとの状態だ。ガラのように強運と才覚に恵まれて、そうした生活から解放されても、病などのちょっとした不運に見舞われれば、それで全てが終わってしまう。

 そんな世界で人々は、長期的な展望や希望など見いだすことができるだろうか。だから、人々は神というシステムを作り上げたのだ。

 この辛い現世はあくまでも一時的な時間に過ぎず、本番は死んだ後にある。そして、その死後の永遠の暮らしがどうなるかは、現世での徳次第という訳だ。

 だから、人々は、この辛いばかりの現世で、自暴自棄にならずに、与えられた役割を黙々とこなす。全ては、死後の世界での安寧のために。

 もちろん、いくらその教義を篤く信じていても、所詮は感情が複雑に絡み合う人間だ。その信念が揺らぐ時は無数にあるだろう。今のタリのように。

 タリの視線から逃れるように、顔はいつのまにか下を向いていた。結局、何も答えることはできなかった。

 タリは、少し寂しそうな横顔を浮かべて、前に向き直り、再び歩き出した。握られていた手はそのタイミングで離された。


 長い時間だった。実際には小一時間も経っていないはずだ。それでも、このボロ家から池に行って、帰ってくる時間は、体感時間では半日ほどにも感じられた。

 夜の見知らぬ森林を歩いたことの精神的な疲労のせいというのもあるが、それだけではない。タリから投げかけられた疑問がさっきからずっと頭の奥にズンと重しのようにのしかかっている。

 タリは先程からずっと無言のままだ。家に着いてから、いやこれからどう向き合えば良いのか考えただけで、気が重かった。

 あの時、心の底では、タリの選択に・・自ら死を選ぶということに、賛同してしまっていた。だから、何も言えなかったのだ。

 この世界は生きるにはあまり過酷だ。神を、来世を信じている者が、あの世に望むを託すのはある意味当然だ。

 チラリとタリの顔を見る。その時、何か違和感が体に走った。最初はこの違和感の正体は、タリにあるかと思ったのだが、そうではない。

 誰かの・・・複数の人間の気配がするのだ。その気配を察したのは、自分だけではなかったらしい。

 タリもその者らの存在を感じ取っていたようなのだ。最初に感じた違和感は、タリのこの微妙な変化だったのだ。

 今は真夜中だ。そして、今いる場所は街から遠く離れた、何も知らぬ者からすれば朽ちた空き家だ。どういう訳か、その周りを取り囲んでいる者たちがいる。

 どう考えても、こちらに悪意を持っている者たちとしか思えない。タリもおそらく同じ結論に達したのだろう。

 タリは、一歩一歩ゆっくりと足音を立てないように近づいてくる。そして、お互いの額がくっつくほどの距離に達すると、タリが小声で、

「・・・感じましたか?」

 と、問いかけてくる。コクリと頷き、

「・・・野盗ですかね・・・」

 と、言い、心の中ですぐに自分の言葉を否定した。こんな空き家に偶然野盗が来る可能性は限りなく少ない。どう考えても、こいつらには、明確な狙いがある。問題はその狙いが、タリか、自分のどちらかということだ。

 とはいえ、この状態でその答えを考えていてもしょうがない。まずは、この場を切り抜けることが何よりも重要だ。

 相手の気配を察知することはできたが、人数まではわからない。とはいえ、おそらく全員武装しているだろう。大して、こちらは実質的に戦力になるのは一人だ。タリには悪いが、彼女は下手をすれば足手まといにすらなりかねない。

 唯一の利点といえば、こちらが相手の存在を察知していることを、おそらく相手側はまだ気づいていないということくらいだろう。

 互いの距離もまだそれなりに・・数百メートルはあるはずだ。

 このまま、気づかれぬ内に、池まで引き返すか。

 だが、その後どうする?

 着の身着のままで、この森の中で野宿するのか?

 それはそれで、下手をすれば、この刺客たちと対峙することよりも危険だ。格好の獣の餌食になりかねない。

 考えを巡らせていると、タリが、

「戦うしかないですね・・」

 と、淀みない口調でつぶやく。思わず、目を瞬かせる。

 こちらが驚いていることに気付いたのか、タリは口角をわずかに緩めて、

「・・・そんな目をしないでください。私だってちゃんと今置かれている状況はよくわかっていますよ。で、色々考えた結果、なるべく生き延びる可能性の高い方法を提案しているだけです。」

 と、苦笑する。

 そう言うタリの顔を覗き込むと、その大きな丸い双眸には未来を見据えた生者の力強い光が込められていた。少なくとも、先ほどの帰り道の際に浮かんでいたどこか現実離れした虚ろな瞳とはまるで違う。

 何がタリの気持ちを変えたのかはわからない。死が目の前に、現実のものとして現れたために、生存本能が刺激されたのか。どちらにせよ、生き抜く意思がある者と行動する方が、死にたがっている者と一緒にいるよりは、はるかにマシだ。

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