第14話 フェイクとリアル
生命の危機に瀕した人が目の前にいて、助けを必要としている。そんなことはこの世界に来るまで経験したことがなかった。
いや、正確には一度だけそうした場面に遭遇した。
あれは、まだ学生だった頃だ。街中を歩いていると、不意に車が一台交差点を逸れて、歩道に突っ込んできたのだ。歩道にいた何人かの人が車にはねられて、あたりは一時騒然となった。
近くにいた影人はその様子を見て、急激に感情が乱れた。だが、すぐに落ち着いた。事前に設定していた許容量〜自分で精神の揺らぎの範囲を任意に設定はできるが、それは結局のところ数十ページの理解不能な分厚い注釈付の文の後にいくつかの平易なアンケートに「はい」か「いいえ」のチェックマークを押して、答えるという代物だ〜を超える心身の動揺を体内のナノボットが認知したため、急速に体内システムが沈静化させたのだ。
影人の精神の動揺が制御されたのと同じ程度の時間で、目の前の事態も迅速に収拾に向かって、動きはじめていた。
車が本来いるべき車道から外れた時点で、車内かあるいはどこかの監視システムのAIが、異常を検知して、アラートを近隣の警察、病院組織に送っていたのだろう。
既に、救急、警察車両があたりを取り囲んでいた。車両から出てきた人たちが、負傷者たちの様子を確認しながら、一人ひとり車両に収容していく。
影人はその様子を傍観者として、他の大多数の人と同じように眺めていただけだ。本当のところを言えば、リアルの交通事故という滅多に起きないイベントに、気分が高揚していた。それは、許容量内の揺らぎだったから、抑制されることはなかった。
後で視界にアラートされた情報によると、事故の原因は、違法に手動運転を行っていた懐古主義者によるものだった。幸いにも、死者はその運転者を含めて、一人も出ていなかった。
そのため、人の手による交通事故という珍しいトピックではあったが、数日で世間の話題からは消えていった。
影人の記憶からも今の今まで消えていた。何故、今こんな記憶が浮かんできたのか。
影人がいた世界では、他人に大して、徹底的に関わらずにいられたし、責任を負う必要もなかった。それを可能にする社会のインフラがありとあらゆる場所に張り巡らされていた。
だが、この世界では、そんなものはない。否が応でも全て自分の力だけで問題に対応するしかない。そして、その問題にどう対応したかの責任は、自己に帰することになる。
目の前の死にかけている少女に大して何もしないということは、自分の行動によって、助けられたはずの他人の命を見殺しにしたということになる。しかも、その不作為の理由は、病気に感染したくないため、という極めて身勝手な理由によるものなのだ。
そんな社会的に許されない理由で、人の命を犠牲にするという重みに耐えられるほどの精神的な強さを持っていない。だから、先程もリスクを犯して、タリを助けたのだ。ガラやアニサが襲われた時に彼らを助けた理由も、そのことが根底にある。
反対に、敵意をむき出しにして、こちらの命を狙ってくる相手に対処する方が、精神的には楽だ。正当防衛という大義名分を持ち出すことができるから、こんな葛藤に苦しむこともない。
思考の迷路をさまよっていたのは、たぶん一分も満たない時間だったはずだ。だが、それでも、目の前の男が無言で呆然と突っ立っているのは、タリにとっては、随分と違和感があったようだ。
「大丈夫・・ですか?」
タリが、こちらの体調を気遣う感情と不信が入り混じったような表情を浮かべて、こちらを伺っている。
「え・・ああ・・大丈夫です。少し・・・まだ・・頭がふらついていて・・」
影人が、考えを巡らせていた間に、タリも独りで色々と考えていたのだろうか、彼女の様子は大分落ち着いているように見える。
タリは影人の両手をじっと見つめながら、
「手・・血だらけですね・・ごめんなさい。わたしのせいで・・」
と、うつむく。そして、ゆっくりとこちらに近づき、オズオズと影人の両手を触り、
「その血・・・早く洗い流した方がいいですよね・・この家の近くに・・その・・森の中ですけど・・池があるんです。あの・・家の中の樽にはいま水がないんです・・私も血で汚れているし・・・その・・汚いですよね・・」
と、じっと戸惑いがちに見つめてくる。
タリも血で汚れた身体を洗い流したいのだろう。かといって、いくら近いとはいえ、一人で夜の森を歩くのは抵抗があるのだろう。
「・・・一緒にその池まで行きますか?今日は月明かりがあるから、視界もある程度効くでしょうし。このままだと・・確かに汚いですしね。」
そう言うと、タリの顔は目に見えて、明るくなり、わずかに笑みがこぼれた。
外は、月明かりがあるとはいえ、やはり街の中とは比較にならないくらい、闇に覆われていた。タリは、外に出ると、深呼吸をして、外の空気を堪能するように、しばしその場に立ち尽くしていた。薄着の布服では外気はだいぶ肌寒い。だが、先程までの緊張状態から解放されたためか、妙に心地よく感じる。
しばらくその余韻を楽しんでいると、
「こっちです。」
と、タリが、いつのまにか街道とは反対側の藪の中へと足を進めていた。
藪の中には一応道があった。とはいえ、それは、道というよりはむしろ獣道に近い。一応草木が踏みならされて、歩きやすくはなっているとはいえ、少し外れれば、辺りはほとんど腰まである藪にびっしりと覆われている。
前を行くタリの姿は、藪に隠れて、ぼんやりとしか見えない。この暗闇と藪の中では、少しでも離れてしまうと、はぐれてしまいかねない。
タリもそう思ったのだろうか、しばらくすると、ふと歩くのを止めて、肩越しにこちらを振り返る。
そして、伏し目がちに俯き、
「・・・手を繋いだ方がいいですよね・・・その・・血で汚れて、汚いですけど・・」
「え・・あ・・はい・・・」
差し出されたタリの片手を握る。タリの肌は固まった血でガサガサだったが、その小さな手には人の温もりが確かにあった。
物心がついてからこの年になるまで、女性のリアルな手をこんなにしっかりと触るのは初めてのことだった。
仮想空間ではもちろん何度も女性に触れたことはある。そして、仮想空間での質感とリアルな人との質感は違うという主張する人たちがいることも、知っていた。
だが、それは、単なる感情の問題に過ぎず、事実とは違うということも同時に理解していた。脳に直接信号が送られているのだから、現実世界と仮想世界とで、質感が異なるはずがない。
それは、培養人工肉が生物由来の自然な肉〜遺伝子改良を加えて、他の生物とハイブリッドされた肉が自然な肉かどうかはかなり疑わしいが・・〜に比べて美味しくないとか。
あるいは、様々なナノボットを体内に取り込んで、感情をコントールし、強化された人間は、そういったものを一切体内に取り入れていないピュアな人間〜でもそういう彼らだって、自身の脳をオンラインで接続する処置にはおおむね容認しているから、どこからが彼らのいう不自然な処置かは極めて恣意的なものだ・・〜に比べて、感情的に希薄で人間本来の感情表現に乏しいとか。
そういった意見と同様のたぐいのものだ。
つまり、いつの時代にも存在する変化を拒む懐古主義者のたわごとだと思っていた。
だが・・・今、タリの手を握った感触は、確かに今まで仮想世界で人に触れた感覚とは明らかに違っていた。
いや・・違う。
この感覚が特別なものに感じるのは、自分を取り巻く今のこの異常な環境と、この制御できない感情のせいだろう。
誰だって、自分がいた世界とは似ても似つかぬ見知らぬ世界に突如として飛ばされて、さらに、命の危険に晒されたら、何かにすがりたくなるだろう。
そのまま、数分歩くと、周りの藪がなくなり、あたりが開けた場所へと出た。その空間の中心には、縦横十メートルほどの池が広がっていた。
タリは、繋いでいた手を放すと、池に駆け寄る。そして、こちらの方を見て、
「あの・・・私はここで、洗いますので。その・・」
と、気まずそうに、顔を伏せている。
タリが言わんとしていることを察して、影人は、池の反対側へと退散する。この暗闇だから、数メートルも離れれば、視界はほとんどないのも同然だ。
池に近づき、身をかがめて、手を入れる。水温はかなり冷たかったが、我慢ができないほどではない。
上下の服を脱いで、肌着姿になる。水を手ですくい、血がこびりついて変色している肌にかける。水が肌にあたると、その寒さに一瞬身震いするが、それもすぐに慣れた。何度かその動作を繰り返して、肌の汚れを落としていく。
夜気と冷たい水にあてられて、身が引き締まったせいか、妙にすっきりとした気分に包まれる。水浴びの心地よさを感じていたのは、どうやら、影人だけではなかったようだ。
すぐ近くからバシャバシャと水を小気味よく蹴る音が聞こえる。数メートル先にあるタリの姿は、黒い影にしか見えない。だが、その影が、両足を水面に何度か蹴っているような仕草はボンヤリと見えた。そして、その水しぶきの音に混じって、何やら鼻歌が聞こえてくる。
その歌は、記憶にあるどのジャンルの歌とも違う種類の音楽だった。だが、その音色を聞いていると、不思議と気分が和らいだ。
そんなどこか幻想じみた雰囲気が、どれくらい続いただろうか。しかし、そんな弛緩した空気は、唐突に終わりを迎えることになった。
獣の唸るような遠吠えが耳を掠めたのだ。
タリもその音に気付いたのだろう。鼻歌も水しぶきも、その遠吠えが終了の合図となったかのようにピタリと止まった。
その獣の音は決して大きいものではなかった。しかし、その遠吠えは、ここが一寸先すら見通せない漆黒の森林であり、彼ら獣たちの住処であることを知らしめるのには十分過ぎるほどの大きさだった。
「・・・そろそろ行きましょうか」
暗闇からタリの声が聞こえた。タリの動きは素早かった。既にいつのまにか池から出ていて、服も着込んでいるようだ。
森の近くに住んでいるだけあって、普段から獣たちの脅威を身近に感じているのだろう。確かに、こんな暗闇の中で、狼の類に取り囲まれて、藪の中から襲われたら人間など、ひとたまりもない。
そんな様子を脳裏に描いてしまい、思わず身が縮み上がる。体も心もすっかり冷えてしまった。まだ体が濡れているのもかまわず、急いで服を着て、タリの後を追う。
帰り道は、行きよりも大分長い道のりに感じた。気の所為だとはわかっていても、どうにも周りの藪のわずかな揺らぎが気になってしまう。
もちろん、それは生物の動きなどではなく、単なる風が草木を揺らしているに過ぎないのだが、先程の遠吠えを聞いてからはとてもそうは思えないのだ。タリは獣たちから息を顰めるように、ずっと黙りこくったままだった。
この恐怖から、少しでも気分を紛らわしたかった。それにずっと気になっていたことでもある。
思い切って、前を行くタリに、
「・・・タリさん・・・その・・・なんで、あんなこと・・いえ・・自分の腕を刺したりしたんですか?」
と尋ねる。
握っていたタリの腕がビクッと反応して、こちらの手をギュッと握り返してくる。
そして、しばしの沈黙の後で、
「・・・私が・・・自ら死のうとしたと思っているんですか?」
と、抑揚のない声でつぶやく。タリは、立ち止まらずに、こちらを振り向かなかった。その話題には触れてほしくないということを、態度で示しているようだった。その、かたくなな態度に、
「いや・・その・・」
と、意味をなさない曖昧な言葉を返すのが精一杯だった。
結局、そのまま、会話は打ち切られた。後に残るのは、虫の鳴き声と、二人の人間の息遣いと草木を踏み鳴らす音だけだった。そして、時折、森の闇から何の音かわからない小さなざわめきだけ聞こえる。その度に、思わず体を強張らせてしまう。
そんな状態がしばらく続いた。視界は、真っ暗、音も単調となると、時間の感覚はようとしてつかめなくなる。
さすがに、そろそろ家に着くのではないか、いや早く着いてくれと、大分気が焦りはじめていた頃だった。
タリがボソリと絞り出すような声で、つぶやいた。
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