第9話 科学と魔法
「やる・・しかないわね・・わたしの名前はアニサよ。」
この場面で、何故名前なんか・・と、思わず顔を歪める。
修道女は微笑すると「名前も知らない女と一緒に死にたくないでしょう・・」と、少し声を震わしながら、物騒なことを口走っている。
本当に最近は不運続きだ。いったい何度目だ。こんな抜き差しならない酷い状況に追い込まれてしまったのは。
先ほどから、強烈な不安感が全身を支配し、その感覚は耐え難いものがある。
こんなことは何度経験しても、決して慣れるものではない。もちろん、頭では、理解している。自分の強化された能力があれば、切り抜けられる可能性はあると。
だが、現実はゲームのように、単純な要因で決まるものではない。景気の先行きを占うように無数の要因によって、決まる複雑なシステムだ。つまるところ、予測は容易に外れる。いくら身体能力に優れていても、「絶対勝てる」なんてことはないし、「例外」なんていくらでも起こり得る。
そんな不確定なことに、失えば全てが終わる自分の命を安々と掛けられるものか。
そう・・こんな羽目にあうことだってあるというのに・・・
予想だにせず路地のぬかるみに、足を取られて、地面に倒れ込む時、そんな恨み節が脳裏を駆け巡った。
地面に倒れて、格好のターゲットになってしまった影人に、男が勢いよく覆いかぶさってくる。
短剣が自分の喉元に向けて、振りかざされるのが視界に入る。瞬間、頭が真っ白になる。言葉にならないわめき声を上げながら、両手、両足はもちろんありとあらゆる筋肉を、動かして、必死に防御する。
もみあっている内に、何度か、鋭い痛みが全身を貫く。それでも、動きを止めずに、体を懸命に動かし、男を押しやる。そのかいもあってか、男が後ろにのけぞって、僅かな距離が生まれた。その隙をついて、地面に転がっている短剣を手元によせる。男は、その動きに気付き、鬼のような形相を浮かべて、再び短剣を振り下ろしてくる。
無我夢中で、握りしめた短剣を突き出す。
こちらの刃が男の体に達する方がわずかに早かった。短剣が男の胸部に突き刺さる。男は、短い悲鳴を上げて、そのままぐったりと力なく、のしかかってくる。
荒い息をあげながら、上にいる男の体をどかす。両手を地面につけながら、ノロノロと後ずさりする。
その時になって、ようやく女の叫ぶようなうめき声が耳元に聞こえてきた。横を見ると、残った男の一人と修道女・・アニサとが、もみ合っていた。影人が男とやりあっている合間にもうひとりの男はアニサに向かっていたようだ。
アニサは、路地に積まれている木箱を盾にして、なんとか男からの攻撃を防御している。だが、それも長くはもちそうにない。アニサも、影人の様子に気づいたのか、一瞬、こちらの方に視線を向ける。目が一瞬合う。その冷たかった目は生への欲求で熱気を帯びて、すがるような眼差しを返している。
さすがに逃げるわけにはいかない。それに、興奮状態が続いているせいか、全身を襲っていた不安感は先ほどよりは大分中和されていた。
倒れている男の手から、短剣を拝借し、アニサの方へと駆け寄る。目の前まで近づくと、男は、こちらの存在に気付き、チラリと顔を向ける。そして、女よりもまずは、武装した男を始末する方が先決と判断したのか、体ごとこちらに向き直る。
男は、その時ようやく地面に倒れている仲間に気づいたようだ。驚きと怒りが、入り混じった表情を浮かべて、こちらを睨んでくる。
突然、男がくぐもった声を発する。
そして、その両目が急にグルンと上に寄ったかと思うと、その場にガクンと膝から倒れ込む。地面に横たわる男を見ると、首の後ろに短剣が深々と刺さっていた。視線を上に戻すと、アニサが、両手を血に染めて、男を見下ろしていた。
「なんとか・・切り抜けたようね・・・」
アニサの声はまだ少し震えていたが、その顔には安堵の表情が浮かんでいた。緊張状態から解放されたためか、はたまた命を繋ぎ止めたためか、言いようのない多幸感が全身を包む。
だが、そんな気分も長くは続かなかった。すぐに、全身を強烈な痛みが襲ってきたからだ。アニサが、こちらの体を見るや、目を見開いて、驚いた表情を浮かべる。
今まで気づかなかったが、全身血だらけだった。もみ合っている内にいつの間にか何箇所か刺されていたようだ。
痛みはますます強くなっていき、体中が熱くなってきた。もはや立っていられなかった。たまらず、その場に膝を着く。
「ちょっと!大丈夫・・・・・・」
アニサが、叫びながらこちらに駆け寄ってくるのが、ぼんやりと目の端に映る。そして、そのまま視界が暗くなる。
天井に映るのは、真っ白な壁。
はっと気付き、あたりを見渡すと、そこには慣れ親しんだ光景が広がっていた。安物の一人用クッション、ローテーブルに置かれた使い古した端末機器類。
そうか・・・戻ってきたんだな・・・
この場所はあの野蛮で不潔な世界とは違う。清潔で安定した文明の痕跡がいたるところにある。視界には、もう一つ見慣れたものが映っていた。仮想空間に接続するための機器一式がベッドの上に転がっている。
なんだ・・やっぱりそうだ・・あの世界は単なる仮想空間だったんだな・・・
安堵感が全身を包み込む。
でも・・何故だ・・おかしい・・つなぐことができない・・・さっきからずっと脳はオフラインのままだ。
はっとあることに気付き、急に猛烈な不安感が湧き上がってくる。
これは・・夢だ・・・単に夢を見ているだけだ・・・
次に目にしたのは、同じく天井だった。ただ、その壁は石造りで出来た薄汚れたねずみ色をしていた。ゆっくりと体を起こすと、視界に映るのは不揃いないかにも手製の家具の数々だった。寝ているベッドも、酷く硬い。まるで、石のようだ。
戻ってきたのだ。不快な現実の世界に。
自分が置かれていた状況を把握しようと、記憶を辿り、嫌な汗が吹き出てくる。
刺されて、意識を失った・・・
恐る恐る体に力を入れると、意外にもいつもと変わらずに動かすことができる。まだところどころ鈍い痛みがするが、無視できるほどのものだ。
助かったのか・・・
とりあえず、自分の肉体が無事であることを確認でき、ほっと胸をなでおろす。次に気になるのは、ここがどこかということだ。ベッドから下りて、ヨタヨタと扉の方へと向かう。
扉を開けると、石造りの廊下がロの字型に十メートルほど広がっており、中心には庭が配置されていた。見上げると、薄雲に隠れた空が垣間見える。どうやら影人がいた部屋は、建物の中庭に面していたようだ。
建物は、壁や床も含めて、全て石造りで出来ており、今影人が目にしている中庭の部分だけでも、100平米くらいはある。この世界の基準では、かなりの規模の建物だ。廊下を歩く何人かの人間〜全員女性だ〜が視界に入る。みな一様に全身を紺色の服で覆っている。
アニサがしていた格好と同じだった。どうやらここは修道院の関係施設らしい。
さてどうしたのものかとその場でウロウロしていると、修道女の一人がこちらに気づいたのか、駆け寄ってくる。
「・・・そんな・・・」
修道女は見てはいけないものを見てしまったかのように顔を青くして、まぶたを見開いている。そして、そのまま逃げるように小走りにその場からいなくなってしまう。修道女は明らかにこちらに対して恐怖を覚えている様子だった。
何だ・・・あの反応は?
ともあれおとなしく部屋に戻っていた方がよさそうだ。せっかく命を繋ぎ止めたのに、ここでもまたいらぬトラブルに巻き込まれて、危険な目にはあいたくない。
部屋に戻って、中を見渡すと、妙なことに気づく。あらためて自分が寝ていたベッドを見るとどうも違和感を覚える。先ほどは気づかなかったが、離れて見ると、どうもベッドには見えない。ベッドというより、長方形に切り出された石づくりの祭壇のようだ。
何だこれは?
首をかしげていると、部屋の扉が開き、声を掛けられる。
「生きていたの・・・」
振り返ると、そこにはアニサがいた。その顔は、影人の回復を喜んでいるといった様子は微塵も感じられない。というより、警戒心を露わにしたような顔つきだった。
別に抱きしめられて、感謝される・・・なんてことまでは期待していなかったが、こんな顔をされるとは思っても見なかった。
「・・はい。なんとか。この通り、体も大丈夫ですし。」
と、一歩前に出ると、アニサはこちらから逃げるように、後ずさりする。
「・・あなた何者なの?」
いよいよ様子がおかしい。
「・・・いったいどうしたんですか?。」
アニサはなおも冷たい視線をこちらに送ってくる。
「・・・昨日ここにあなたを運び込んだ時、手の施しようがないくらいの傷を負っていた。その時、あなたの心の音は間違いなく止まっていたはず。だから、私たちは、死の洗礼をした。それなのに、今になって急に目覚めるなんて・・・」
それはそうだろう。そもそも天然の心臓はとうの昔に摘出して、今では体内を駆け巡る医療システムがその代わりを果たしている。そんな処置は、一定程度の年齢に達すれば、誰もが受けていることだから、さして珍しいことではない。
だが、この世界の住民にそんなことを説明しても、魔術師の類と思われるだけだ。それにしても、瀕死の状態から息を吹き返すことがそんなにもマズイことなのか。
「・・・なんとか回復することができただけですよ。これも・・・あの・・か、神の御慈悲のおかげです」
とってつけたような言い訳を並べて、なんとかごまかそうとする。が、アニサは、こちらの言葉はまるで耳に入っていないのか、ただじっと一点を見つめている。そして、ふと何かに気づいたかのように、こちらに急接近してきて、着ている肌着を脱がそうとしてくる。
「ちょ、ちょっと・・・ど、どうしたんですか?」
服がたくし上げられて、肌が露出すると、アニサは、戸惑いと驚きが入り混じったような表情を浮かべる。
「・・・昨日はたしかに刺し傷が何箇所もあったはず・・・あんなに深い傷が一日で消えるなんて・・ありえない・・」
アニサは両腕を組み、威嚇するようにこちらに向き直る。そして、こちらをじっと見据えてくる。
「・・・もう一度聞くわ?あなた何者なの?あんな致命傷をどうやって治したの?」
「・・・ただの放浪者ですよ。傷は・・偶然・・そう神の奇跡で・・」
「いい加減にごまかすのはやめなさい。何か理解できないことが起きたら、全て神のせいにするほどわたしは愚かな人間ではないわ。それに・・・そんなことを頭の硬い上の連中に話したら、あなた・・神の奇跡どころか魔術を使ったと思われて火炙りにされるわよ。」
火炙りになるのは、ごめんだ。だが、この状況をどう説明すればよいのか。
そもそも、傷が治った仕組みや理論なんてのは、こっちだってわからない。認識していることと言えば、体内に無数に存在するナノサイズの機械が自動的に傷を修復してくれたのではないかという曖昧な予測くらいなものだ。
もっとも、刺されたことなんて今の今までなかったから、これほどの傷を治してくれるほどの性能があったなんて知らなかったのだが・・・
最先端の研究をしている科学者だって、一つ一つの細かな機械について、どういう仕組みで動いているか説明しろと言われてもお手上げだろう。当然、影人のような一般人がそんなものを理解して、説明できるはずがない。
既に大多数の人間にとって、身の回りを取り巻く科学技術の中身は、ブラックボックスで、魔法とたいして変わらない存在になっているのだから。
「・・その・・・ちょっと事情がありまして。実は、故郷で体にちょっとした医術を施してもらったので・・えっと・・・だから・・・たいていの傷なら治るんですよ。」
嘘はいっていない。ただ、ちょっと、いやかなり話しを省略しているだけだ。
他になんて説明すればいい?
とはいえ、そんなシドロモドロの説明でアニサを納得させることができるはずもなく、眉根を寄せて、こちらを睨んでくる。
「医術ですって?魔術の間違いじゃないの?そんな医術、聞いたことがないわ。教会圏の国々でも、いえ異教徒の国でも、そんな話しは噂ですら聞いたことがないわ。そもそもあなたの故郷はいったいどこなの?」
追求されればされるほど、ボロが出てしまうが、一度話をはじめた以上、どこまでも作り話を続けるしかない。
「故郷は・・そう・・ここよりはるか東方の海を隔てたさらに先にあります・・そこは古の帝国の失われた秘術や技術を継承していまして・・・」
自分で話しておきながら、バカバカしくなってしまう。それほど、荒唐無稽な話だ。だが、意外にもこれが功を成した。
アニサは、俯きながら、「帝国の?それなら・・・いえ・・・でもこんな医術が・・」とブツブツと言っている。どうやら、この地方の住民の古代帝国への畏敬の念は相当なものがあるらしい。
アニサは、しばらくして何かを決心したように、こちらの方に向き直る。
「いいわ・・・とりあえずだけど・・・その話しを信じることにするわ。あなたがしたことが何であろうとも、あの傷から回復したのは事実なのだから。」
「ありがとうございます。あと・・このことは・・内密にしてもらえると・・」
「ええ・・黙っておいてあげるわ。どうせこんな話を真面目に上に報告したところで、せいぜい魔術だの何だの言われて、醜聞に利用されるのが関の山だしね。実際に目にしたわたしだって、今でも信じられないのだから。それに・・・あなたには命を助けてもらったという借りがあるわけだしね。」
そうだ。そもそも、あの襲撃はいったい何だったんだ。そのせいで、命を落としかけて、感謝されるどころか、助けたその本人から詰問されて、こんな冷や汗をかく羽目になっているのだ。
「こっちの話ばかりで、肝心なことを忘れていましたけど、あの襲ってきた奴らは何だったんです?」
あの二人は、明らかにアニサを狙っていた。完全にこちらは巻き添えをくらった形だ。襲われた理由くらい話してもらってもいいだろう。
「おおかた教条主義者たちに雇われた奴らでしょうね。今、この街の教会内部は、今度の司教の選出を巡ってゴタゴタしているから。でも、まさかあんな白昼堂々襲ってくるとは思わなかったけれど。まあ・・・それだけあいつらも追い詰められているのかもね。」
教会も一枚岩ではないというわけか。まあ、これだけ大きな組織なら、様々な派閥があって当然だろう。脅迫状を送ってきた奴らも、もしかしたら、アニサが言う教条主義者たちなのかもしれない。
「それで・・・と言ってはなんだけれど、一つ仕事を頼まれてくれるかしら?単純な仕事よ。この内部のゴタゴタがおさまるまで、私の護衛をしてくれないかしら?」
まさか、仕事を依頼されるとは思わなかった。さっきまでは、散々問い詰めてきたのに、今度は一転して、自分を守ってくれとは、随分と都合の良い話しだ。
そんな感情が顔にも現れたのだろう。アニサは、こちらが乗り気ではないと察したのか、機嫌を取るように、上目遣いで、声のトーンも大分甘えた口調で、話してくる。
「ねえ・・もちろん・・十分満足する報酬を出すわ。それに、四六時中、一緒にいてくれという訳ではないのよ。修道院にいる時は、さすがに奴らも手が出せないでしょうし。移動する時に、付いていてくれればそれでいいわ。」
こうして今更ながら、マジマジとアニサの顔を見ると、やけに美人に見える。生還できたという興奮が刺激となり、そう思わせているのだろうか。
いや今はそんなことはどうでもいい・・
影人は、額に手を添えて、脱線した思考を、元に戻して、今考えるべき事柄に集中させる。
この仕事を受けるべきか・・・
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