興奮状態

いくら強さに憧れていても、リセイは向こうの世界では、自分が覚えている限りではまともに喧嘩をした経験もなかった。人どころか何かを全力で殴ったり蹴ったりしたこともない。肉を打つ感触も骨が砕ける感触も知らない。


こちらに来てから、鍛錬での実戦形式の組手で、グローブのような、なめした皮が編みこまれた分厚い手袋を使って殴ったことはあったものの、そこまでだった。


けれど今は、手甲と呼ばれる、拳そのものを武器とする攻撃にも使える防具を着けた手で、一切の容赦なく相手を打ちつけている。


普通なら躊躇してしまうかもしれないところを、


『僕がやらないとみんなが……!』


という想いのおかげで意識せずに済んでいた。アドレナリンをはじめとした脳内物質が大量に分泌されて一種の興奮状態にあるのだろう。それがまた、自制のタガを外してくれているものと思われる。


とは言え、リセイ以外の隊員達は普通の人間なので、中には圧される者もいた。


言われたとおりに剣を構え全力で刺突攻撃を行ったが角度が甘かったのか、ジュオフスの鎧のような脂肪層を突破できず、十分なダメージを与えられなかったのだ。


ジュオフスの方も当然のごとく興奮状態にあり、多少の傷では痛みを感じない状態らしい。


「あ…! うわ……っ!?」


剣が食い込んでいかず、それどころかジュオフスのごつい手に剣を掴まれてしまい、前にも後ろにも動かない。


その兵士は、死を覚悟した。自分に向けて伸ばされる手で頭を掴まれ、すさまじい力で首をへし折られる未来が頭をよぎった。


『くそうっ! オフクロ…すまねえ……っ!』


酒ばっかり飲んでは暴れて、挙句、喧嘩で命を落とした父親の代わりに女手一つで自分を育ててくれた母親に思わず詫びる。ここではリセイが主役かもしれないが、しかし他の人間達にもそれぞれ人生がある。たとえ名もない<モブ>であってもだ。


が、死を覚悟した瞬間、何かが恐ろしい勢いで回転しながら近付いてきたと見えたと同時に、


ゴッッッ!!


という硬い音と共に自分の目の前にあったジュオフスの頭が弾け飛んだ。それにより剣も自由になり、


「!!」


兵士は頭で考えるよりも先に体が反応して剣を改めて構え直し、地面に向かって倒れていくジュオフス目掛けて再び全体重を掛けた刺突を敢行した。


すると剣が、魔獣を地面に縫いつけようとするかのようにその体を貫いていく。


「ガアアアアアーッッ!!!」


恐ろしい叫び声が鼓膜を叩く。断末魔の叫びだった。ジュオフスが剣の刃を両手で掴み引き抜こうともがく。しかし兵士はさらに体重を掛けてぐい!とこじった。


するとジュオフスの血走った眼がグルンと裏返り、ビクビクと体が痙攣を始める。そして、意味のある動きをできなくなっていく。


倒したのだ。モブでしかない一人の兵士が魔獣を倒したのである。


なお、ジュオフスの頭を弾き飛ばしたのは、リセイの蹴りだった。たまたま次の相手に移ろうとしたリセイの前に頭があって、反射的に回し蹴りを食らわしてしまったというのが経緯だった。


が、それは兵士が相手をしていたジュオフスだったので、後は任せてリセイ自身は次へと移ったのだった。


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